第122話:【白鳥の雪中飛翔】
【あらすじ】
激しさを増す吹雪の中、合計スコア4-4のまま迎えた後半終了間際。決着を狙うミュンヘンFC主将シューマッハが前線へ攻撃参加する。王者の合理的リスクの裏に生じた空白を突き、バルシーノ守備陣から前線へと一本の血流が繋がる。不確実性に呑まれた凍土の上で、氏真の研ぎ澄まされた身体知が一閃の軌跡を描く。
1.吹雪の死闘
バイエルンの夜空を覆う重い雪雲から、激しさを増した吹雪が吹き荒れていた。
時計の針は後半40分を指し示している。
スコアは1-1。
2戦合計4-4。
ピッチ中央は選手たちのスパイクで掘り起こされ、冷たいみぞれと融解した雪、そして黒い土が混ざり合った深い泥濘へと姿を変えていた。
緑の芝はその境界を失い、白と黒がまだらに広がる凍土の上で、両チームの肉体はすでに疲労の限界を迎えていた。
吐き出す呼気は激しく白濁し、冷気に濡れたユニフォームが皮膚へ重く張り付いている。
張り詰めた緊張の糸が、極限まで引き絞られていた。
延長戦、あるいはPK戦へもつれ込めば、この過酷なピッチ環境下では何が起きるか分からない。
その不確実性を最も嫌い、自らの手で試合を終わらせる決断を下した男がいた。
ミュンヘンFCの主将にして「皇帝」――リベロのフランツ・シューマッハである。
自陣深くでボールを拾ったシューマッハは、前線へ放り込むような不確実な手段を選ばなかった。
自ら顔を上げてボールを運び、中盤のヘルベルトへ預けてリターンを受けると、長いストライドで迷いなくハーフウェーラインを越えていく。
最後方の守備者が前線へ侵入する、リベロの勝負手。
自らの攻撃参加によってバルシーノの中盤に数的過負荷を生み出し、90分で確実に仕留める。
それは絶対王者としての矜持であり、勝機を手繰り寄せるための極めて合理的なリスクテイクだった。
「押し上げろ! シューマッハを中央で自由にさせるな!」
自陣ペナルティエリア手前で、泥にまみれたカレスが叫んだ。
シューマッハの前進に連動し、ミュンヘンの前線は実質7枚へと膨れ上がる。
右からマッツォーラが中央へ斜めに侵入し、中央ではCFデア・ボムがフェランを背中で抑え込む。
シューマッハの右足から、ボックス手前へ鋭い縦パスが打ち込まれた。
「通させない!」
右センターバックのアレハンドロが背後から身体を寄せ、フェランとともにデア・ボムの反転を挟み撃ちにして阻む。
デア・ボムが泥に足を滑らせながら、倒れ込みざまに横へ落とした。
そこへ、自ら侵入してきたシューマッハが走り込んでくる。
ペナルティアーク手前、ゴールまで約20メートル。
シューマッハが右足を振り抜く姿勢に入った。
---
2.最後の血流
スタジアムを埋め尽くす観衆が息を呑んだ、その刹那――。
泥水混じりの芝を突き破るように、身体ごと滑り込んできた影があった。
アンカーのサビエルである。
濡れた泥濘に足を取られ、体勢を崩しかけながらも、サビエルは伸ばした右足の爪先をボールの軌道へねじ込んだ。
激しい接触とともに、シューマッハのシュートの芯が外れる。
勢いを失ったボールが、ペナルティエリアの左脇へ転がった。
「セカンド!」
トニ・ラマジェの鋭い指示が響く。
こぼれ球の元へ誰よりも早く歩を進めたのは、ダブルボランチの一角として中央の均衡を保ち続けていたフェリペだった。
後方からヘルベルトがボールを刈り取らんと突進してくる。
だが、フェリペは足元にボールを止める選択をしなかった。
寄せてくる相手の勢いを見極め、左足のアウトサイドで、転がってきた球の推進力をそのまま前方へ受け流すようにダイレクトで弾いたのだ。
その先には、右ウイングバックから内側へ絞っていたダビアンがいた。
ダビアンもまたボールを捏ねず、寄せてくる相手のプレッシャーを察知して、右足のインサイドで浮かせたミドルパスを敵陣の左サイドへ素早く送り届ける。
自陣深くで奪った一本のボールが、二つのダイレクトプレーによって、一瞬で密集をすり抜けた。
後半44分。
凍てつくピッチの上で、バルシーノのラストアタックが始動する。
左サイドの大外でパスを受けたのは、左ウイングバックのイネスだった。
イネスはタッチライン際で大きく幅を取り、対峙する相手右サイドバックを外側へと強く引きつける。
それと同時に、逆サイドの最前線から、背番号11のレオン・ラインハルトが泥濘を蹴立てて中央へ向けて斜めにスプリントを開始した。
レオンの狙いは、パスを引き出すことではない。
最後方に一人残されていたミュンヘンの巨漢ストッパー、ユルゲン・クラマーの視野を横切るように走ることで、クラマーの身体の向きを強制的に自陣ゴール方向へと後退させるフリーランニングだった。
クラマーがレオンの走路を警戒して引きずられ、最終ラインが数メートル押し下げられる。
シューマッハが前線へ攻撃参加したことで生じていた最後方の広大な空白。
イネスが幅を取り、レオンがクラマーを深さ方向へピン留めしたことで、敵陣のバイタルエリア中央に、ぽっかりとした巨大な空間が出現した。
---
3.王子の決断
イネスから、内側の斜め後ろへ鋭いグラウンダーのパスが戻される。
そこへ全速力で走り込んできたのは、背番号10――エステバンだった。
前線へ上がっていたシューマッハは猛烈な勢いで背走している。
だが、戻り切るには距離が足りない。
クラマーはレオンの裏抜けを警戒して前に出られず、中盤のボランチ陣もプレスバックが遅れていた。
バイタルエリアの中央、エステバンの前方には、ゴールマウスを正面に捉える射線が開通していた。
普段のエステバンであれば、さらなる味方のサポートを待つか、得意の繊細なタッチで相手を誘い込んでからラストパスを選択していたかもしれない。
だが、この過酷な敵地、凍結しかけた泥濘のピッチで、エステバンの判断は極めて合理的だった。
相手守備の再構築の遅れ。
ペナルティエリア手前に生じた空間。
そして、ゴールマウスを守るティターンの立ち位置。
すべての条件が、ここで足を振り抜くべきだと告げていた。
エステバンは迷いなく、濡れた芝を踏みしめて左足を強振した。
重く湿ったボールが、低く唸りを上げて雪煙を切り裂く。
ペナルティエリア外から放たれた強烈なミドルシュートが、ゴール右隅へ一直線に飛翔した。
だが、ミュンヘンの守護神ロルフ・ティターンは、最後まで崩れなかった。
激しい吹雪の中、味方と相手が交錯するブラインドから放たれた低弾道に対し、驚異的な初動で身体を横へと投げ出す。
伸ばした右手のグラブが、強烈な弾道を空中で叩き落とした。
スタジアムに悲鳴と歓声が交錯する。
弾かれたボールは、ペナルティスポット付近の白く濁った窪みへと高く跳ね上がった。
---
4.白鳥の雪中飛翔
その瞬間、ピッチ上のすべての動きが、わずかに減速したかのような錯覚が訪れた。
ティターンが弾いたセカンドボールは、シャーベット状の雪と水たまりが境目を失った、最も深くぬかるんだ窪みへと落ちていく。
通常の芝なら、ボールは低い弾道で規則的に転がってくるはずだった。
しかし、落下した球は、冷気で硬化した雪の塊に接触した。
鈍い水音とともにボールの回転が急激に乱れ、通常とは異なる方向へ、不規則に跳ね上がった。
「しまっ……!」
落下点を「芝のバウンド」として一点予測し、跳ね返りをクリアしようと踏み込んでいたクラマーの身体が、一瞬硬直する。
泥濘へ深く踏み込んだ軸足が、次の動作への切り替えを遅らせた。
横っ飛びから起き上がろうとしたティターンもまた、予測と異なる軌道に対応する一歩が遅れた。
合理性を突き詰めてきた者たちが、泥濘の生み出した不確実性に、ほんの一瞬だけ動きを奪われた。
ただ一人――背番号29、吉良氏真を除いて。
氏真は、エステバンがシュートを放った瞬間からペナルティエリア内へと侵入していた。
だが、氏真は「ボールがここへ落ちてくる」と決め打ちした走りをしていなかった。
右へ跳ねても、左へ転がっても、あるいは頭上へ浮き上がっても、自らの重心を滑らかに移行できる「遊び」を残したステップ。
未来を一点で予知したのではない。
どんな結果が転がり出ようとも、自らの身体がその変化を受け止められる間合いを保ち続けていたのだ。
雪の塊に当たり、不規則に宙へと跳ね上がるボール。
その不揃いな弾道を見つめた瞬間、氏真の身体の奥底で、かつて血肉とした蹴鞠の記憶が静かに蘇っていた。
風に揺れ、梢に触れ、不規則に落ちてくる鞠。
思い通りにならないものに力で抗うのではない。
その予測不能な動きに、自らの呼吸と骨格を柔らかく委ねるのだ。
(力は、要らない)
氏真は支持脚である左膝の力をふっと抜き、泥濘の粘りつく抵抗を受け流すように、足裏を柔らかくピッチへ馴染ませた。
全身から無駄な力みが消え去る。
宙に舞い上がったボールの頂点に対し、氏真の身体の軸が、最初からそこにあったかのように自然に一致した。
大振りな予備動作はない。
支持脚の脱力から、重力に従って滑らかに振り出された右足。
膝下のスナップが、最後の一瞬だけ鋭く加速する。
ティターンが体勢を立て直し、身体を広げるよりも早く、氏真の右足インステップが、空中にあるボールの芯を寸分の狂いもなく捉えた。
澄んだインパクトの音が、吹雪のスタジアムに響き渡る。
泥を払い、雪飛沫をまき散らしながら放たれたボレーシュートが、白い空気を切り裂いて突き抜けた。
ティターンの伸ばしたグラブの、わずか上。
弾丸がゴールネットの天井を激しく突き上げた。
後半44分。
2-1。
2戦合計スコア、5-4!
---
5.巨人の陥落
一瞬――満員のアリアンツ・スタジアムから、すべての音が消え去った。
真紅に染まっていたスタンドの誰もが、言葉を失って立ち尽くしている。
降り積もる白い雪の向こう側。
揺れるゴールネットの内側に、泥に汚れたボールが静かに転がっていた。
直後、バルシーノのベンチから地鳴りのような咆哮が爆発した。
控え選手もスタッフも、ジョゼップ監督さえもがテクニカルエリアを飛び出し、雪のピッチへと雪崩れ込んでいく。
ネットを揺らした氏真の元へ、エステバンが、レオンが、フェリペが、カレスが、全身全霊のスプリントで飛びついた。
「決めた……! 氏真が決めたぞ!」
「信じられねえ、やりやがった!」
泥だらけの身体が幾重にも重なり合い、冷たい雪の上に熱い歓喜の山が築かれる。
試合再開のホイッスルが鳴り、ミュンヘンFCが最後のリスタートを切った直後――。
死闘の終わりを告げる長い笛の音が、バイエルンの夜空に鳴り響いた。
試合終了 2-1
2戦合計5-4。
FCバルシーノ・フベニルA、欧州ベスト4進出決定!
ドイツの絶対王者が、その膝を冷たいピッチの上へと屈した瞬間だった。
歓喜の輪がほどけた後、息を整えながら立ち上がった氏真の前に、一人の男が歩み寄ってきた。
ミュンヘンFCの主将、フランツ・シューマッハ。
泥と汗にまみれた皇帝の顔には、激闘を戦い抜いた悔しさと、それ以上の高潔な光が宿っていた。
シューマッハは無言のまま、泥のついた右手を真っ直ぐに差し出した。
氏真もまた、その手をしっかりと握り返す。
「……見事だった、吉良氏真」
シューマッハの引き締まった唇から、低く、威厳に満ちた声が紡がれた。
「我々の合理性を逆手に取り、あの雪の中で自らの身体を調律しきった君の技術に、心から敬意を表する。だが――次は我々が勝つ。この借りは、必ず返させてもらうぞ」
「ありがとう、シューマッハ」
氏真は穏やかに微笑み、目の前の好敵手を見つめ返した。
「君たちの規律と強さがあったからこそ、僕たちもここまで研ぎ澄まされることができた。また必ず、ピッチで戦おう」
二人の手が力強く握り合わされる。
その健闘を称える拍手が、敵地のアウェイスタンドからも温かく降り注いでいた。
---
6.閉ざされた扉の向こう
ミュンヘンでの熱狂が、遠い幻のように静まり返る。
舞台は一転し、夜の静寂に包まれたバルセロナ市内、カタルーニャ総合病院の長い廊下。
壁に取り付けられた時計の秒針が、カチリ、カチリと規則的な音を刻んでいた。
冷たい蛍光灯の光の下、プラスチックの長椅子に、早川愛が一人、背筋を真っ直ぐに伸ばして座っていた。
膝の上に置かれたスマートフォンには、ドイツにいる舞から届いた短いメッセージが表示されている。
『5-4で勝利! ベスト4進出が決まったよ! ウジ君が決めた!』
画面の文字を見つめる愛の口元に、微かな笑みが浮かぶ。
しかし、その指先は小さく強張ったまま、画面を閉じることはできなかった。
やがて――。
ガラガラ……。
重い静寂を破り、診察室の扉が静かに開いた。
白衣を纏った担当の専門医が、手元の分厚いカルテの束に目を落としたまま、重い足取りで廊下へと姿を現す。
医師は眼鏡の奥の瞳を愛へと向け、わずかに眉根を寄せて言った。
「……吉良有理さんのご家族の方ですね。検査結果が出ました」
愛は椅子から立ち上がり、医師の表情をじっと見据えた。
医師が告げた、その先の一言に――。
愛の瞳が、息を呑むように見開かれる。
欧州の頂へと駆け上がる少年の栄光の裏で。
吉良家を揺るがす運命の歯車が、音もなく回り始めていた。
【次回予告】
欧州ベスト4の歓喜に沸くバルシーノ!
だが、その栄光の裏で母・有理に異変が起きていた――!
そして氏真を待ち受ける、国王杯準決勝。立ち塞がるのは、あのマフリット!
第123話:【国王杯準決勝:決戦への切符】次なる天下へのパスを回せ!




