月の宮は眠り続ける。
月の宮は、今日も唯々存在し続ける。
主をその身に抱き、彼女の記憶をたどり優しい幻を自らに与えながら。
月の宮が消えた時、月の光と共に降り注いだ絶望も消え去った。
残されたのは、国王とその騎士達。
今まで月の宮があったはずの、広大な草原。
何が起きたかわからないまま立ち尽くしていた彼らは、様子を見ていた民衆に……事情を理解している宮女や護衛騎士たちに囲まれ命果てた。
国の王族も次々と糾弾され、ヘリオスの実家も没落した。
周辺の国々は話し合い、これからは何かに頼ることなく平和な世にしていくことを決めた。
月の魔女、しろきひとの話は童話へと変えられ、子供たちの戒めとして語り継がれた。
――わがままを言うと、しろきひとが自ら築いた月の宮殿にお前を攫いに来るよ……
すべて地上の物語。
月の宮の二人には、届くこともない。
――ネアイラ、いつか君と笑い合えますように
魔女としての時を眠ったまま過ごしたのち目が覚めたネアイラは、自分の手に重みを感じて視線を動かした。
そこには。
「ヘリオス……」
記憶と寸分違わない、ヘリオスの姿。
ネアイラの手を握りしめ、頬をベッドにつけて座っている。
けれど、ネアイラにはわかっていた。はるか昔に、彼の命が消えていたことに。
月の宮の力で、彼は死んだその時のまま存在しているだけ。
そうとわかっていてもネアイラは切なくて悲しくて、そして嬉しくて。
彼の頬に、ゆっくりと手を伸ばした。
「ヘリオス、ヘリオス……!!!」
私に巻き込まれたばかりに、私が巻き込んだばかりに、生涯を一人で終えた私の唯一の人。
でもね、もうすぐだから。もうすぐ、あなたの所に行くよ。
起き上がり、ヘリオスを床に横たえる。
既に魔力のないネアイラには、彼をベッドに引きあげることはできない。
ベッドから掛け布をとり、ヘリオスにかけた。
そうしてその横に入り込む。
冷たい肌に、自分の体温を移していくように。
はらりと前髪が落ちる。自分の髪だというのに、見慣れぬその色に口元が緩む。
それは、濃い茶色。ヘリオスと同じ、大地の色。
「目だけじゃなくて、髪も一緒だったんだね」
きっと私の肌は、血の通ったような赤みをさしているだろう。
人に戻れたことが、面映ゆく……幸せ。
ヘリオスと同じ時の流れに、身を委ねることができるから。
「ホントはね、たくさんたくさん考えたんだよ。できない事ばっかり」
ネアイラは、物言わぬヘリオスに語り続ける。
それは数百年も前の、眠り続けるネアイラに話しかけながら過ごしていたヘリオスのように。
結婚して一緒に住んで、一生懸命働いて私達だけの家を建てるの。
月の宮も好きだけど、ここは私の帰る場所じゃないから。
ヘリオスと二人でいられる家が欲しい。
子犬を飼って、子供たちと遊んで、なんでもなく一日が終わる。
大好きよと、あなたに伝えて。目を瞑れば、あなたの温もりに包まれて。
明日も同じ日々が続くと信じて――
ネアイラの頬に、一筋涙が零れた。
「たくさんね、たくさん願って。たくさん諦めた。それでもあなたの優しさに包まれて、幸せだった」
ヘリオス。
私もね、もう一度あなたの笑顔が見たい。
ヘリオスの手に握られていた、最後の手紙。
――ネアイラ、いつか君と笑い合えますように
「ヘリオス、あなたの声を聴きたい――」
その瞳に、人としての私を映して欲しかった――
月の神は、その姿を見ていた。
初代魔女を思い出しながら。
太陽があと14回ほど世界を巡れば、ネアイラは消え去る。
それが早くても遅くても、月の神には関係ない。
けれど、彼女が涙を流し亡き者を呼ぶ声は心を揺さぶった。
本来干渉できない立場ではあったが、最初に始めたのは自分。
彼女の願いを聞き届けてやろうと思い立つ。
けれど自分勝手な神は、ネアイラに何も聞かずにその力を行使した。
「……ネアイラ?」
来なかった未来を語り続けていたネアイラは、その声に目を瞠った。
顔を上げれば、うっすらと目をあけたヘリオスの姿。
自分と同じ土色の瞳に、驚いたネアイラの顔が映っている。
「ヘリオス……」
そう名前を呼びながら手を伸ばすけれど、彼と共に在れる時は刹那だと本能が告げていた。
それはヘリオスも同じようで。
性急な仕草で、ネアイラを抱きしめる。
「会いたかった、声を聴きたかった……!!!」
その体の熱さに、ネアイラも伸ばした両腕をヘリオスの背中にまわした。
「私もだよ、ヘリオス」
愛してる。
そう囁いて笑ったネアイラに、ヘリオスは今まで我慢していた愛情の印を送った。
「愛してる、ネアイラ」
触れたのは一瞬だったけれど、二人には充分だった。
笑顔で目を見合わせる。
そうして、もう一度唇を重ねたその刹那……
ネアイラは魔女だった。彼女の髪は溶け始めの雪の色。
瞳は豊かに肥える土の色。
月に巨大な宮殿を築いて、たったひとりで暮らしていた。
彼女の魔法は多くの人に恐れられた。
今はもう魔女はいない。
――失われた国の童話より――
これにて完結。
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