5封目 王令
再び病院に戻ることになっても、春樹は文句一つ言わなかった。
大樹の様子にそれどころではないと思ったのだろう。
「大樹、お水」
「……サンキュ……」
ルナにコップを手渡され、大樹は素直に受け取った。
一気に飲み干してから息をつく。体に広がっていく冷たさが心地良い。
その様子を見ていた春樹もホッと息をついた。
「もう大丈夫みたいだね」
「ん。ごめんな、心配かけて」
「ほんとだよ。おまえといるとハラハラしっ放し」
「うっ」
ふう、と肩をすくめられて詰まる。
確かに何度も迷惑をかけているかもしれないが、何もわざとではない。そうあっさり言われると微妙に反応に困る。
だが春樹はいつものこととしか思っていないのか、すぐに笑顔を見せた。
「“力”が暴動しちゃったのは一時的なものだと思うよ。ショックを受けたせいでコントロールが一気に乱れたんだろうね」
「ショック……」
確かにあれはショックに違いなかった。
今でも忘れられない。耳の奥で小鹿の悲鳴が聞こえてくるような気さえした。
「……獣人が他人のものを奪わないって、納得だね」
「え?」
「だってそうでしょ? 奪い合いになってお互いに争ったら、みんな無事じゃいられない。あっという間に全滅だよ」
「…………」
春樹の言葉がいまひとつ意味のあるものとして耳に入ってこない。
代わりに、春樹がなぜそのルールを知っているのか、大樹はまとまらない頭でぼんやりと考えた。
――単にもっちーから話を聞いたのだろうが。
「……大樹。だから言ったでしょ?」
「ルナ……?」
目の前に腰かけた彼女を見やる。
周りが他の獣人の談笑でうるさい中、彼女の声はよく澄んで聞こえた。
「獣人はヒトだってあんな風に食べかねない。……だから危険なの。やっぱり森の外になんて出て行けないよ。……見つかったら最後、殺されちゃう」
「そんな……! 殺されるって何で!?」
「ヒトは、殺さなきゃ殺されるって思い込んでるもの」
「だってケガとかしてなきゃダイジョーブなんだろ!?」
「一応は、ね。でもそんなことヒトは知らないだろうし……知ってても同じだと思う」
「何で!?」
「……すでに殺されてるの、何人か」
ルナが目を伏せる。彼女はきつく拳を握った。その手はわずかに震えている。
「……仲間が見てたんだけど……この前、ヒトに撃たれ、て」
「……え……?」
「この森に猟師っぽいヒトが迷い込んで、……そのヒト、途方に暮れてて。仲間がやめとけって言ったんだけど……一人の獣人が道、教えてあげようとして」
助けてあげようと姿を現した瞬間、その人間は銃を向け発砲した。
そして苦しむ獣人には目もくれず、一目散に逃げ出したという。
「撃たれた仲間はそのまま……。怖かったんだから仕方ないのかもしれない。……でも、やっぱりショックだったかな……ヒトってこんなものなんだって、がっかりした」
「…………」
「でもね。……大樹が一度でも森の外を見せてくれて、私、嬉しかったよ? こんなヒトもいるんだって安心した」
ルナが微笑む。だが大樹には納得出来なかった。
確かに獣人は危険なのかもしれない。
それは先ほどのギャラを見ると認めざるをえない。
だが、いつでもどこでも危険というわけでもないだろう。
少なくともルナは、血さえ見なければむやみに人を襲うことなんてない。
それでも殺されてしまうというのか。殺された者もいるというのか。獣人というだけで。
「そんなの……っ」
「仕方ないよ……王令が出されたんだもの。……今も消えてないんですよね?」
後半は春樹に向けて。
一瞬戸惑った春樹は、それでもゆっくりとうなずいた。多少バツが悪そうに。
「獣人の研究が発覚してからすぐに出されたみたいです。獣人を見つけ次第壊すようにと。王令が出されてから二代ほど王は替わりましたけど……今でも取り消されていません。……一応、みんな絶滅したと思っていたみたいですけど」
「春兄、おうれーって?」
「簡単に言えば、王様が直接出した命令のことだよ」
春樹が苦笑して教えてくれる。とたんに大樹の顔は輝いた。
「じゃあ! じゃあさ! 葉兄に頼めばいいじゃん!」
「ようにい……?」
「オレの兄ちゃん! 王サマなんだから、頼めばその王令ってのも変更出来るぜ!」
そうだ、簡単なことだ。王が獣人を殺すなと言えば事態はきっと変わる。少なくとも見つかっただけで殺されてしまうなんてことにはならない。
だが、いい案だと喜ぶ大樹に反し、ルナの顔は青ざめた。
「大樹……あんた王家の人間だったの……?」
「え?」
しん、と周りが不気味なほど静まり返る。談笑していた獣人たちのたった一人ですら音を発しない。
ざわりと、空気が変わった。
「捕まえろっ!!」
――――!?
「来てっ!」
鋭く叫び、ルナが大樹の腕をつかんだ。
戸惑う大樹をぐんぐん病院の奥へと連れて行く。すぐさま春樹もその後に続いた。
膨れ上がる殺気が負けじと迫ってくる。
「ルナ!? 何なんだよ!?」
「バカッ」
「んな!?」
「獣人が王を憎んでいてもおかしくないだろ!? むしろ当然だ!」
後ろから春樹が怒鳴ってくる。
そこでようやく大樹も理解した。
獣人たちが殺されなければいけない直接の原因は、そのような命令を下した王だ。
そしてそれに近い王家の自分たちは、“憎しみ”の対象となるのに十分すぎた。
「捕まえろ! 捕まえろっ!」
「あいつらさえいなければ!」
「ぜってぇ逃がすな!!」
「…………っ!」
向けられる殺意。憎悪。それらは息が詰まるほどで。
「この窓から出て! 早くっ!」
「お、おう!」
ルナに誘導され、病院の外へ転がり出る。
その瞬間、フワリと黒いものが目の前に舞い降りた。ソレは翼を広げて笑う。
――“……毎回騒がしいな”
「セーガ!」
春樹がいつの間にか呼び寄せたらしい。全く気づかなかった。
窓から出てきた春樹が、足を止めずに一気に駆け寄る。
「セーガ、乗せて! もう後ろにまで来てる!」
――“ああ”
「ほら大樹!」
「あ……おう!」
「ルナさんも!」
「……はいっ」
一瞬迷いを見せたルナも、素早くセーガに飛び乗った。
その身のこなしは軽く、やはり獣を思わせる。それと同じくらい軽く、セーガはその場を駆け離れた。
追ってくる怒号。罵倒。憎悪の塊。
それらが徐々に小さくなっていく――……。
ようやく安全だと思えるところで、セーガは静かに降り立った。
三人もそっと降りる。もう、ここからならすぐ森を出ることが出来る。ルナはこれ以上進めない。
大樹は気まずさを感じずにはいられなかった。頭を垂れる。
「ルナ……ごめん、オレ……」
「どうして謝るの?」
「だってオレが余計なこと言ったからだし、それに王令とかも……」
「大樹は悪くないよ。王令だって、大樹には何も関係ないんだし……」
「それはそうなんだけど……いてっ」
チクリとした痛みに顔をしかめる。
慌ててみると、腕に小さなかすり傷が出来ていた。
わずかに血が滲んでいる。木の枝にでも引っ掛けたのだろう。
「うーあー」
「後でちゃんと消毒しろよ?」
「わかって……っあ!?」
ダン! と勢いに任せて押し倒される。
いきなりのことに視界が揺らいだ。のしかかってくる重み。
「ル……っ」
ルナ!?
態度が豹変した彼女の瞳は赤く染まっている。
その瞳は大樹を映してはいない。
覗くのは鋭い牙。
『……獣人はね、血を見ると……』
――――っ!
しまった!
「ルナ! ルナ!?」
「大樹!」
「春にっ……」
力では振りほどけない。ルナの顔が近づく。
爪が腕に食い込む――……!?
――ふと、ルナの懐から何かが転がり落ちた。
小さな桃色。
キラリと光に輝くソレ。
「……あ……」
その色を目に入れたルナの力が、ふいに弱まった。
瞳の色が徐々に光を取り戻していく。
そこに残ったのは戸惑いと――絶望。
「……っ、ごめん……!」
「ルナ!?」
走り去るルナの姿は瞬く間に見えなくなる。
ただ、桃色のかんざしだけがそこにそっと佇んでいた。
◇ ◆ ◇
春樹とセーガに促され、大樹は何とか城まで戻ってきた。
「……大樹、さっきのことは……」
「ダイジョーブ! ……ルナだって、やりたくてやったわけじゃねぇもん。それに結局オレは何ともなかったし……だから全然! ダイジョーブ!」
「……そう」
笑顔を向けると、春樹も微笑み返してきた。
大樹はもう一度笑みを向ける。
――ルナはルナなりにひどく大変な状況だ。
けれど何とか頑張っている。自分だってへこたれてなんかいられない。
「あ、それじゃ僕はちょっと用があるから……大樹は?」
「うー……オレは一回寝る……」
「そっか、じゃあまた後でね」
「おう!」
春樹と別れ、とりあえず部屋に戻ろうと――ふいに城の者に呼び止められた。
「あ、大樹様。王がお呼びですよ」
「……え?」
「王室にいるようですから、出来るだけ早く行ってあげてくださいね」
「…………?」
ポカンとしたまま、仕方なく王室へ向かう。
それと同時にふと思い出すこともあった。
どうせ会うのだ、獣人の件もきちんと頼んでおこう。
早く言った方がいいに決まっている。それに葉ならきっとわかってくれるはずだ。
そう意気込み、大樹は何の気なしにドアを開けた。
「葉兄ー?」
そこにいたのは、こちらに背を向けるようにして立っていた葉。
彼はゆっくり振り返る。
「……ノックくらいしろよ」
「あはは、悪い。んで? オレに何の用……」
言葉が音を失う。大樹は直感的に知った。――今の彼は、“兄”でない。
「葉兄……?」
「……大樹。おまえ、獣人と会ってるんだろ?」
いきなり核心を突かれ、思わず息を呑む。
だが大樹は負けなかった。
一度深く息を吸い、しっかりと彼を見上げる。
――みんな、獣人のことをまだよく知っていないだけだ。
話せばわかる。葉ならきっと、きっとわかってくれる。
「……会ってるけど……。葉兄、オレもそのことで話があるんだ」
「話、ねぇ?」
葉が小さく笑う。
だが、それもまだ兄の顔ではない。
倭鏡の王としての顔だ。あまり慣れていない大樹としては、何だか妙に落ち着かない。
「言ってみろよ」
「んと……昔、獣人を殺せって命令があったんだろ?」
「ああ」
「それ、取り消すことって出来るよな!?」
「……そりゃあ、俺にとって可能か不可能かって言われたら、まあ可能だな」
王なんだから、と葉が肩をすくめる。
そこには兄の顔が見えた。
大樹は顔を輝かせる。
「じゃあ……!」
「待てよ。……何でまた?」
「あ、あのなっ。獣人って悪い奴ばっかじゃなくて! そりゃ危ない奴もいるかもしれないけど……オレ、何度も助けてもらったし! 他にも道に迷ってる奴を助けようとした獣人とかもいて! でも、その命令のせいっていうか……何もしてなくても殺されちゃうような獣人もいるんだ、だからっ……」
「獣人を助けてやってほしいってことか?」
「そうっ!」
勢い込んでうなずく。話が簡単に通じて良かった。そうホッとする。
が。
「……大樹。おまえ何言ってんだ?」
「え……?」
――葉の眼は、ゾッとするほど冷たかった。




