山神様の花嫁選び
ついに輿入れである。
狐の嫁入りの伝説のように、嫁入り行列が山へ入る。
私の乗った輿は、随分と長い時間揺れていたように思えるが、やがてついに山神様の祠の前に下ろされた。
御簾の隙間から見えるのは、節目ごとに掃除に来る見慣れた祠と、麗らかな青空、若葉の緑。
花鳥のさざめきの中、山道を踏みしめる人々の足音が消えていく。行ってしまう。
「いやいやいやいや…ありえない」
人気の消えた祠前の広場、輿の中。
大人しく運ばれてきた私だったが、急に押し寄せた不安と焦燥に口をついて出てきたのはすでに口癖となった台詞。
和華との話し合いですっ飛んでしまったが、改めて思う。
何かの間違いなのでは。
もうこの期に及んで逃げるとか逃げないとかそういう考えもわかないが、未だに信じられない。
花嫁ってなんだっけ?
「有りえなくはない」
低い声がした。
父よりも低い。幼馴染たちよりも、低い。
それでいて、もっと聞いていたくなるような…こういった耳触りのいい声を、艶やかと言うのだろうか。
ああこれが山神様のお声か、と、私は即座に平伏したまま思った。
目の前の御簾が上がる。陽の光を大きく切り取る人影が、私の周囲を覆った。
「まずは、瑞貴。お前に謝ろう」
謝る。
それは白羽の矢の一件だろうと、私の麻痺した頭でもわかった。
紛らわしいことをした、とか、もしかしたら何か手違いだったとか、そういったことを――
「今回、わざと風を吹かせなかったのだ」
わ ざ と か ぜ を ふ か せ な か っ た ?
「…はぁ?」
ドスの利いた声が口から洩れた。私の、である。
今なんて?もう一回言ってみ?
「…いや、どうなるか見てみたく」
「はァん?」
「……白羽の矢が風に吹かれず落ちたら…どうなるかと…」
「………ぶっ…」
ころすぞ。
…殺意すら抱いたのはしどろもどろになった山神様が悪い。
曰く。
面白半分で風を吹かせなかったら、思いのほか私が思い悩むわ村人は大わらわで大事になってしまい、収拾を付けるために私を選んだということにしたのだとか。
目の前、目を泳がせて説明を終えた山神様を、良くわからない感情のせいで涙すら滲んできた半眼で睨み付ける。
平伏は忘れた。
ここまで怒りを覚えたことがあっただろうか。いや、間違いなく、ない。
「では私は、悩まなくていいことで悩んで、死にたくなるような思いをしたと」
「そうなる、な」
ほう…。
さすがは神様、人間とは違う。
神々の考えはとんとわからないが、これだけは言える。
ふざけるなよ、と。
「それで、そのどうしようもない山神様の好奇心は満たされましたか」
「…その、瑞貴、怒っているのか」
今更何を言っているんだこの山神。
「怒っていないように見えますか」
「いや…」
歯切れの悪い山神様を前に、私はさらに眉間のしわを増やさざるを得ない。
「で?しょうもない山神様の好奇心、満たされました?」
「いやその…満たされたが、後悔している…」
「へぇ…」
なるほど、なんだろう、今すぐ安らかに眠りたい。
とりあえず降って湧いたような安堵の中死んでしまいたい。
全身を占める怒りを通り越した虚脱感と疲労感に、私は輿の中で突っ伏した。
はしたないとか無礼とか、そういった考えはもう思い浮かびもしない。
「…瑞貴、すまなかった」
肩に大きな手が触れた。人と同じく温かいことに、驚く。
その熱にか、声音に籠った罪悪感にか、どうやらいつのまにやら麻痺していた五感が戻ってきた。
春の野を歩く時の、爽やかな緑の匂いがする。
山神様の祠の近くは、いつもこの香りがした。
恐らく、山神様の香りだろう。山神様は山の神様なのだし。
「…やまがみさま」
これは安堵、だろうか。
鼻がつんとして、言葉が上手く出てこない。
「なんだ」
殊の外優しい声に、ひとつだけ。一つだけ、どうしても確認したいことが出来た。
「――私は…白鳥瑞貴は、白鳥の今代として、お役目を果たす力を持っていたのでしょうか…」
肩を擦る手は優しく、だから声が震えるのだ。
「持っていた。当たり前だ、俺が選んだのはお前だ、瑞貴」
不機嫌に言い放ち、それから罰が悪そうな声が降ってくる。
「だが、私が風を吹かせなかったことでお前の力が疑われ、お前も悩むということに気付けなかった」
だから、慌てて顕現してまで私を嫁に選んだと伝えたのだ、と。
山神様は、言いながらずっと、私の肩と背を撫でてくれていた。
だから仕方がないのだ。
緊張の糸が緩んで、私は、私は胸を張って白鳥の長と言って良いのだと認められて。
折角和華にしてもらった化粧は、涙と一緒に落ちてしまった。
久しぶりに大泣きした気がする。
和華よりも我慢強く、滅多に泣かない…せめてそれくらいはと気を張っていた私が、瞼も腫れるほど泣くのは一体何年振りだろうか。
ぐすぐすと引き切らない涙の気配を引きずりながら、ようやく顔を上げ――ても、良いのだろうか。
山神様に許されるまで、平伏を続けるのではなかったか。
そういえば、私は今まで一体何を。
さっと血の気が引くのが分かった。
私、もしかして、山神様を罵倒しなかったか?
「…や、山神様」
「ん。泣き止んだか」
「は、い」
背をぽんと叩かれ、恐る恐る視線だけを上に向ければ、ほっとしたような山神様と目が合った。
お怒りに触れてはいない、よう、だ。
私もほっとしたのが伝わったらしく、山神様の表情が緩む。
なんとなくつられてぎこちなく微笑みつつ、私は別の焦りが膨らむのを感じた。
ここからどうすればいい。いや本当に。見当もつかない。
結局私は間違って選ばれたというか、仕方なしに選んだことにしたということは、本当の花嫁を選び直さなければならないはずだ。
もう一度白羽の矢を射るのは、まだ私の仕事なのだろうか――
「それでは瑞貴、手を」
「……て」
て?
差し出された山神様の掌を、ぽかんと見つめる。
「祠を案内しよう。内は、入ったことがないだろう」
案内。
「…え?」
しばしの思考の空白の後、私は目の前の山神様に向けて思いっ切り間抜け面を晒す。
私より頭一つ分大きいそのヒトは、思ったよりも鋭い切れ長の目を大きくして、
「お前は花嫁だろう、俺の」
と、何やらまったくこれでお話は終わらないらしいセリフを吐き出したのだった。
≪了≫
これにて一旦完結です。
俺たちのいちゃいちゃはこれからだ!とか山神様のターンは、ネタが降ってきましたら続きます。
お付き合いいただき、誠にありがとうございました。