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太陽が沈んだ森の中は、景色が一色に切り替わる。
緑や濃い青で埋め尽くしていた世界は、いつしか直接視界を奪うほどの一面の黒で周囲を覆う。
両手を動かして走れば、まるで先の見えない海の中を泳いでいるようなおかしな錯覚を与える。ここがどこで、今どこを通っているのか、そんな当たり前の常識すら壊してしまうことこそ、夜の森を歩くということだ。
「今日は、ここまでが限界だ」
肉体強化の魔法が解除されて、その場に膝をつくのは保とリーア。
地面から飛び出した木の根っこの間は、ちょっとしたスペースになっており、潜り込むようにして二人はそこに腰掛けた。身体能力を高めたとはいっても、使うのは肉体。どちらにしても、疲労は蓄積されるのだ。保はまだ自分ならいいと考える、リーアにとっては魔法を使用しながらの移動になるので、負担が大きくなっていた。
足を投げ出した途端に、保の体をどっと疲れが襲った。
「一日走り続けたのなんか、久しぶりだぜ……」
リーアには悪いと思いながらも、保の体はずっと前からひーひー悲鳴を上げていた体をすぐに休ませたかった。実際、リーアも保が無理をしていることに気づいたのか、昼過ぎから小刻みな休憩が行われていた。
「タモツお兄ちゃん、これを」
リーアから保へ差し出されたのは、桃によく似た木の実だった。二、三か所に目立つ傷があるものの虫食いなんかも無く、柔らかい暖色が食欲をそそる。
器用にも走りながら食料を集めるような森育ちのリーアは頼りになるなと感謝しつつ、素直に保はいただくことにした。
どういう食べ方なのか分からないので、皮ごとかじってみればしゃりしゃりという食感が果物本来の味をおいしくさせた。
「甘くておいしいな、何だかほっとするよ」
「それなら良かった。これは、テーチという木の実なんだ。腹も膨れるし、栄養も豊富だ。長時間の戦いになる時は、私の集落の戦士達なら当然のように携帯している」
へーと食事に熱中してしまい空返事になってしまうが、リーアは自分のテーチの実を食べながら嬉しそうにしていた。
あっという間に食べ終わったテーチの種を名残おしいそうに口の中で転がしながら保は話を切り出した。
「あれから、二日か……」
「ああ、もう二日も森の中で逃げている。だけど、この速度を維持していけば、明日の日中には森を抜け出せるはずだ」
頷いた保は、ぼんやりとこの二日の間の出来事を思い出していた。
※
「トオガは、どうしたんだ……」
流れの緩やかな川のほとりで、目覚めた保がリーアにかけた第一声がそれだった。
息を呑んだリーアは、何かに躊躇するような表情を見せたかと思えば、ゆっくりと首を横に振って言った。
「私達を逃がすために、お父様……ギマリスと戦っている」
「そんな……。今からじゃどうしようもないのか!?」
「もう半日も経過している。どちらにしても、決着は着いているだろう」
全身から力が抜ける。保は初めて知った。精神的な疲労が限界に達すれば、体のの疲れなんて上回ってしまうことを。
下を見たことで、自然と流れる川の水面に映る自分と目が合う保。忌々しい気持ちで、保は言葉にならない声で振り上げた拳を水面に振り下ろした。上がる飛沫が保の顔にかかれば、それは涙か水かも判断がつかない。
「俺の力不足が原因で、せっかくできた友達を失った……。俺なんかよりも、アイツの方が生きていた方が良かったはずなのに……」
「――そんなことはない」
おろおろと心配した雰囲気だったリーアがきっぱりと保の顔を見て言った。
「俺は魔法も使えないし、協力者も、知識もない。そんな俺が生きていて、何になるんだよ」
「私がここに居るだろ。私がここに居ることこそ、お前の価値だ」
「リーアがここにいる……?」
「本来なら、私はここには居なかった。下手をしたら、父上と共にお前を殺していたかもしれないし、トオガに殺されていたかもしれない。だが、タモツお兄ちゃんが私の過去を変えて未来に新たな希望を示してくれたのだ」
「こんな俺が希望だって言うのか。もしかしたら、俺が何もしなければ、トオガは生きていたかもしれないのに!?」
「何もしなければ、私かトオガのどちらかは確実に死んでいた! 今はまだトオガ生きているかもしれないという、希望が残っているじゃないか!」
体を前のめりにして叫んだ保を押し返すように、ぐいとリーアが上半身を前に出した。そして、八割がた破壊された鎧を脱ぎ捨てると、力強く保を抱きしめた。
自分の胸元に保の顔を押し付け、無理やり引き剥がそうとする保を逃がさないようにさらに両手に力を込めてリーアは保の頭を抱え込むようにする。
「よく聞いてほしい、タモツお兄ちゃんは、私の過去の精神世界に行ったと思っているだろうが、実はあの時タモツお兄ちゃんは精神世界には行ってはいない。どういう訳か、私の魔法が暴走したことで霊体のように曖昧な存在になり過去の世界へと飛んでしまっていたようなんだ。事実、幼い私の記憶はもちろん集落にも痕跡が残っている。……タモツお兄ちゃんは、過去そのものを変えてしまったんだ」
驚愕の真実に喋ろうとした保だったが、それすらも良しとしないリーアがさらに強く抱きしめたことで質問することはできなかった。そのまま、リーアは次の言葉を紡いでいく。
「私の心臓の音が聞こえるだろ? あれからずっと、あの日の幼い私は……ダメだと思いながらも……お前に、タモツに、恋をしていた」
「げほっ―ー!?」
「顔を上げないでくれ!」
勢いよく上がった保の顔をすぐさま胸に埋めなおすリーア。
今までに経験したことのない熱い視線をリーアから感じたが、まさかこういう形で信頼されているとは保は思いもしなかった。忙しそうに鼓動する心音を聞きながら、保は大人しく口を閉じていた。
「おかしなものでな、私には同時に二つの記憶がある。タモツお兄ちゃんを知らない私と知っている私。最初は混乱したが、すぐに答えは出たよ。幼い頃にタモツお兄ちゃんと出会った私の人生の方がずっと幸せだった。政略結婚から逃げてはお兄ちゃんを思い出し、水浴びでは他の男達に肌を見せたくないと時間を変えた。……記憶の中の私には、私が忘れかけていた女としての部分と生きていた。しかし、同じ時代を生きることのできないエルフの私は、お兄ちゃんに再会することを諦めていた。だが、今目の前にお兄ちゃん居る。……こんなに嬉しいことはないんだぞ」
こほん、とリーアは軽く咳払いをする。
「すまない、嬉しさのあまり話が逸れた。……タモツお兄ちゃんが居たからこそ、私は他の種族との共存の道を探したいと思えた。トオガではできない、ましてや私では考えることすらできなかった。そんな膠着した状況を、お兄ちゃんはあっさり変えたんだ。だからこそ、トオガは自分の命を懸けてまでタモツお兄ちゃんを逃したかったんだよ。……私が逆の状況なら、きっと同じことをしていた」
リーアのテンポの速い心臓の音が静かになっていくように、言葉を最後まで聞いた保の心も落ち着いていった。
「お兄ちゃんの命には何一つとして無駄ではない。トオガの行いもきっと無駄ではない、ただ無駄で終わらせるのではなく、例えトオガが死んでしまったとしても、お兄ちゃんが心の底からトオガを友だと思うなら、彼の命を死後も輝かせる為に生き続けてほしい。今、お兄ちゃんの命は……私やトオガの命をより輝かせる為の命でもあるんだ」
「本当に……俺が生きていることに意味なんてあるのかな……」
「それも全部、お兄ちゃん次第だよ」
リーアの胸の中で保は必死に頷いたが、首を元の位置に戻す頃には我慢できずに声を荒げて泣き続けた。まるで、産まれたばかりの子供のように、ひたすらにわんわんと。
※
そして、リーアの強化魔法を受けて二日逃げ続けた現在。回想を終えた保は、申し訳なさそうにリーアに言った。
「……あの時は、悪かったな。リーア」
「あの時?」
「ほ、ほら、俺がリーアの前でみっともなく泣いたアレだよ」
改めて言う保もなかなか恥ずかしい気持ちだが、思い出したリーアも少しだけ頬を桃色にして、ああ、と声を漏らした。
「気にしなくていい。私にとっては、いい思い出だ」
「あれだけリーアに失礼なことをしてきた俺に、お前は優しすぎるよ」
「う、うむ……。まあ敵戦士に辱めを与えるという意味では、下手な魔法より効率的かもしれんが……」
「お、思い出さなくていいよっ!?」
状況が状況だから仕方なかったかもしれないが、あの時の保はまともな思考じゃなかったことをしみじみに思い出した。運の良い出来事が重なったから何とかなっているが、下手をしたら元の世界ではあれだけ保を苦しめた保ジュニアともおさらばしていたかもしれないのだ。
嫌な想像を振り払うように保は頭を振れば、話題を変えることにする。
「これから、どうしたらいいと思う? 移動しながら話をしたが、俺には記憶がない。この世界の常識にも疎いんだ」
異世界から来たと言えば混乱させてしまうかもしれないので、記憶喪失だということにしている。無論、リーアが見た保の過去の世界の記憶というやつには思い当たらない演技もした。いつかは話さないといけないだろうが、今はまだ黙っていることが賢明だろうというのが、保の考えだった。
逃避行の間もリーアは考えていたのか、思ったよりもすぐに返事が返ってきた。
「昨日も言ったが、この先にはリッドガリアという街がある。人間の街だが、多種族も交流する絶対中立の街なんだ」
「あんまり詳しくないけどさ、そんな都合のいい街てあるのか」
「察しがいいな、タモツお兄ちゃん。多くの種族が居るだけあって、犯罪も多く、小さな差別から大きな事件まで様々なことが毎日のように起こっているらしい。下手をしたら、私達だってすぐに巻き込まれてしまうかもしれないな」
そうは言うが、リーアの口調は実に楽しそうだ。
「だからこそ、俺達が自由に動けるということだな」
「肯定だ。この森の中に居れば、ウルフェス族にもエルフ族にも狙われる危険性が高い。それも大勢にだ。しかし、名目上は絶対中立の街ならお父様も目立った行動はできないさ。仕事も豊富で人も多いなら、今の私達にはピッタリな街なんだよ」
へえ、と感心したように声を漏らした保は、何気なく質問をした。
「そういや、アテはあるのか?」
テーチの実を後少しで食べ終わろうとしていたリーアの動きがピタリと止まった。代わりに、だらだらと体調が心配になりそうなほどの汗が流れ出ている。
「す、すまない……私はこの森の中からろくに出たこともないんだ。行ってみれば、何とかなるかもしれないと思ったんだが……悪いか!?」
「悪くはないしし、俺は責められる立場じゃないが……そんなことだと思ったよ」
意外なリーアの一面に吹き出し、保は慣れ始めた土と葉っぱの寝床に転がる。
「――と思ったんだ」
見えないほど遠くから、でギュアギュア泣いてる鳥よりもずっと小さな声でリーアが何かを呟いた。
「ん? なんだ」
逃亡生活唯一の楽しみである夜空を見上げながら、保は聞いた。
「……タモツお兄ちゃんと二人なら、どんな困難でも乗り越えられる気がしたんだ」
ストレートな言葉に、保の心臓が跳ね上がった。じわりと手や額の辺りが汗で湿っていくのを保は感じた。
「俺のどこがそんなに気に入ったのか分かんないよ。でも、そこまで言ってくれて、ありがとう。……そういや、リーアていくつなんだ?」
「百七十歳だ」
「ははっ……そりゃすげえな」
「ああ、凄いぞ。あの時が十歳ぐらいだから、百六十年間の片思いになるな」
少女のような顔でリーアが言えば、戦っている時では決して見えなかったリーアの内側の乙女の部分を強く意識させた。
ずっと走り付けていたせいで、リーアの服や顔には土が付いているが、それでも彼女の美しさは変わることはない。それどころか、頬を染めて愛を語るその表情を見ているだけで、保の鼓動は次第に早くなる。
上下に着ていた鎧も完全に外れてしまっており、腰から下は茶色のミニスカートを着ている。すらりと伸びた白い足が、月に反射するほどだ。単なる足だというのに、見ているだけで頬ずりでもしたくなってくるような不思議な魔力のようなものを与えてくる。
「タモツお兄ちゃん、ここが大きくなっているぞ」
「はあ!? いや、まだそんなになってないよ!?」
まさかと思い、体を起こせば、リーアは首を傾げるだけだ。
「何を言っているんだ? ……一緒に居て、大きくなっているんだよ」
もう一度噛み締めるようにリーアが言えば、その手を胸元に当てていた。それだけで、ぐにゃと形の変わる胸は、今の保にはたまらないぐらい目に毒だが、勘違いだったことに保は胸を撫で下ろした。
「どういうことだ」
「タモツお兄ちゃんと過ごして、私の中の愛がどんどん大きくなってきたんだ。好きだ、もっと一緒にいたい、抱きしめてほしい……誰かを愛するということは、不思議なものだな」
「そ、そうか……」
まともに女子と喋ったことのない保からしてみれば、恐ろしいほど真っ直ぐに保に自分の愛を突きつけるリーアにどんなことを言えばいいのか分からない。ただ、一つだけはっきりとしておかなければいけないことがあった。
「俺、リーアの好意に返事した方がいいんだよな?」
あっさりとリーアは否定した。
「無理をしなくていい、どうせこれからは運命共同体みたいなものになるんだ。迷惑だったかもしれないが、私の気持ちを知ってほしかっただけだ。……今は目の前にタモツお兄ちゃんが居るだけでも胸が一杯になってくるよ」
月明かりの下、リーアはあの時見た少女よりもずっと大人びて微笑んだ。少女に重なる面影が、積み重ねたリーアの愛の深さを語っていた。
「リ、リーア……俺……」
自分が何をしたいのか、今の状況が分かっていないのか、保はただリーアに触れたいと思った。その為に震える手を伸ばした。
「――童貞坊やが処女に手を出すなら、もっと綺麗なところにしなさい」
「きゃっ―ー!?」
「んな!? その失礼な物言いは!?」
存外に可愛いリーアの悲鳴を聞きながら、来訪者の方を見れば、一人の女性が立っていた。その女は、見覚えのあるが実際に触ったことのないゴムの物体を引き伸ばしながら、にんまりと笑いかけてきた。
「避妊具もあるけど、使う? これ、私の開発した商品の中でも大ヒット商品なんだー」
保達よりも頭二つは高い土が盛り上がった場所から、さも楽しそうにアキホが見下ろしていた。




