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倭鏡伝  作者: あずさ
10話「静かに鎮め夕月夜」
85/153

3封目 血塗られた祈り

 右。左。前。後ろ。

 ――もう一度右、左、前。


「……やべ」


 キョロキョロと見回すのをやめ、大樹はポツリと呟いた。


「……迷った……」


 ――昨日はルナのところへ行くまで無我夢中だったし、その後はルナが案内してくれた。

 その間大樹はルナやもっちーとずっと喋っていたのだ。

 道を覚えようとしていたわけではない。覚えなきゃ、とすら思いもしなかった。


 参った。本気で道がわからない。

 さっきから森の中をグルグル回っている気がするのは気のせいだろうか?


「くっそー……。ルナー! ル―ナ――っ!? お~~いっ!」


 声を張り上げてみても反応はない。

 けれど諦めてたまるか!


「ル」

「餌はっけーん♪」

「んぎゃ!?」


 叫ぼうとした瞬間、それは上から降ってきたものによって潰れたような悲鳴に変わった。

 というか実際に大樹は潰されたのだ。

 べちゃ、と虚しい音が聞こえた気がしなくもない。


「ったあ~……」

「ん? ……あ、何だおまえか」


 聞き覚えのある声。

 この微妙にムカつく声は――。


「ぎゃ……ギャラぁ!? またおまえかよっ」

「そりゃこっちのセリフだぜ。おまえ、まだルナに食われてなかったのか?」

「うるせー! っつかどけ! 重いっ!」


 ヤレヤレ、などと訳のわからない呟きを漏らす彼を睨みつける。

 こっちは顔から落ちて痛かったのだ!

 人を潰しておいて何だその態度!


「んな怒るなよ。それより、こんなところでフラフラ何してんだ?」

「……ルナのとこに行く途中だよ」


 迷ったとは言わない。

 彼にそれを言うのは妙に悔しい気がしたのだ。わざわざ恥を暴露する必要もないだろう。


「ふ~ん。ラッキーだったな、相手が俺で」

「は?」

「だってよ、昨日あの場にいなかった奴はおまえがルナのものだって知らないんだぜ? そんな奴らに見つかってたら速攻食われてただろ」


 呆れたような眼差しを送ったギャラは、ようやく大樹の上から降りた。

 どうやら本気で言っているらしい。

 他人のものは奪わない。ルナの言っていたルールは本当にあるようだ。

 それを嬉しく思っていると、ふいに浮遊感に襲われた。


「へっ?」

「なあ、おまえの名前何だっけ?」

「? 日向大樹だけど……」

「大樹。これからルナのところに行くんだろ?」

「お、おう」

「ヒトの足じゃ時間かかるぜ。ついでだし連れてってやるよ」

「え、な、ちょ」

「いくぞーっ」

「のおぉぉおおっ!?」


 こちらが返事をするより早く、ギャラが思い切り地を蹴った。

 驚くべき速さで木々が目の前から遠ざかっていく。風邪の音が耳元で騒ぎ立てている。


(速っ……!?)


 落とされないようにしがみつきながらも変に感心してしまう。これが獣人の力というものなのか。


「大樹」

「何だよ?」

「風、気持ちいーだろ?」

「え……」


 思いがけない言葉に目を丸くする。

 それから、大樹は一度目を閉じた。

 最初はあまりの速さに小さな恐怖も感じたが……確かに悪くない。

 この暑さの中、颯爽と駆けていく風は気持ち良かった。

 騒いでいるように思えた風も、よく耳を澄ませば――それはまるで軽快なメロディー。


「……おうっ! すっげー涼しい♪」

「だろ。ま、俺だから当然だけどな? ……ほれ」

「あたっ!?」


 突然落とされた。

 何すんだよ、そう文句を言いかけて気づく。


「大樹……?」

「ルナ!」


 こちらを覗く金色の瞳に、大樹はパッと笑顔を向けた。

 差し伸べてくれた手をつかむ。

 起き上がった自分に、彼女はホッとしつつも怪訝そうな顔をした。


「何でギャラが?」

「あー、大樹が迷ってたから俺が連れてきたんだ」


 思い切りバレてる!?


「う、な、なんっ……」

「大樹、お礼は腕一本でいいぜ?」

「は!?」

「ギャラ!?」

「……冗談だっつーの。そんな怖い顔すんなよ。ルナのものなんて取らねぇから」


 ギャラがニヤリと口の端を上げる。

 それをルナは胡散臭そうな目で見ていた。

 だが、今なら何となくわかる。

 ルナは本気で彼を疑っているわけではない。これはある種の「お約束」なのだろう。


 そしてそれは大樹も同じだった。

 呆れる気持ちはあるものの、昨日のような嫌悪感は湧いてこない。

 何だかんだいってギャラは迷った自分を助けてくれたのだ。


「んじゃ、俺は食い物探しにでも……」

「ギャラ!」

「ん?」

「サンキューなっ」

「……どうぞごゆっくり」


 紺碧を細め、ギャラは小さく笑った。そのまま森の奥へ消えていく。

 二人きりになった大樹とルナは、何となく互いに顔を見合わせた。


「あ……えっと。本当に来てくれてありがと、大樹」

「何言ってんだよ、約束だったろ?」


 微笑んだ彼女に笑う。

 それから大樹はぐるりと周りを見回した。

 木が鬱葱としているので少々薄暗い。この森の外は眩しいほどの光で溢れているというのに。

 よし、と大樹は一人で大きくうなずいた。

 いきなりのことにルナがきょとんと首を傾げる。


「大樹?」

「な、今日は露店巡りしようぜ! 今たくさん出てるらしいんだ!」

「え……でも私、昨日も言ったけど外には……」


 ポン。

 彼女の頭に手を置くと、彼女は慌てて身体を強張らせた。

 大樹が頭にかぶせてきたものに、彼女は恐る恐る触れてみる。


「……帽子?」

「そっ」


 ここへ来るときに大樹がかぶっていたものだ。

 ポカンとしたルナの顔を覗き込む。相変わらず金色の瞳は綺麗だった。


「これかぶってれば、耳が隠れてバレないだろ? シッポも服の中に隠せばダイジョーブだろうし。な? どーだっ?」


 笑顔で手を差し出せば――ルナも笑い、そっとその手をつかんでくる。


「……大樹には敵わないや」



◇ ◆ ◇



 客を呼ぶ声。談笑。人の波。

 目の前に並ぶ光景に、大樹はウキウキと心が騒いだ。

 そっとルナを振り返れば、彼女も瞳をキラキラとさせている。

 きっと初めて見る世界なのだ。全てが新鮮に違いない。


「ほら、行こうぜ!」

「うんっ」


 賑やかな雰囲気に呑まれたのか、彼女の声は今までで一際弾んでいる。それが何だか嬉しかった。


「大樹、あれ何?」

「ん? ……ああ、多分髪飾りじゃねーか?」

「へえー……キラキラしてる」


 そう言って彼女が手に取ったのは、桃色のかんざし。

 確かにそれは光の反射で輝きを放っていた。角度を変えるたびにキラキラと色を変える。

 それが面白いらしく、ルナは楽しげに目を細めた。

 大樹にはよくわからないが、女の子というのはやはりこういうものが好きなのだろうか。


「――それが欲しいのかい?」

「え?」


 ルナが瞬き、大樹も顔を上げる。

 そこには一人の女性がニコニコと立っていた。

 その表情はいかにも「らしく」、ふっくらとした女性。

 ややして気づく。ここの店主ともいえる人だ。大樹は何度か顔を見たことがある。

 どうやら相手も大樹に気づいたらしく、彼女はさらに顔を綻ばせた。


「なんだ、大樹くんじゃないか」

「どもっ」

「可愛い子を連れてるね。お友達?」

「おう! ルナってゆーんだ」


 笑顔でうなずき、ルナを見やる。

 ルナは慌てて頭を下げた。

 そんな自分たちに女性は相変わらずニコニコしている。


「いいねぇ。大樹くんってばこんなに可愛い彼女がいるなんて」

「…………、ぅええ!?」


 か、かの、

 ――彼女!?


「な、ななな何言ってんだよ!?」

「照れない照れない」

「ちょ、違っ……ルナ! 何か言ってくれよ!」

「……ぷっ」

「ルナぁ!?」


 なぜ、なぜそこで笑う!?


「だ、だって大樹どもりすぎ……顔真っ赤……っ」

「~~~~っ!?」


 どうして自分ばかりパニックになっているのだろう。何だか馬鹿みたいだ。

 大樹は頭を抱え、のろのろとかんざしを手に取った。ムスッとしながら女性に渡す。


「とりあえず! おばちゃん、それ一つ」

「はいよ。彼女にプレゼントなんてやるねぇ♪」

「だからちがぁう!」


 いつまでそのネタを引っ張る気だ!

 だが思い切り喚いても効果はなく、その女性は笑いを止めることはなかった。ふくよかな身体を鈍く揺らす。


「う~……」

「ほらほら、むくれないの」


 クツクツと喉の奥を震わせながら、女性が倭銅と引き換えに、小さな袋に入れたかんざしを渡してくれる。

 ……さらに二つの袋?


「おばちゃん?」


 全て手の中に収まる三つの小さな袋に、大樹はきょとんと女性を見た。

 女性は大樹とルナを交互に見、笑ってウインクをプレゼントしてくれる。


「それはオマケだよ」

「え、マジで? サンキュ♪」

「ありがとうございます」

「あはは、大したものじゃないんだよ」


 笑って「またおいで」と言われ、大樹とルナは笑顔でうなずいた。次の店を探そうと手を振って別れる。

 女性は最後までその笑みを崩さなかった。


「次は何か食い物買おうぜ♪ ……あ、その前にコレ」

「……いいの? 本当に私がもらっても……?」

「オレが持ってても困るだろー?」


 かんざしの入った袋とオマケでもらった袋を手渡す。

 実際、オマケはともかく大樹がかんざしを使う機会はない。

 深く考えずに買ってしまったが、ここで受け取ってもらわなきゃ大樹も困るのだ。

 そんな気持ちが通じたのだろうか。ルナはしばらくその袋を眺め、それから大切そうに軽く握り締めた。


「ありがと、大樹」

「へへっ♪ そだ、おばちゃんがくれた袋も見てみようぜ!」

「うん。……これ……?」

「お。コンペイトウじゃん!」

「こんぺいとう?」


 聞き慣れない言葉なのだろう。ルナは首を傾げ、まじまじと袋の中を覗き込んだ。

 淡くきれいな粒がその中に佇んでいる。

 それはまるで、小さな星のカケラたち。


「コンペイトウはお菓子だぜ。んっと……確か砂糖で出来てるはず?」


 あやふやなせいで語尾が上がってしまうのは仕方ない。

 「とりあえず食ってみろよ」と促し、大樹も二つ三つつまんで口の中へ放り込んだ。

 口の中で転がせば、どこか懐かしい、ほのかな甘さがさらさらと溶けていく。

 その優しい味に自然と顔が緩む。

 と。


「おいしいっ」

「ルナ?」

「大樹、これすごくおいしいっ」


 大樹以上にはしゃぐ――いや、もはや興奮しているルナ。

 ここまで素直に喜ばれて悪い気がするはずもなく、大樹もつられて笑顔になった。

 露店に連れてきて良かった。そう思う。


「他にもいいもの、いっぱいあるからな! ……あ、アイス!」

「え? 何?」

「今日暑いし食おうぜ♪ おっちゃん、バニラ二つー!」

「はいよっ」


 威勢の良い声と同時に差し出される二つのアイスクリーム。

 ――速い。プロ級だ。


「ほらルナ。溶けない内に食おうぜっ」

「うん……」


 またもや初めて見るものに、ルナが真剣な目で観察を始めた。

 その目のままゆっくり口を開け……舐める。

 とたんに彼女の顔は輝いた。


「これもおいしい……!」

「へへー♪」


 別に自分が作ったわけではないのだが、何だか妙に得意になってしまう。

 こうなったらとことん楽しまないと!


 トントン。

 意気込んだとたん肩を叩かれ、


「? ――うあ!?」


 目の前に血まみれの男!?


「な、ななななんっ」

「う゛―……大樹……」

「ぎゃ―――!?」


 べしゃっ


「……ああああ!?」


 アイスが! まだ一口しか食べていないのに!


「……あちゃー。こりゃ悪いことしたな」

「って空兄!?」


 地面に食べられたアイスを見、男性がポリポリと頭を掻いた。

 その声でハッとする。

 彼の名は出雲空。

 葉の友人であり大樹や春樹とも仲良くしてくれる人だ。

 それはいい。

 それはいいのだが――なぜ彼が血まみれでこんなところに!?


「脅かして悪かったな。あ、ちなみにこれはトマトケチャップ」

「……へっ?」

「今夏休みっつーことで、俺、工場以外でもバイトしてんだ」

「だからって何でそんなカッコ……」

「んー? 自慢のお手製トマトをアピールしてこいって命令されてさ」


 逆効果じゃないだろうか。

 カラカラとケチャップまみれで笑う彼に、大樹はどうフォローしてやればいいかわからなかった。

 春樹ならご丁寧にもツッコんであげただろうか。葉なら他人のフリを試みそうだ。

 そんなどうでもいいことを悩んでいる間に、空は笑うのをやめて頬を掻いた。

 その表情はどこか気まずそうだ。


「あー……ホント悪かったよ。アイスも弁償するし。だからそこの女の子も、そんな怖い顔しないでくれねぇかな?」

「……ルナ……?」




 目に映るのは赤。紅。あか。

 流れる。巡る。熱い。苦しい。

 ザワザワ。ガンガン。

 止まらない。止まれない。止められない。

 何かが叫ぶ。怒鳴る。嗤う。

 あかあかあかあかあかあかあかあかあかあかあか。


 うるさいうるさいうるさい――五月蝿い!!




 べちゃっ


「ルナ!?」


 突然アイスを落とし、ルナがその場を駆け出した。

 さすが獣人だけあってその足は並でない。あっという間に人込みに紛れてしまう。


「大樹……」

「空兄悪い! オレ追いかけてくる!」

「ああ。マジごめんな」


 謝る彼に大丈夫だとうなずいてみせ、大樹は急いで人の波へと向かっていった。



◇ ◆ ◇



 止まらない止められない。

 それは嗤い狂う悪魔。



「ルナ……っ」


 すっかり露店の通りを抜けてしまったところで、大樹はようやく足を止めた。

 ずっと全力疾走だったので息が続かない。苦しくてたまらなかった。

 それでも彼女の姿を認識し、大樹は目を離さないようにと顔を上げる。


「……ルナ」


 彼女は、大きな木の陰でその身を小さくしていた。


「どうしたんだよ。急に走り出すなんて……」

「近寄らないでっ!」

「……ル、ナ?」


 それはあまりにもはっきりとした拒絶。

 大樹は戸惑いを隠せなかった。身体が痺れたように動かない。一体何だというのだ?


「……オレ、何か悪いことしたか……?」


 ――返事は、ない。

 それがかえって怖かった。たまらなく不安になる。わからない。何が間違っていたのか。


「ルナ」

「…………」

「ルナ! どうしたってんだよ……訳わかんねぇ! 何か悪いことしたなら謝るから! だからっ……!」

「違うの……!!」

「……え?」


 絞り出すような声を上げ、彼女が振り向く。

 その瞳に、大樹は思わず立ち尽くした。


(……何だ……?)


 ソレは大樹の見てきた光の色ではなかった。

 うっすらと、けれど滲むような赤。

 泣き腫らしたからといってもこうはならない。

 それはあまりにも自然な赤色すぎて、かえって人工的なイメージを漂わせていた。


「ルナ、その目……?」

「……獣人はね、血を見ると理性が一気にコントロール出来なくなるの」

「理性、を?」

「さっきのは本物の血じゃないからまだ無事な方だったけど……それでもまだ、体中の血が騒いでる。本物じゃないって頭ではわかってるのに、一気に目の前が真っ赤になって……っ!」


 ぎゅっと、彼女は体を抱き締める。まるで込み上げてくる震えを押さえ込むかのように。


「やっぱり無理なんだよっ……」

「え……」

「私がっ、獣人が森の外に出るなんて無理なんだよ!!」


 ――震える声を聞いた瞬間、何かが弾けた気がした。

 ルナに駆け寄る。来るなと言われても構わない。


「何でそんなこと言うんだよ!」

「だって!」

「ルナ、楽しんでただろ!? 森の外でも遊べたじゃねぇか! おばちゃんともたくさん話したし! コンペイトウもおいしいって! 笑ってただろ!?」

「無理なの! ヒトを傷つけずにいるなんてっ!」

「ルナ!?」


 怒鳴るように声を張り上げると、彼女はキッと睨んできた。

 その瞳は徐々に金色に戻りつつある。

 そしてその色に滲むように――涙。


「……私のお父さんは人間だって言ったよね……?」

「へっ……?」


 思わぬ話に口を閉ざす。戸惑いつつも大樹は黙ってうなずいた。


「私、お父さんのこと好きだった。獣人だとか人間だとか、そんなの全然関係なくて。すごく優しくてっ……本当に大好きだった!」

「…………」

「でも死んじゃった。簡単に死んじゃったの」


 ふと、ルナが笑う。

 しかしそれは一瞬のこと。


「――お母さんが食い殺しちゃったのよっ!!」


 …………え…………?


「お母さんだってあんなにお父さんのこと好きだったのに! 愛してたのに! お父さんがちょっと怪我しただけで! 食べたのっ、耐えられなかったのっ! 獣人だからっ!!」


 叩きつけるかのように吐き捨てる。それはまるで呪詛。


「お父さん、私を見た! 助けてくれって目が言ってた! でも止められなかったっ……止めようだなんて思えなかった!」


 彼女は何度、自分を呪ったのだろう。


「それだけじゃない! 私も……っ」


 血塗られた呪詛はいつまでも痛みを伴い続ける。


「私も……お父さんの血で真っ赤だったお母さんをっ……! 気づいたら私、私……っ!」

「もういい! ルナ、もう言わなくていいから!」

「…………っ」


 ルナがしゃくり上げる。震える肩は止まらない。

 それはとても小さく、細く、――ひどく頼りなかった。


「何で……? 何で私、獣人なの……?」

「……ルナ……」

「大樹……怖いよ。私、自分の血が怖い……もうやだっ……」


 何度も何度も願う。それは心からの祈り。


「助けてよ……っ!!」


 悲痛な叫びがひどく刺さる。

 それでも大樹には何も言えない。

 答えなど知らないから。答えがあるのかすら知らないから。

 けれど――。


 ぎゅ……っ


「……だ、いき?」


 突然抱き締められたルナから力のない声が返ってくる。

 近すぎるその言葉の響きは、なぜかとても悲しかった。


「……これな、昔母さんが教えてくれたおまじないなんだ」

「え……?」

「怖いときとか寂しいときは、こうやってぎゅっとするといいんだって。そうしたら独りじゃないってわかるから。……冷たい心が溶けて、温かくなるからって」


 自分には何も言えない。何もわからない。

 けれどせめて、今、この瞬間だけでも。

 その不安を、寂しさを消せたら――……。


「…………っ」


 ルナが恐る恐る腕に力を込める。温もりがそっと流れ込む。

 彼女の中で凍る心の水は、溢れるように瞳から零れ落ちた。


 いつの間にか、夕日が静かに辺りを染め上げていた。

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