1-1.桜に魅入られた少女
深霧市籠目坂地区籠目坂。
市の名前の由来となった深霧山の裾野に広がる、自然と人の暮らしが隣り合ったこの地域に、僕が通うことになった学校は門を構えている。
籠目坂高校普通科1年1組所属、出席番号7番。それが先週から与えられた、僕の新しい肩書きだった。
入学式もオリエンテーションもあらかた終わり、どこか浮ついていた教室の空気は落ち着きつつある。それに伴って、クラスの人間関係も徐々に固まっているように見えた。
同じ中学校出身者のグループ。自己紹介で趣味が一致した同好の士の集まり。ノリが合うというそれだけで意気投合した騒がしい男子たち。
中でもひときわ目立つのは、一人の少女を取り囲み、しきりに甲高い声を発している女子の集団だ。
「ビビるくらい肌綺麗だよねー」
「スキンケア何使ってんの?」
「え、えっと……」
制服を着崩した女子たちが放つどこか軽薄な言葉。その中心でぎこちなく口角を上げて何かを話している少女は、黒髪の集団の中では異彩を放つアッシュグレーの髪を持っていた。
確かハーフで母親が東欧の出身だ、と自己紹介で言っていたか。出自や見た目が特異である、それだけで好奇心の矛先になるには十分だ。
その光景は群れからはぐれた草食獣とそれに狙いをつけた肉食獣たちを彷彿とさせた。
彼女がカースト上位の女子たちのお眼鏡に適うのかどうか……そんなことは本来僕に関係ないのだが、問題はその品評会がすぐ隣の席で行われていることだった。
頻繁に上がる頭が割れそうになる声に辟易する。
耐えきれなくなった僕は、コンビニのパンが入ったビニール袋を手に取り席を立った。
こういう時に他の生徒は仲の良い者のところに避難しに行くのだろうが、あいにく僕にはそんな相手はいなかった。同窓の縁で繋がった者も偶然波長の合った者もいない。
だからといって、友人を積極的に作る気にはなれなかった。
無理に認められようとして悪目立ちするよりは、存在感を消す方がまだマシだから。
今の僕に必要なのは1人で落ち着ける場所だった。
入学してからの一週間で人気の無さそうな場所はほとんど下見していた。
施錠された屋上につながる扉前のスペースや校舎裏、体育館の裏手など……そのいずれも、僕のように平穏を求める者や秘密を抱えた不良たちのたまり場になっていた。
まだ調べていないのは一カ所のみ。
校舎の片隅から伸びた長い渡り廊下の先にある、白い塗装がところどころ剥がれた扉。
戦後間もない時期に建てられたという、平屋造りの旧校舎。その入り口の前に僕は今立っていた。
静かに口を閉ざしていた扉を引くと、耳障りな鳴き声が上がる。
それと同時に埃っぽい臭いが鼻先を撫でる。
旧校舎の中は数十年前から閉じ込められていたような空気で満たされていた。
担任が言うには、現在は備品の保管に使われるくらいで、授業など学校の活動で使用することはほとんどないらしい。空き教室の中を覗いてみれば、確かに机や椅子が雑多に積まれていた。
その隙間でうごめく小さな影。
形もハッキリしない黒い靄のようなものが、机の陰から陰へとせわしなく行き交っている。
ある程度覚悟はしていたが――やはりこのような場所には怪異が付き物だ。
常人の目には映らない、人ならざる存在。幼い頃から僕の両目はそういったモノを映すことができた。
この特別な能力に高揚感を覚えたことも一時期はあったが、今となっては無い方が良かったとさえ思える。
なんせ、知覚することはできても対抗する力は無いのだ。存在を捉えても触れることすらできない。それなのに向こうから干渉を受けることはある。
漫画の主人公のように怪異を吹き飛ばして人を救う、なんて夢のまた夢だ。
結局僕にできることは、見えているモノから目を逸らして、周りの人間と同じように振る舞うことだけだった。さもなければ怪異に目をつけられるか、人から奇異の視線を向けられるかだった。
浮かびかけた苦い思い出を振り払い、目の前の怪異を観察する。
経験上このレベルの――この世との繋がりが希薄な怪異であれば、こちらから積極的に関わらない限りは危険は無い。気にしなければ同じ部屋にいても大丈夫だろう。
こちらが無視していれば向こうも無視してくれる分、人の群れの中にいるよりはよっぽど過ごしやすい。
とはいえ、落ち着いて物を食べるにはできれば先客は居ない方が嬉しいのも事実だ。
なので一通り空き教室を見て回ることにしたが……状況はどこも似たり寄ったりだった。
宙を泳ぐ透き通った魚の群れ。教室の隅にうずくまるノイズのかかった子供。陽炎のようにゆらめいている山椒魚。存在の不確かなモノたちは僕のことなど意にも介さず、思うがままにこの世界を漂流している。
(……この様子だと、最初の教室が一番マシだったかもな)
昼休みの時間も限られている。次も駄目なら最初の部屋に戻ろう。胸の中で独白しつつ、先生と生徒ごっこをしているらしい白い小人たちに背を向け隣の教室へと足を運ぶ。
この時覚えた違和感の正体に気づいていたなら、僕の運命は変わっていたのかもしれない。
開いていた教室の扉。紙同士が擦れるかすかな音。それを無視していなかったなら、この先も平穏の檻の中で過ごすことができただろう。
しかし、この旧校舎は取るに足らない怪異の温床になっていると思い込んでいたために、僕は足を止めることができなかった。
教室に足を踏み入れる一歩手前、開いた扉から見えたのは――春の色だった。
室内であるはずなのに、桜の花びらがシックな板張りの床に散らばっている。
窓から一枚や二枚入り込んだ、という量ではない。淡桃色の点描が無数に重なって桜の絨毯を作っている。
その中心にポツンと置かれた椅子には、一人の少女が座っていた。
体が小さく中学生にも見えたが、間違いなくうちの高校の制服を着ている。胸元のリボンが赤色なので三年生だろう。
床についてしまいそうなほど長い濡羽色の髪、袖から伸びる白磁のような手、膝下丈のスカートに覆われた細い脚。
どこか古風で作り物めいた容姿の少女は、手元の文庫本に視線を落としている。
しかし、何よりも目を引いたのは――少女の胸のあたりを貫いている桜の枝だった。
無骨な太い枝からいくつも分岐した瑞々しい細枝は淡い花弁を纏っており、少女が身じろぎするたびに花びらを落とす。
少女の方はというと、異物が身体に刺さっているというのに苦しむような素振りは見られず、読書に深く集中している。
桜が織り成す神秘の帳は、文字通り現実離れした美しさを少女に与えている。気を抜けば時間も忘れて見惚れてしまいそうだ。
しかし、この桜は先ほどまでの部屋にいたような曖昧で弱い怪異ではない。
彼女の体を依り代にこの世と結びついている、現実に影響を及ぼしかねない代物だ。
ハッキリとした異物感が、その脅威を物語っている。
「……ん」
区切りの良いところまで読み終えたのか、あるいは見られていることに感づいたのか。
彼女は不意に本を閉じて顔を上げた。
身を隠し損ねた僕と視線がかち合い、何度か目を瞬かせた少女は――切れ長の目を細めて微笑を浮かべた。
「見たところ君は……迷子の新入生といったところかな」
言葉を発することも忘れたまま首を縦に振る。
正確には迷い込んできたわけではなかった、と思い出したのは後のことだった。
「久しぶりの調査依頼かとも期待したが……まあ、構わない。歓迎しよう」
……調査依頼?
彼女はいったいここで何をしているのだろうか。
そんな疑問が顔に出ていたのか、彼女は本に栞を挟み、立ち上がってこちらに近寄って来る。
彼女が一歩踏み出すたびに、床に敷き詰められていた桜の花びらが小さく舞い上がる。
背筋のピンと伸びたその姿は、小さな体躯を感じさせないほどに存在感があった。
「自己紹介がまだだったな。籠目坂高校三年生で奇譚蒐集編纂部部長の鶴喰七花だ」
堂々とした佇まいで白い手を差し伸べる彼女に気圧されて、僕はおずおずと手を握り返す。
指先から伝わってくる体温はひんやりと冷たい。
「後輩くん、君の名前は?」
「あ、ええと、亀戸空です」
「ふうん……いい名前だね。よろしく頼むよ」
そう言って妖艶な笑みを浮かべる彼女の姿は、桜の花そのものを想起させた。
二つの意味で怪異にとり憑かれた少女、鶴喰七花。
これが彼女との出会いの馴れ初めであり……波乱に満ちた日常の幕開けであった。




