第114話:【国王杯準々決勝:揺るぎなき中軸】
【あらすじ】
ノースロンドン戦の激闘から中3日、国王杯準々決勝アウェイ・シエダFC戦を迎えるバルシーノ。過密日程によるターンオーバーで、いつもとは異なる顔ぶれが並ぶ中、ジョゼップ監督は氏真を中央の「基準点」として先発起用する。来西した愛と舞が見守る中、氏真は不慣れな仲間たちの動きをつなぎ、チームを勝利へ導いていく。だが試合後、愛の視線はスタンドのある人物へと向けられていた――。
1.春風の再会と黒板の「9」
三月下旬。
地中海から届く柔らかな陽光が、シエダの街並みを包んでいた。
初春の風が乾いた芝を撫でる。
だが、キックオフを目前に控えたアウェーチーム用ロッカールームには、張り詰めた空気が漂っていた。
ノースロンドンFCとの激闘から、中三日。
欧州ユースCLのベスト8進出を果たした一方で、選手たちの身体には連戦の疲労が残っている。
ホワイトボードの前に立ったジョゼップ・カサス監督が、先発メンバーの名前を並べていく。
レオン・ラインハルト。
エステバン・ロサーノ。
カレス・モンテロ。
主力の数名が控えに回り、両翼や中盤にはローテーション要員が入った。
スペイン国王杯――コパ・デル・レイ・フベニル準々決勝。
一発勝負のトーナメントで大胆なターンオーバーを選択したのだ。
だが。
最前線中央の「9」の位置だけは、最後まで動かなかった。
そこに記された名前は――
吉良氏真。
「レオンたちには休養が必要だ」
ジョゼップはホワイトボードから視線を外し、氏真を見る。
「だが、今日の試合は一発勝負だ。周りの顔ぶれが変われば、普段の距離感は崩れる」
一度、言葉を切る。
「だからこそ、中央はお前だ。誰が周りに立とうと、前線の基準点になれ」
氏真はスパイクの紐を結び終え、顔を上げた。
「はい」
短い返事だった。
ゴールだけを求められているわけではない。
誰かが迷えば、その迷いを減らす位置に立つ。
味方が前を向けなければ、相手の守備を引きつける。
ボールを失えば、最初に相手の進路を限定する。
ワントップとして、自分がそこにいることで、周囲が次のプレーを選びやすくする。
それが今日、監督から託された「9番」の仕事だった。
「盤面の中心は、僕が支えます」
氏真はそう言って立ち上がった。
その頃――。
メインスタンドには、日本から到着したばかりの早川愛と舞が姿を見せていた。
学校の春休みを利用した、二度目の来西である。
「お姉ちゃん、スタメン出たよ」
舞がタブレットを操作する。
「レオンくんとエステバンくんはベンチ。かなり大胆なローテーションだね」
「ええ」
愛はピッチへ視線を向けた。
そして、周囲の席を見渡す。
キックオフまで、あと十分を切っている。
いつもなら、誰よりも早くスタンドに姿を見せているはずの女性がいない。
吉良有理。
氏真の母親の姿が、まだどこにもなかった。
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2.アウェーの重圧と静かな補正
ピィィィッ!
キックオフの笛が鳴った。
シエダFCは、ホームの大声援を背に、開始直後から前線を押し上げてきた。
「¡Presión! ¡No les dejéis respirar!」
プレスを仕掛けろ。
息をさせるな。
シエダのCB、オルティスが声を張り上げる。
バルシーノは主力を休ませた影響もあり、序盤からボールが落ち着かない。
左ウイングが受ける位置は普段より半歩深い。
中盤からの縦パスも、出し手と受け手のタイミングがわずかにずれる。
そこをシエダが狙ってきた。
「焦るな! 間隔を保て!」
ピボーテのサビエル・フェルナンデスが叫ぶ。
それでも、いつものようにはいかない。
そこで氏真は、無理にボールを要求しなかった。
前線中央に立ったまま、味方のボール保持者と相手守備の位置を見比べる。
そして――一歩、下がった。
相手CBオルティスとボランチの間。
わずかな隙間だった。
オルティスが反応する。
前へ出れば氏真の足元へ届く。
しかし、出れば背後にスペースを残す。
一瞬だけ、判断が遅れた。
その瞬間、左ウイングへのパスコースが開いた。
ボールを受けた味方が前を向く。
氏真は、そこで止まった。
自分から答えを示したわけではない。
ただ、相手CBを一歩動かした。
それだけで、味方の前に新しい選択肢が生まれた。
次の場面では、逆に氏真が前へ出る。
相手ボランチの視線が氏真へ向いた。
その瞬間、サビエルが右サイドへ展開する。
ボールが動く。
氏真も動く。
大きく走り回っているわけではない。
相手が次にどこを守るかを考える、その一瞬より先に立ち位置を変えている。
(急ぐ必要はない)
氏真は周囲を見た。
(迷いが生まれたら、僕がそこに立てばいい)
少しずつだった。
急造のメンバーの間にあった小さなズレが、一本、また一本と減っていく。
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3.中軸のタクト
前半25分を過ぎる頃には、シエダのプレスにも変化が出始めていた。
氏真が中央でボールを受ける可能性を消そうとすれば、別の選手が空く。
氏真を警戒して中央を締めれば、サイドへのパスコースが生まれる。
一人の選手を追うだけでは、全体のバランスが崩れる。
そのわずかな綻びを、バルシーノは見逃さなかった。
そして前半27分。
サビエルが中盤でボールを回収した。
前を向く。
その瞬間、氏真が相手CBオルティスの前へ入った。
縦パスが来る。
オルティスも同時に距離を詰めた。
正面から受ければ、身体をぶつけられる。
氏真は接触の直前に身体を半身にした。
左肩に相手の身体が触れる。
その力を真正面から受けず、軸足を残したまま身体の向きをわずかに変える。
ボールが右足へ届く。
氏真は止めなかった。
インサイドで、そのまま背後へ落とす。
レイオフ。
オルティスの前進によって生まれた中央のスペースへ、ボールが転がった。
そこへサビエルが走り込む。
氏真はさらに一歩、前へ出た。
オルティスの視線が再び氏真へ向く。
サビエルがフリーになった。
「サビエル!」
声と同時に、サビエルが右足を振り抜いた。
ドンッ!
鋭いミドルシュートがゴール左隅へ突き刺さる。
前半27分。
1-0。
バルシーノが先制した。
「ウジ!」
サビエルが駆け寄り、氏真の肩を抱く。
「今の落とし、最高だった!」
「サビエルが走ってくれたからです」
二人が拳を合わせる。
氏真はゴールを決めていない。
それでも、この得点が生まれる前には、氏真が相手CBを動かし、味方が使えるスペースを作っていた。
そして、そのスペースをサビエルが見逃さなかった。
スタンドでは、舞が思わず身を乗り出していた。
「ウジ君、ボールを触ったのは一回だけなのに……」
愛は黙ってピッチを見つめる。
氏真は、味方を動かしているのではない。
味方が動きやすい場所を先に作っている。
その違いを、愛は感じ取っていた。
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4.勝負を締める一撃
後半に入ると、シエダはさらに前へ出た。
両サイドバックが高い位置を取り、クロスを増やしてくる。
バルシーノは押し込まれる時間が続いた。
アレハンドロとカレスがクロスを跳ね返し、GKトニ・ラマジェがセカンドボールへ飛び込む。
耐える時間だった。
後半20分。
ジョゼップが交代カードを切る。
「エステバン、行け!」
背番号10、エステバン・ロサーノがピッチへ入った。
ボールを収められる選手が前線に加わったことで、バルシーノは少しずつ押し返し始める。
そして後半33分。
サビエルがハーフウェイライン付近でボールを奪った。
中央のエステバンへ縦につける。
エステバンが前を向いた。
氏真は中央にいた。
だが、そこからゴールへ向かわない。
右のハーフスペースへ、斜めに走り出した。
相手CBが反応する。
氏真についていく。
中央にわずかな隙間ができた。
エステバンは、その瞬間を見逃さなかった。
中央へ運ぶ。
シエダの守備が氏真とエステバンの両方を意識する。
そこで氏真は、走る方向を変えた。
外へ向かっていた身体を、内側へ切り返す。
相手CBの視界から、一瞬だけ氏真の姿が消えた。
次の瞬間。
エステバンの足元から、ボールが放たれた。
ディフェンスラインの背後へ。
速すぎず、遅すぎないグラウンダーのスルーパス。
氏真が走り込む。
ペナルティエリア内へ入った。
GKが飛び出してくる。
氏真はシュートの直前までボールだけを見なかった。
GKの身体の向きを見る。
重心がわずかに右へ寄っている。
ならば――。
右足のインサイド。
強く振り抜かない。
ボールを押し出すように蹴る。
パサッ。
ボールはGKの伸ばした足の脇を抜け、ファーサイドへ転がっていった。
ゴール。
後半33分。
2-0。
氏真が振り返る。
エステバンと目が合った。
二人は右手を合わせた。
「いい動きだったな」
「パスが出ると信じていました」
「お前があそこを空けたから出せたんだよ」
短い言葉を交わし、二人は笑った。
氏真が決めた。
しかし、そのゴールを生んだのも、最初の一歩だった。
中央から離れる。
相手を動かす。
そして、空いた場所へ戻る。
その繰り返しが、相手の守備に一瞬の遅れを生んだ。
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5.届かぬ視線
残り時間。
シエダは最後まで諦めなかった。
それでもバルシーノは、無理に前へ出なかった。
氏真も最前線から相手CBへのパスコースを限定する。
中央を切り、外へ誘導する。
後方の味方がその動きに合わせる。
一人が奪うのではない。
一人が相手の選択肢を減らし、次の選手が受け取る。
最後まで、その繰り返しだった。
そして――。
ピィィィィッ!
試合終了。
FCバルシーノ 2-0 シエダFC
過密日程のアウェイ戦を制し、バルシーノは国王杯ベスト4進出を決めた。
ジョゼップがベンチ前で氏真を迎える。
「よくやった」
監督は氏真の頭を軽く叩いた。
「誰と組んでも、中央を崩さなかったな」
「みんなが合わせてくれたからです」
氏真は笑った。
そして、スタンドを見上げる。
そこには、手すりから身を乗り出して手を振る舞と、その隣で上品に扇子を掲げる愛の姿があった。
氏真も笑顔で手を振り返す。
その隣に――もう一人。
「……母さん」
吉良有理だった。
濃紺のトレンチコートを羽織った有理が、息子へ向かって小さく手を振っている。
氏真は安心したように笑い、仲間たちとともにロッカールームへ向かった。
だが。
愛は有理から目を離さなかった。
手にしていた扇子を、ゆっくり閉じる。
(……やはり)
キックオフに間に合わなかった。
そして今、呼吸が浅い。
有理が手すりから手を離した。
その瞬間、右足がわずかにもつれた。
身体が傾く。
愛は反射的に腕を支えた。
「……あら」
有理は困ったように笑った。
「ごめんなさい。少し、踵が引っかかってしまって」
「お母様」
愛は腕を支えたまま、穏やかに尋ねる。
「少し、お疲れではありませんか?」
有理の瞳が、一瞬だけ揺れた。
だが、すぐにいつもの笑顔へ戻る。
「ふふ、大丈夫よ。仕事が少し立て込んでいるだけ」
有理は愛の手にそっと触れた。
「……氏真には、内緒にしておいてね」
「内緒、ですか?」
「ええ。あの子には、サッカーだけに集中していてほしいから」
愛は静かに頷いた。
「……承知いたしましたわ」
それ以上は聞かなかった。
有理が階段を下りていく。
一段。
また一段。
その歩幅が、いつもよりわずかに狭い。
愛はその背中を見つめた。
数日前、ルナから届いたメッセージが脳裏に蘇る。
『有理さんの顔色がすごく気になって……足取りも、いつもと違って見えたの』
今日の遅刻。
目の前で見た呼吸。
歩幅。
そして、あの一瞬の身体の揺らぎ。
偶然だと思おうとすれば、できる。
だが、いくつもの小さな違和感が重なっている。
(……気のせいでは、ない)
愛の胸の奥に、静かな確信が沈んだ。
ピッチでは、氏真が次なる戦いへ向かって走り始めている。
その輝きのすぐそばで。
吉良家を支える母の背中に、愛だけが気づいた小さな影が落ちていた。
【次回予告】
国王杯ベスト4進出。その喜びの裏で、愛は有理の異変を見過ごせなくなっていた。
そして、ユースCL準々決勝の相手が決まる。ドイツの強豪――ミュンヘンFC。
欧州の頂を目指す氏真たちの前に、次なる強敵が立ちはだかる。
第115話:【静かな警戒】次なる天下へのパスを回せ!




