第151話:【剛と雅】
【あらすじ】
欧州から帰国し、盛岡で新たな環境に身を置く氏真。そこで出会った一年生・諸島憲二は、強靭な体幹と鋭い読みを武器とする異色の司令塔だった。互いの強さを確かめるように始まった一対一。その夜、二人のフットボールが激しくぶつかり合う。
1.限定される航路
秋の夜風が、誰もいない第2グラウンドを吹き抜けていく。
校舎の窓から漏れるわずかな明かりを頼りに、即席で置かれた二つの赤いコーンの間をゴールに見立てた一対一が続いていた。
「来い」
諸島憲二の低く乾いた声が、冷えた大気に落ちる。
百七十五センチの身体をわずかに沈め、諸島は氏真の前に立ちはだかっていた。百八十センチを超える氏真より頭半分ほど低いが、その立ち姿には微塵の隙もない。
氏真は足裏でボールを引き、静かに間合いを測った。
息を吸い、身体の余分な力を抜く。
右足のアウトサイドでボールをわずかに前へ突出し、一歩目を踏み出す。
その刹那、目の前の空間が急激に狭まった。
諸島の間合いの詰め方は、欧州のユースで対峙してきた屈強なディフェンダーたちとも異なっていた。
闇雲に突っ込んでくるのではない。
氏真のつま先の向き、骨盤の角度を観察し、右へ持ち出せないよう、自らの左肩を斜め前へ滑り込ませてくる。
進行方向が、外側のタッチライン際へと限定された。
それだけではない。
諸島の視線は、氏真の顔でもボールそのものでもなく、氏真が次にボールを置くであろう「足元の空間」に注がれていた。
ファーストタッチの置き所を狙われている。
(コースを塞ぐだけじゃない。僕がボールに触る瞬間そのものを潰しに来ている)
氏真は左足を踏み込み、身体を半身に開いた。
諸島が寄せてくる圧力を利用し、相手の懐へ潜り込むようにインサイドでボールを切り返す。
相手の勢いを受け流して裏へ抜ける、最小限の身のこなし。
だが――。
ガツン、と硬い衝撃が氏真の腰へめり込んだ。
「っ……!」
かわし切れない。
諸島は氏真の切り返しに釣られていなかった。
外へ逃げようとする氏真の進行方向へ、自らの太ももと腰を迷いなくねじ込んできたのだ。
反則を取られないぎりぎりの接触。
低い重心から伝わる体幹の重みが、氏真の軸を揺さぶる。
ボールが足元からわずかに離れた瞬間、諸島の右足が鋭く伸びた。
バチンッ、と乾いた音が夜の闇に響き、ボールがタッチラインの外へ弾き出された。
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2.「剛」の正体
「コースが甘い」
諸島は息を乱すこともなく、転がっていったボールを拾いに戻った。
「身体を開くのが早すぎる。いくら足元が柔らかくても、進路を読まれて身体を当てられたら終わりだ」
冷ややかな指摘だった。
氏真は乱れた息を整えながら、自分のスパイクの先を見つめる。
欧州のトップレベルであれば、これほどの強度で寄せてくる相手に対しても、味方とのワンツーや死角へのパスで局面を解決できた。
あるいは、純粋な初速で置き去りにすることもできる。
だが、この狭い一対一では、諸島は氏真の初速すら殺しに来ていた。
「もう一本」
氏真が言うと、諸島は無言でボールを足元へ転がしてきた。
今度は、氏真が守備に回る。
諸島がボールを収めた瞬間、その空気が一変した。
セントラル・ミッドフィールダーとしてAチームの攻撃を組み立てる男のボールキープは、盤石そのものだった。
大柄ではない。
だが、骨盤がしっかりと立ち、腕を広げて氏真の進入を阻む背中の壁が分厚い。ボールを常に軸足の近くへ置き、氏真の長い足が届かない位置を維持している。
諸島が仕掛けた。
右足で力強くボールを押し出し、氏真の右サイドを強引にこじ開けにかかる。
直線的な推進力。
身体ごと押し通すような重厚なドリブルに対し、氏真は力で対抗せず、諸島の突進の向きに沿って自らの身体を後退させた。
相手の力が伸び切る瞬間を待つ。
諸島が最後の一歩を踏み込んだ刹那、氏真は脱力していた右足を鋭く伸ばし、ボールの軌道上へ足を差し入れた。
カツッ。
爪先がボールを捉える。
触った――そう確信した瞬間だった。
「ぬるい」
低い声とともに、氏真の視界が傾いた。
ボールを突かれ、体勢を崩したはずの諸島が、強引に軸足を立て直していた。
よろめきを次の推進力へ変え、ボールを突いた氏真の身体へ、横合いから分厚い胸板をぶつけてくる。
ドサッ、と土の上に氏真の膝が落ちた。
諸島は何事もなかったかのようにこぼれ球を足元へ収め、二つのコーンの間へインサイドキックを通した。
「一本」
諸島はそう呟くと、ボールを足裏で止めた。
膝についた黒い土を払いながら、氏真は立ち上がる。
欧州の屈強な大型選手であれば、一度軸を崩せば体勢を立て直すまでに一拍の遅れが生じる。
だが、諸島は違った。
崩れたバランスを筋力と体幹の粘りで立て直し、二歩目、三歩目で再び襲いかかってくる。
一度外されても、追いついてくる。
単なるパワーではない。
相手の次の動作を予測し、間合いを詰め、身体を当て、二歩目の追撃でボールを回収し切る。
これが、城南の一年生司令塔が持つ「剛」の正体だった。
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3.「起こり」の観察
「どうした。もう終わりか?」
諸島の声に、挑発の色はなかった。
ただ、目の前の相手がこれ以上引き出せるものを持っているのかどうかを、正確に測るような響きだった。
氏真はジャージの襟元で額の汗を拭う。
肺の奥が熱い。
太ももの筋肉が軋んでいる。
だが、頭の中は驚くほど冷えていた。
(力で抗おうとしちゃいけない。相手の体幹の強さに付き合えば、体格で劣る僕が弾き飛ばされるだけだ)
氏真はボールを受け取ると、ゆっくりと腰を落とした。
欧州で培ってきた感覚を、頭の中で手繰り寄せていく。
諸島が奪いに来る瞬間。
そこには必ず、わずかな前兆があるはずだった。
どれほど強靭な肉体を持っていようと、静止した状態から一気に身体をぶつけることはできない。
踏み込む直前、筋肉が収縮し、体重が移る瞬間――「起こり」がある。
(ボールを見るな。相手の身体を見るんだ)
氏真は視線を上げた。
諸島が間合いを詰めてくる。
左肩を前に出し、氏真のコースを限定しながら、右足の踏み込みを狙っている。
氏真はボールを足元に止めたまま、動かない。
諸島の歩幅がわずかに狭まった。
来る。
右足首に微かな緊張が走った。
腰の高さが、ほんのわずかに沈む。
重心が前へ移り、軸足に体重が乗る。
その「起こり」を捉えた瞬間、氏真はボールを大きく蹴り出さなかった。
諸島が奪いに踏み込んでくる方向、そのわずか先。
触るか触らないかという最小限のタッチで、ボールを前へ置き直した。
「――っ!?」
諸島の喉から、微かな息が漏れた。
踏み込んだ右足が、ボールのあった土を虚しく蹴り抜く。
前への推進力に体重を乗せてしまった諸島の身体が、ボールのない空間へ流れた。
氏真はその勢いを避けるように半身を入れ替える。
諸島の身体の横をすり抜け、背後へ出た。
コーンの間へ、右足のインサイドで丁寧にボールを転がす。
「……一本」
氏真の静かな声が、夜のグラウンドに落ちた。
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4.循環する対策
諸島は足を止め、振り返った。
コーンの間を抜けて転がっていくボールをじっと見つめ、それから氏真の顔を見る。
その瞳にあった冷徹な光が、わずかに揺れた。
「……今のは、何だ」
「重心が動く瞬間を見たんだ」
氏真は息を整えながら答えた。
「諸島さんが奪いに来る時、必ず右足を踏み込む前に腰が沈む。体重が乗ってしまえば、その瞬間は方向を変えにくくなる。だから、その足が届かない場所へボールを置き直した」
諸島は眉をひそめ、自分の右足を見下ろす。
それから、低く喉を鳴らした。
「面白いな。俺の踏み込みの癖を見抜いたのか」
「見抜いたんじゃないよ。必死で見ようとしなきゃ、止められなかったからだ」
氏真の言葉に嘘はなかった。
少しでもタイミングが狂えば、再びあの圧力に弾き飛ばされていた。
「よし、もう一回だ」
諸島がボールを拾い上げ、氏真へ投げ渡す。
その顔から、先ほどまでの観察するような距離感が消えていた。
ただの「欧州帰りの客分」を見る目ではない。
一人のフットボーラーとして、本気でねじ伏せたい相手を見る目だった。
勝負が再開された。
今度は諸島も、氏真の外しを警戒している。
力任せの踏み込みを抑え、重心を落としたままじりじりと距離を詰める。
氏真が脱力して身体の向きを変えようとすれば、その肩の傾きから次のコースを読み、一歩早く進路を塞ぎに来る。
氏真が最小限のタッチでボールを動かそうとした瞬間も、諸島は踏み込まず、軸足を残したままコースを消した。
「しまっ――」
ガツン、と身体がぶつかる。
ボールがこぼれた。
諸島が鋭く足を伸ばして奪い、コーンの間へ蹴り込む。
「一本」
諸島が息を吐く。
「もう一回!」
氏真が言った。
今度は氏真が相手の予測の裏を突く。
身体の向きで右へ行くと見せ、諸島が進路を塞ぎに動いた瞬間、その勢いを利用して逆方向へボールを逃がした。
諸島が踏み直す。
氏真は一歩先へ出る。
だが、諸島も追いつく。
外す。
塞ぐ。
奪う。
かわす。
また読む。
ねじ伏せる「剛」と、受け流す「雅」。
それは単純な力と技の対立ではなかった。
諸島は氏真の身体操作を読み切るために頭を働かせ、氏真は諸島の圧力と二歩目の追撃をかわすために観察を深める。
互いに相手を知り、そのたびに次の手を探す。
ボールが土を削り、激しい息遣いが重なった。
どちらかがコーンの間を通せば、もう一方がすぐに奪い返して通し返す。
点数は並んだまま、勝負は一進一退を繰り返した。
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5.夜風の約束
カシャン、とボールがグラウンドの防球ネットを叩いた。
跳ね返ったボールが、力なく土の上を転がっていく。
二人は同時に足を止め、その場に膝をついた。
「ハァ……ハァ……ッ」
荒い呼吸が、静まり返った夜のグラウンドに響き渡る。
吐き出す息が、白く夜空へ立ち上った。
ジャージは泥まみれになり、汗が顎から土の上へ滴り落ちる。
校舎の窓明かりは、とうに消えていた。
勝敗は、つかなかった。
どちらも決定的な差をつけられないまま、体力の限界が訪れていた。
だが、氏真の胸の奥にあった感情は、不思議なほど澄み切っていた。
盛岡へ戻って以来、母の病室で感じていた無力感。
公式戦に出られない焦燥。
Bチームで味わった、誰とも噛み合わない疎外感。
そんなものが、この一対一の中で、汗とともに流れ落ちていた。
(楽しい……)
胸の奥に、自然とその言葉が浮かぶ。
世界の頂点に立った欧州のピッチでは、勝つことが義務だった。
結果を出すことが、求められていた。
だが今、目の前にいるこの少年とボールを奪い合う時間には、それとは違うものがある。
自分の持てるすべてをぶつけたい。
もう一度、試したい。
ただ、それだけだった。
欧州を離れて初めて、氏真はこの北の地で、自分のプレーを本気で試したくなる相手に出会っていた。
「……おい」
不意に、横から声がかかる。
顔を上げると、諸島が立ち上がり、ジャージについた土を手荒に払い落としていた。
肩で息をしながらも、その瞳には研ぎ澄まされた光が宿っている。
諸島は氏真に手を貸すような真似はしなかった。
ただ、足元へ転がってきたボールを右足でピタリと止め、短く告げる。
「明日も来い」
それだけだった。
余計な賛辞も、勝負の総括もない。
だが、その一言には、再戦への誘いと、言葉にしない敬意が込められていた。
氏真は土まみれの手で膝を押し、ゆっくりと立ち上がる。
冷たい夜風が、汗で濡れた前髪を揺らした。
「……うん。」
氏真が頷く。
諸島はわずかに口元を緩め、ボールを小脇に抱えて用具小屋へ歩き出した。
遠ざかっていく背中を、氏真は見つめた。
勝敗は、つかなかった。
けれど――止まりかけていた氏真のフットボールの時計が、今、確かに動き始めていた。
【次回予告】
人を見る諸島。空間を見る氏真。
同じピッチに立ちながら、二人が見ているものは違う。
だが、その違いが交わった瞬間――氏真のサッカーに、新たな扉が開く。
第152話:【異なる理解】次なる天下へのパスを回せ!
ーーーーお願いーーーーーーーーーーーーーーーーー
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
もし今日、ほんの少しでもこの物語に心を動かされたなら――、ちょと面白いと思ったら――
投げ銭はいりません。
その代わり、せめて、評価☆☆☆☆☆を一つ、何卒、そこをなんとか置いていってくださいませ(笑)。
今後も氏真の物語を、温かく一緒に見届けてください。




