第140話:【ユースCL決勝前夜:ジュネーヴの夜】
【あらすじ】
ユースCL決勝を翌日に控え、ジュネーヴの夜を歩く氏真たち四人。これまでの激戦を振り返る中、最後に立ちはだかるイングランドの覇者、その強さが語られる。それでも彼らの心にあるのは恐れではなく、仲間とともに自分たちのフットボールを貫く覚悟だった。
1. 湖畔の風
水面を渡ってきた風が、初夏の生ぬるさをさらっていく。
スイス西端、レマン湖の南岸に位置する街、ジュネーヴ。
ローヌ川が湖から流れ出る河口の近く、石畳の遊歩道を、青と臙脂のチームジャージを着た四つの影が歩いていた。
氏真、エステバン、ダビアン、そしてレオン。
夕食後の散歩に出てから二十分。
観光客の姿もまばらになったプロムナードには、淡い街灯が等間隔に落ち、湖上には遠く大噴水の白い飛沫が夜空へかすんでいた。
「……バルセロナより、だいぶ涼しいな」
ジャージのポケットに両手を突っ込んだエステバンが、首をすくめる。
「アルプスから吹き下りてくる風の影響だね。明日の昼も二十度前後で収まるらしい」
隣を歩くレオンが、前を見据えたまま返した。
ドイツ出身のウイングは、移動用のスニーカーの紐を几帳面に揃え、規則正しい歩幅を崩さない。
「いい気候じゃないか。走っても息が上がりにくそうだ」
ダビアンが肩を回し、弾むような足取りで欄干のそばへ寄る。
水面には、対岸の街並みが細長い光の帯となって揺れていた。
誰からともなく足を止め、石造りの欄干に並んで身体を預けた。
届くのは、岸辺を洗う小さな波の音だけだ。
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2. 重ねてきた足跡
「思えば、ここまできたんだな」
ダビアンが湖の暗がりを見つめながら言った。
「セビリアで国王杯を獲ったのが、ずいぶん前のことみたいだ。あの決勝、マフリットの凱斗……あいつの突進を止めるだけで、全員の脚がちぎれそうだったのに」
「あいつの踏み込みは規格外だったからな」
エステバンが苦笑を漏らし、石畳を爪先で軽く蹴った。
「一瞬でも反応が遅れたらゴールごと持っていかれるところだった。あの試合を泥臭く勝ちきって、国王杯を獲った。……だけど、欧州のトーナメントに入ってからは、力づくじゃどうにもならない相手ばかりだったぜ」
「先週のニヨンもそうだった」
レオンが言葉を継ぐ。
「ビートルズFCのプレッシングは、判断の余白を一切くれなかった。ボールを持った瞬間に二人、三人が囲い込んでくる。前半の失点は、僕たち全員が相手の圧力に呼吸を乱された結果だった」
四人の沈黙の中に、これまでくぐり抜けてきたピッチの光景が浮かぶ。
セビリアの熱狂。
ニヨンの冷たい芝生。
リーグ最終節、残留を懸けて中央を塞ぎ続けたアルフォンソの必死の形相。
氏真は欄干に両手を置き、暗い空を見上げた。
以前の自分なら、あのビートルズFCの圧力に対し、力任せに前を向こうとして自滅していただろう。
母を救いたい、自分が早く結果を出さなければならない――その焦りが視野を狭め、独りよがりの突破へと身体を駆り立てていた。
だが、ハーフタイムに届いた母の声が、その曇りを払ってくれた。
『結果を急いではいけません。あなたらしく、美しく舞いなさい。私は決して、負けないから』
母は、病室のベッドの上で、自分の人生と病に向き合っている。
ならば自分も、ピッチの上で自分の持ち場を全うする。
誰かのために無理を背負い込むのではない。目の前にあるボールと向き合い、仲間を信じて預けること。
「僕ひとりじゃ、何もできなかったよ」
氏真が口を開くと、隣のエステバンが怪訝そうに眉を寄せた。
「急に改まるなよ、気持ち悪い」
「本当のことだよ。僕が中央で相手を引き受けて、外へボールを逃がした時、エステバンが迷わず走り込んでくれた。最終節だって、ダビアンが僕の落としを信じて前へ抜けてくれたから、相手のブロックが崩れたんだ」
「そりゃそうだろ」
エステバンは鼻先をかきながら、そっぽを向いた。
「お前が前を向くのをやめて、外の俺に預けたんだ。あんなに綺麗にボールが出てきたら、外すわけにいかねえ。……お前が俺たちを信じたんだから、俺たちもお前を信じて走った。それだけだ」
「ああ」
ダビアンも白い歯を見せて笑う。
「氏真が中央で余計な力を抜いて構えてくれると、僕たちの前に道が見えるんだ。だから迷わずに飛び込める」
レオンもまた、わずかに口元を緩め、小さく頷いた。
「個人の技術を競う段階は、もう通り過ぎた。僕たちが目指しているのは、全員の配置と判断が噛み合ったフットボールだ。その感覚は、この数ヶ月で確実に揃ってきた」
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3. 最後の相手
湖から吹き寄せる風が、四人のジャージの裾を揺らす。
話題は、自然と明日の正午にキックオフを迎える決勝戦へと移っていった。
相手は、イングランドの覇者――マンチェスター・イーストFC。
「昼のミーティングで観た映像、なかなか強烈だったな」
ダビアンが息を吐く。
「相手も僕たちと同じで、ピッチの幅を使い切るポジショナルプレーを徹底してくる。センターバックのロックウェルが中盤の底へ上がって[3-2-4-1]に可変してくる形……中央に人が密集して、パスコースを消すのが難しそうだ」
「厄介なのは、陣形の変化だけじゃない」
レオンが淡々と分析を加える。
「キャプテンのヴィンセント・コールを中心とした最終ラインの対人強度は、プレミアユースでも抜きん出ている。それに中盤のケヴィン・ブルックだ。彼の視野の広さと右足のキック精度は、少しでもマークの受け渡しがずれたら、一撃でペナルティエリアの脇を突いてくる」
「前線のセス・アーチャーもな」
エステバンが低く呟いた。
「狭いスペースで反転する速さは本物だ。おまけに後半になれば、ベンチからあのアラン・ホークとかいう巨漢が突っ込んでくる。……要するに、穴がねえってことだ」
戦術の練度、選手個々の身体能力、組織としての柔軟性。
どこを切り取っても、これまで戦ってきた相手の中で最も完成度が高いチームであることは疑いようがなかった。
「……でもさ」
ダビアンが湖面から顔を上げ、背伸びをした。
「不思議と、嫌な感じはしないんだよな。マフリットとやる時みたいな息苦しさもないし、ビートルズ戦の前みたいな嫌なプレッシャーもない」
「相手が自分たちのフットボールに誇りを持ってるからだろ」
エステバンが短く言った。
「小細工で時間稼ぎをしてくる相手じゃねえ。真っ向からボールを動かし合って、どっちが相手を動かせるかの勝負になる。……上等じゃねえか。そういう相手を叩き潰すために、俺たちはここまでやってきたんだ」
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4. 四つの拳
「氏真はどうなんだ?」
エステバンに水を向けられ、氏真は三人の顔を見渡した。
カタルーニャの病室に残してきた母のことが、ふと胸をかすめる。
昼、愛から届いたメッセージには、治療の一区切りが無事に終わり、体調も安定していると記されていた。
母もまた、一歩ずつ自らの足元を進めている。
勝たなければならないという義務感も、負けたらどうしようという恐怖も、澄んだ風の中に溶けて消えていた。
ただ、明日という舞台が待ち遠しかった。
「僕も、同じだよ」
氏真は微笑んだ。
「相手がどれほど強くても、僕たちがやることは変わらない。ボールを止めすぎず、無理に力で勝負せず、お互いの立ち位置を信じて動かし続ける。……僕たちのフットボールを、最後までやり切ろう」
気取った言葉ではなかった。
だが、その平穏な声の底にある確信が、三人の胸に届く。
エステバンが口元を緩め、右手をすっと前に突き出した。
握りこぶしを作り、親指を立てる。
「当たり前だ。欧州の頂点、獲りにいくぞ」
ダビアンが「乗った」と笑いながら、迷わず自らの拳を重ねた。
レオンも何も言わず、引き締まった表情で右拳を合わせる。
そして氏真が、そっと自分の拳を差し出した。
コツン、と乾いた音が微かに響く。
四つの拳が、湖畔の薄明かりの中で一つに重なった。
ボールを預け、預けられ、走り、泥にまみれてきた日々。
その時間が、重ねた拳の感触に重なっていた。
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5. 夜明けの予感
「よし、戻るか。ジョゼップに見つかったら小言を食らう」
エステバンの言葉に、ダビアンが吹き出し、レオンが腕時計に目を落とした。
踵を返し、四人はホテルの明かりを目指して歩き出す。
行きよりも少しだけ歩幅が軽やかだった。
ロビーを抜け、それぞれの部屋へと戻る。
同室のエステバンと「明日な」と短く声を掛け合い、氏真は自らのベッドに身を横たえた。
カーテンの隙間から、冷涼な空気がわずかに流れ込んでくる。
枕元のサイドテーブルには、磨き抜かれた黒いスパイクが置かれていた。
目を閉じると、芝生の匂いと、ボールを蹴る乾いた感触が皮膚の裏側に蘇る。
自分には、頼もしい仲間がいる。
積み上げてきた呼吸がある。
明日のピッチで、この仲間たちとどこまで美しいパスを描けるだろうか。
その純粋な予感が、胸の奥を静かに温めていた。
ジュネーヴの夜が深まっていく。
東の空が白み、スタジアムに光が満ちる時、欧州ユースの頂点を懸けた最後の九十分間が幕を開ける。
十四歳のストライカーは、心地よい疲労感に身を委ね、決戦の朝を待っていた。
ーーーーお願いーーーーーーーーーーーーーーーーー
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
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今後も氏真の物語を、温かく一緒に見届けてください。




