第三十二話 終戦のあとで
再び目が覚める。
最初に感じたのは、メアダイバーの柔らかな感触だった。
続いて、頭部を締め付けていたバイザー型デバイスの重み。私はゆっくりと息を吐き、震える指先でそれを外した。
久しぶりに感じる現実世界。
エニグマのアジトの白い部屋。静かな機械音。
悪夢の中で浴び続けた砲声も、怒号も、燃えた金属の臭いもない。
それなのに、まだ耳の奥にはモノリスの声が残っていた。
――我々は勝利を求めない。
そして、エフとリシムが泣きながら敬礼してくれた姿も。
私はしばらく天井を見上げたまま動けなかった。あの惑星は悪夢だった。そう分かっている。
だが、あそこで流れた涙も、交わされた誓いも、確かに本物だった。
ふと、横から影が伸びる。サイファーだった。
彼は何も言わない。ただ、少し気まずそうに、それでもどこか誇らしげに右手を掲げていた。
私は一瞬だけ迷った後、その手に自分の手を重ねた。
無言のハイタッチが成立し、乾いた音が鳴る。
「……痛かった?」
思わず訊いてしまった。
サイファーは眉を寄せ、苦笑する。
「死ぬほど痛かった」
「ごめん」
「でも、あれは撃たれるしかなかった。俺もあっちで背負ってたからな」
その言葉に、胸の奥が少しだけ軽くなる。
そこへ、反対側から黒猫頭がにょきりと覗き込んできた。
エニグマは無言でサムズアップしている。
「……何か言ってよ」
「いやぁ、言葉にすると薄くなりそうでな」
そう言いつつ、エニグマはいつもの調子で笑う気配を滲ませた。
「よくやった、コード。最高にロックな決闘だったぜ」
私は小さく微笑んだ。
「エニグマも、強かったよ」
「当然だろう? 私は宇宙最強スーパー外交大使兼戦場アイドルだからな」
「肩書きが渋滞してるな」
サイファーが呆れたように突っ込む。
そうして私たちは、しばらく笑っていた。
笑えることが、少し不思議だった。
けれど多分、それで良かったのだろう。
悪夢は終わった。なら、残された私たちは、現実で息をしなければならない。
やがて私たちはメアダイバーから降り、ブリーフィングルームへ向かった。扉が開いた瞬間、室内の大型モニターが勝手に点灯する。
映っていたのは、LUCIDの三人だった。
アーカイブは無表情。グリッチは明らかに機嫌が悪い。パッチは困ったように笑っている。
「さて」
アーカイブが低い声で切り出す。
「作戦開始直後、味方部隊を背後から奇襲して全員送還した件について、まずは説明を聞こうか。エニグマ」
「いやぁ、あれは高度な潜入判断というか」
「寝言は寝てから言え」
グリッチが即座に吐き捨てる。
「おかげでこっちは悪夢突入三分で全滅だぞ。三分だぞ。俺たち何しに行ったんだよ」
「現実帰還最速記録更新、おめでとう?」
「殺すぞ」
「ほら、やっぱり元気じゃん」
「お前マジで一回ちゃんと殴らせろ」
パッチが慌てて割って入る。
「まあまあ皆さん、結果として悪夢領域の消滅には成功したわけですし、ここは建設的な反省会をしましょう。怒りは分かりますけど」
「パッチ、君は本当に大人だな」
「アーカイブさんも怒ってますよね?」
「当然だ」
そこから反省会が始まった。
最初こそLUCID側からの苦情が怒涛のように浴びせられたが、やがて話題は作戦全体の分析へ移っていく。
アーカイブが資料を展開する。
「今回の悪夢領域は、観測上も極めて異例だった。二名の夢の主が同一悪夢内で異なる陣営に存在し、それぞれが陣営の存続意志に深く同期していた。片方のみを救済しても、悪夢領域は存続した可能性が高い」
「つまり、終戦させたのは正解だったってこと?」
私が問うと、アーカイブは小さく頷いた。
「正解というより、それ以外に完全攻略の道はなかっただろうな」
グリッチが面白くなさそうに鼻を鳴らす。
「だが、それを現地で判断して実行に移したのは大したもんだ。特にコード、お前の順応性は異常だ」
「異常……」
「褒めてるんだよ。たぶんな」
サイファーが小声で補足してくる。
パッチが別の観測データを表示した。
「コードさんは、現地到着からわずかな時間でマニシア兵装、アーモリー側通信体系、地形情報、戦術機兵運用の弱点、両陣営の政治的構造まで把握しています。加えて、対物ライフルによる長距離狙撃、現地部隊との信頼構築、代表決闘への自発的参加」
彼はそこで少し笑った。
「普通は、悪夢内でここまで適応できません」
エニグマが得意げに胸を張る。
「だろう? うちのコードは凄ぇんだ」
「お前が威張るな」
グリッチが即座に刺す。
私は少し照れ臭くなり、視線を逸らした。
アーカイブは続ける。
「悪夢観測機器によれば、対象領域は終戦成立直後に急速崩壊した。残滓もほぼ検出されていない。つまり、あの惑星間戦争の悪夢は消滅した」
その言葉に、私は息を止めた。
消滅。あの世界が。
モノリスも、エピタフも、エフも、リシムも。
悪夢としては、もう存在しない。けれど不思議と、悲しいだけではなかった。
終わったのだ。あの戦争は、本当に。
「……そっか」
私は静かに呟く。
「終われたんだね」
誰も茶化さなかった。その沈黙だけで十分だった。
反省会が終わると、エニグマは唐突に手を叩いた。
「よぉし!では諸君、次はトレーニングルームへ移動だ!」
「は?今から?」
サイファーが露骨に嫌そうな声を出す。
「当たり前だろう。悪夢内では超絶大活躍しても、現実の身体は寝てただけだ。鈍りきってるぞ」
「それはそうだけど、休憩は?」
「歩きながら休め」
「軍隊かよ」
そう文句を言いつつ、私たちは基地内のトレーニングルームへ移動した。
白く広い空間に、ランニングマシン、筋力トレーニング機器、模擬戦用の柔らかい武器、反射速度を測定する装置などが並んでいる。
私は軽く身体を動かしてみた。
現実の身体は、やはり悪夢の中ほど自由には動かない。けれど、以前より確実に軽い。反応も速く、筋肉の使い方も少しずつ変わっている。
悪夢が現実を侵食している。
その事実を、私は怖いと思うべきなのだろう。
けれど今はただ、確かめたかった。
この身体で、どこまで戦えるのかを。
サイファーは模擬大剣を振り回しながら、すぐに息を切らしていた。
「くそ、悪夢の中の俺ならもっと動けるのに」
「現実のサイファー、そこそこだね」
「その言い方やめろ。エニグマが移る」
エニグマは隣で、反射神経測定装置を相手に意味不明なダンスを披露していた。記録はなぜか高いのが腹立たしい。
そうしてしばらく身体を動かしていると、ブリーフィングルーム側から通知音が鳴った。
《任務割当更新》
統合本部ネクサスからの通知だった。
エニグマが端末を開き、内容を読み上げる。
「お、次の悪夢来たぞ」
「早くない?」
「現代社会は悪夢が豊作だからなぁ」
画面には、次の悪夢領域の概要が表示されていた。
白と黒。二つの陣営に分かたれた剣と魔法の世界、その聖戦。
空を覆う天使のような軍勢と、地を埋める黒い騎士団。
神殿、王城、魔法陣、聖女、魔王、英雄。そんな単語が断片的に並んでいる。
サイファーが目を細める。
「今度はファンタジーかよ」
「剣と魔法の聖戦だってさ」
私は画面を見つめる。
白と黒。正義と悪。聖なる者と穢れた者。
あまりにも分かりやすそうな構図。
だからこそ、嫌な予感がした。エニグマが楽しそうに笑う。
「いいねぇ。次は神様ごっこの悪夢か」
私は小さく息を吸う。
戦争の悪夢は終わった。けれど、悪夢はまだ尽きない。
ならば、私たちはまた潜る。
誰かの夢の底へ。誰かが終われずにいる物語へ。
「行こう」
私は決然と言った。
「次の夢の主を、救いに」
エニグマがサムズアップする。
サイファーが肩を竦めながら笑う。
そして、私たちは次なる悪夢の資料へ目を通し始めた。
悪夢は終わらない。
けれど私たちは、もう知っている。
どれだけ深い闇の中でも、戦友がいれば進めることを。




