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倭鏡伝  作者: あずさ
10話「静かに鎮め夕月夜」
83/153

1封目 月の獣人

 太陽が高く昇り容赦なく照らしつけているが、部屋の中は比較的涼しくて心地良い。

 そんな朝、日向春樹を起こしたのはつまらない目覚まし時計の音ではなく、澄むような小鳥のさえずりであった。


「…………」


 男の春樹には不似合いなほどメルヘンちっくな目覚めだが気分は悪くない。ぐっすり眠っただけあって頭も体もすっきりだ。

 そんなことを思い、春樹は部屋を見回し――。


「わっ、九時!?」


 慌ててベッドから飛び降りる。

 血の気がザッと引き、代わりに血管の中を氷が一瞬で駆け抜けた。


「寝坊したっ……あれ?」


 違和感。

 よく見たらいつもの部屋でない。

 ベッドもフカフカだ。そして賑やかなほどの小鳥たちの歌声。


 ――ここ、倭鏡?


「……そういえば夏休みだっけ」


 ポツリと呟き、ようやく頭が回転し始める。

 どうやら少し寝惚けていたらしい。


 バツの悪い思いで頭を掻いた春樹は、隣のベッドがすでにもぬけの殻であることに気づいた。

 弟の大樹はもう起きているのだ。

 珍しい。いつもなら春樹がどんなに頑張ってもなかなか目を開けないというのに。


 何となく肩すかしを食らった気分になりながら、春樹は手早く準備を済ませた。そっと部屋を出る。


「あら春樹様。お早うございます」

「あ……おはようございます」

「今食事をお持ちしようかと思っていたのですが……」

「ありがとうございます。お願い出来ますか?」

「ええ。少々お待ち下さい」


 ニコリと微笑み、女性が通りすぎていく。

 その背を見送り、春樹はホッと息をついた。


(……何もしてないのに食事が出来るって変な気分)


 普段はすっかり主夫なのだ。慣れない。

 それと同時に、自分も一応王家の一員なのだなと、奇妙な実感がじわりと湧いた。


「今起きたのか?」

「? ……葉兄」


 振り返った先には、兄の葉の姿。

 やたら大きな窓から注ぐ光の中に立つ彼は、一瞬、目を瞠るほどの存在感を放っていた。

 圧倒された春樹はややして気づく。その原因が、彼の王としての正装姿であることに。


「おまえにしては寝坊だな」

「うん……ちょっと疲れてたのかも。ところで葉兄、そのカッコ……?」

「ちと堅苦しい会議があってな。肩凝っちまった」


 そう言って肩をすくめる彼の様子はすっかりいつも通りだ。

 春樹は小さく笑った。


「お疲れ様。ねえ、大樹は?」

「チビ樹? 病院に行ったぜ、もっちーと」

「病院?」

「ああ。果物がたくさん届いたから、親父への見舞いとして届けに行ってもらったんだ」

「……じゃあ、後から僕も追いかけようかな?」


 大樹ともっちーなら徒歩の可能性が高い。

 春樹のセーガで追えば、朝食を済ませてからでも何とか追いつけるだろう。

 大樹なら病院でしばらく両親と話し込むだろうし。


 そうだな、とうなずいた葉が欠伸をかみ殺す。

 釣り上がった目を軽くこする彼に、春樹はわずかに顔をしかめた。

 この兄はちゃんと睡眠をとっているのだろうか。

 普段は自分たちをからかいまくっているが、いざ仕事となると彼も一通り頑張っている。

 それがわかっているからこそ心配だ。


 しかし春樹が何か言ってもはぐらかされるのがオチなので、春樹はため息を一つつき、別の話題を口にした。


「会議って渡威の話?」

「いや。……もしかしたら渡威より厄介かもしれねぇな」

「え?」

「春樹。おまえ、獣人って知ってるか?」

「獣人……?」


 獣人。

 文字通りなのだろう。獣と人が混じり合った存在。

 獣と人、そのどちらでもあり、どちらでもない存在――。


「……漫画とか小説とかでなら聞いたことあるけど……。それがどうかしたの?」

「――いたんだよ、倭鏡にも」

「……え?」

「いや。いるんだ」


 過去形から現在形へ。

 その訂正に気づいた春樹は眉を寄せた。葉を見上げる。

 だが、葉は軽くかぶりを振るようにしてこちらを見ない。


「絶滅したと思っていた。……絶滅させたはずだった。けど、最近目撃報告があってな」

「……危険なの?」

「ああ。俺もまだ詳しく知らされてねぇけど……獣人は人を食うらしいぜ?」

「人を……!?」

「そもそも奴らは造り出されたんだ――生きた兵器として」

「…………」


 あまりのことに言葉を失った。

 沈黙が重たげにその場を通り過ぎていく。窓から刺す光だけがはっきりと存在を主張している。

 ふいに、葉の口の端がニヤリと上がった。


「う・そ・ぴょん♪」


 ――がくっ


「葉兄!?」

「んな報告、デマに決まってんだろ?」

「冗談にも言っていいものと悪いものがあるでしょ!?」

「だっておまえ相手だぜ? チビ樹と違ってよりリアリティーを求めねぇと引っ掛かってくんねぇじゃん」


 それにしたって「うそぴょん♪」はないだろう。

 十八歳にもなる男が「うそぴょん♪」は。


「チビ樹相手なら『妖精さんが来てチビ樹のケーキ食べていったぞ☆』で済むのによ」

「……葉兄、大樹のケーキ食べちゃったんだね?」

「弟に素敵な夢とロマンを与えてやるのも兄の役目だよなぁ」

「現実を捻じ曲げてまで『いいお兄さん』っぽく振る舞わないでよ」

「春るん冷たい」

「そうさせてるのは葉兄」


 春るん呼ばわりに顔を引きつらせながらもピシャリと言い放つ。

 タチの悪い冗談を聞かされてニコニコと流せるほど、春樹は心穏やかな人ではなかった。


「ブラック春るんが降臨すりゃ全部笑顔で流してくじゃねぇか」

「……モノローグにツッコまないでよ……」


 ぐったりと息をつく。

 どうして彼との会話はこうも疲れるのだろう。もう訳がわからない。


「春樹様。お食事をお持ちしました」

「え?」


 突然の声に振り向くと、先ほどの女性がワゴンと一緒に立っていた。


「お待たせしてすいません」

「いえっ。ありがとうございます」


 慌てて頭を下げる。すっかり忘れていたが朝食がまだだったのだ。

 だが、忘れていたとはいえ春樹は中学一年生。育ち盛りだ。

 いざ食事を目の前にすればやはりお腹が空く。

 しかもありがたいことに人が作ってくれたものだから尚のこと。

 それにしてもワゴンで来るなんて相変わらず豪勢な食事だ。


 葉が小さく笑い、踵を返した。彼は背を向けたままヒラヒラと手を振ってくる。


「残さず食えよ」

「あ……葉兄!」

「あ?」

「さっきの話。……どこまでが冗談?」


 葉が立ち止まる。振り返らない。

 ――笑った、ような気がした。


「……さあな」

「…………」


 彼の姿が見えなくなると、春樹は知らずため息をついた。

 まだ側にいた女性に会釈し、ワゴンと共に部屋へ戻る。

 ワゴンからはいい匂いが湯気と共に立ち込めていた。


『んな報告、デマに決まってんだろ?』


 報告があったということ自体がデマなのか。

 それとも――本当に報告はあったのか?


「……何だかなぁ」


 呟いた瞬間お腹が「早く」と訴え始め、春樹は慌てて朝食を食べることにした。



◇ ◆ ◇



 右手に封御、左手に果物の詰まったバスケット、背中に怪獣のぬいぐるみが顔を覗かせているリュックサック。

 一体何がメインなのかツッコみたくなるような格好を「完全装備」と称し、大樹はご機嫌な足取りで病院へ向かっていた。

 病院そのものは決して好きでないが父と母に会える。しかも葉から見舞い品まで預かっているのだ。

 ただのパシリだ、と文句を言う者もいるかもしれない。

 だが大樹は違った。

 元々ポジティブだし、普段春樹から手伝いなどを拒否される分、仕事を頼まれると嬉しくなる。

 これは任務なのだ。頼りにされている証拠なのだ!


 ――そんなわけで、大樹のご機嫌ぶりは思わず歌い出すまでに達していた。


「ある日♪」

「♪あるひ」

「森のなか♪」

「♪もりのなか」

「クマさんに♪」

「♪くまさんに」

「出会った♪」

「♪であった」

「「花咲く森の道ークマさんに出会った♪」」


 ――ぬいぐるみと「森のくまさん」を歌っている少年というのは、周りから見るとなかなか奇妙なものかもしれない。


「クマさんの♪」

「♪くまさんの」

「いうことにゃ♪」

「♪いうことにゃ」

「…………」

「……大樹サン? ど忘れしたん?」


 突然止まった大樹に、もっちーが身じろぎしながら訊いてくる。

 だが大樹はそれに答えなかった。じっと耳を澄ませる。

 ――今の感じは何だ?


「森が……騒いでる……?」


 ザワザワ。何かが揺れる。訴えている。


「大樹サン……? おわっ!? ちょっ、どこ行くん!?」

「森!」


 一度気になると止まらなかった。大樹は弾けるように駆け出す。

 背中で縦シェイクされているもっちーが悲鳴を上げたが、もう少しの辛抱なので我慢してもらうことにした。

 そんな二人に気づけという方が無理だったのだろう。

 だが、茂みに隠れるようにして、そこには確かに「立入禁止」の札――。


「大樹サン、道わかって……」

「多分こっち!」

「多分!?」


 アバウトさ満点の返事にもっちーが悲鳴じみた声を上げた。

 けれど大樹の勘が迷わずそう告げているのだ。こうなったら自分の勘を信じるしかない。


 と――。


「……人?」


 ふいに視界に飛び込んできたのは、白いフードを被ったまま倒れている人の姿だった。

 そのフードは所々汚れ、泥がついている。長年使っているものなのだろう。

 大樹自身、とっさに白だと判断出来た自分に驚くくらいだ。


 ――森のざわめきが、止んだ。


「……おい! ダイジョーブか!?」


 駆け寄り、思い切り揺する。

 とりあえず抱き起こそうと、


「……るさいっ……」

「大樹サン!」

「っ!?」


 相手が動いた。

 そう思ったときには、かばうように出てきたもっちーごと突き飛ばされていた。


「もっちー!」


 もっちーの体が裂かれている!

 裂かれた腹部からは酷にも綿が飛び出ている。それはぬいぐるみだからこそ。

 だが、もし食らっていたのが大樹だったら?


「もっちー!? ダイジョーブか!?」

「大樹サン、こっちこっち」

「へっ……?」

「とっさにぬいぐるみから出たんや」


 そう言ってユラユラとしっぽを振る、うさぎに似た生物。もっちー本来の姿。

 つまりもっちーは、普段一体化しているぬいぐるみが裂かれる寸前に分離し、ダメージを食らうのを防いだのだ。


「……もっちぃいいい!」

「ぐほっ!?」

「すげーよもっちー! 最高だぜ! 無事で良かったぁ!」

「く、苦しっ……ギブギブギブぅっ」

「あ、悪い」


 抱きしめていた腕を緩める。

 せっかく助かった命の光を大樹自身が消してしまっては意味がない。


「そ、それよりさっきの人は……?」

「! そーだっ、てめえ! せっかく人が助けてやろうとしたのに……っ」


 ばくばくばくっ

 がふがふがふっ


「「…………」」


 相手は全く聞いていなかった。バスケットの中身を食べるのに必死になっている。この様子だとバスケットを空にするのに五分とかからないだろう。


「……ハラへって倒れてたのか?」


 拍子抜けしつつ相手の目の前に屈みこむ。

 バスケットに顔を突っ込むようにしていた相手も、ようやくそこで顔を上げた。

 その拍子にフードがハラリと取れる。


「!」


 相手はとっさに隠したが――銀色の髪。

 頭から生えた猫のような耳。

 輝きを放つ金色の瞳。


 それらは一瞬で大樹の網膜に焼きついた。

 身長は悔しいが自分より高いだろう。年も少し上な気がする。


 そんなことをぼんやり思っていると、相手――少女は警戒するようにこちらを睨んできた。


「……驚かないの?」

「へっ? 何が?」

「……耳とか牙とか。見たでしょう?」

「? おう」


 確かに見た。ついでに言えばもっちーを裂いた爪もきっと鋭いのだろう。


「怖く、ないわけ? 人間じゃないのに?」


 一瞬意味がつかめず、大樹はポカンと少女を見た。

 少女の瞳は相変わらず警戒の光を強く放っている。その光は突き刺さるようで居心地が悪い。

 けれどなぜか放っておけなくて。

 そしてようやく意味がつかめた大樹は、場違いなほどあっさりと笑みを浮かべたのだった。


「んー……ここ倭鏡だから色んな奴いるだろうし。それに、どっちかっつったらもっちーの方が全然人間っぽくなくて謎だぜ?」

「ひどォ!? ワイのプリチーさを“謎”やなんて!」

「いてっ、いてててっ。ちょ、もっちー重っ! 頭に乗んな!」

「だって大樹サンが!」

「やめっ、縮む! 身長縮むーっ!」

「…………ぷっ」

「「笑われた!?」」


 別に笑わせるつもりはなかったのに!?

 だが、一度吹き出した少女は弾けたように笑い出す。

 それは本当に楽しげで止まりそうにない。

 その笑い声を聞いていると、何だかこちらまで笑いたくなるほどだ。

 何だかすっかり楽な気分になり、大樹は自然に手を差し出していた。


「な、オレは日向大樹。おまえは?」

「……ルナ」

「ルナ?」

「そう。月の姫って書いて『月姫』」

「へえ~……ピッタリだな!」

「ピッタリ……?」


 少女――ルナ自身はあまり名を気に入っていないらしく、彼女はその猫目を細めた。

 大樹はそんな彼女の顔を覗き込む。ニッと笑顔で。


「その瞳」

「?」

「キレーな金色じゃん♪」

「……あ……」


 呟いた彼女はパッと顔を背けた。

 しかしややして、ためらいがちに大樹の手をつかんでくる。

 それは大樹が彼女に受け入れられた証拠。


「……ありがと」

「へへっ♪」

「あ……それとごめんね?」

「え?」

「勝手に食べちゃったし……ぬいぐるみも破いちゃって」

「あ……ダイジョーブだぜ! お見舞いだったけど、父さんも話聞いたらわかってくれると思うし! もっちーも春兄か母さんに頼めばきっと直してくれるし!」


 せっかく出来た“友達”を心配させるのは忍びなく、大樹は慌てて首を振った。

 実際嘘はついていない。

 父の梢はきっとこの人助けを褒めてくれるだろうし、兄の春樹や母の百合にとって裁縫は朝飯前だろう。


「でも……じゃあ、せめてぬいぐるみの手当てだけでもさせて? それに私、綺麗な花知ってるの。果物の代わりにそれもらって?」


 ――別にいいのに。

 そうも思ったが、好意は純粋に嬉しかった。


「……おう、頼んだ♪」



◇ ◆ ◇



 ルナに連れられて向かった先はさらに森奥だった。

 だがそれほど足場は悪くなく、大樹はスムーズに彼女の背を追う。

 大樹のリュックに再び収まったもっちーがキョロキョロと周りを見ていた。

 ――まあ、どこを見ても周りは木ばかりなのだが。


「――ここよ」


 彼女が足を止める。

 その背にぶつかりそうになった大樹は慌てて顔を覗かせた。


「ふぇ~……」


 大きな病院だ。いつから建っているのかずい分古い。

 窓ガラスは割れ、壁には汚れやヒビが目立っている。

 今にも何か出そうな――いやいや。そんなまさか。


(こ、怖くなんかないぜ! 全然怖くなんか……!)


「大樹サン、自分誤魔化してもしゃーないで?」

「もっちー!? 何でオレの考えてることわかるんだよ!?」

「全部顔に書いとるって……。あ、赤くなった」

「いちいち実況すんなっ!」


 恥ずかしいのか怒っているのか自分でもわからない。

 とりあえず精一杯の抵抗としてリュックを思い切り振り回しておく。

 すると意外にあっさりもっちーはギブアップした。まるで漫画のように目をグルグル回している。


「うぅ、大樹サンひどいわぁ……ワイ、ルナサンの子になるでっ」

「ええ!?」

「……そうしたら、もっちーもここに住むことになるけど?」


 ぴょんと飛びついてきたもっちーを受け止め、ルナが小さく笑う。

 その言葉に大樹はもちろん、もっちーも丸すぎる目をさらに大きく丸くした。


「ここに住んでるのか?」

「ええ。私たちはね」

「私……たち?」

「ついてきて」


 ルナはもっちーを抱えたまま、するりと中へ入っていった。

 大樹も少し遅れてそれに続く。

 錆びかけた取っ手に手をかけ――。


(…………っ?)


 ムッとこもった熱気。混じるにおい。

 それは人間のものではなかった。


「おうルナ、おかえり。おまえ生きてたんだな」


 ダミ声が降り注いだ方を見れば、椅子にだらしなく座る二人の男性。

 彼らにも耳や尻尾があり、双眼は鈍く光を放っていた。

 ルナが肩をすくめ、かばうように大樹を引き寄せる。


「何とかね。……それと、コレは私のだから。手、出さないでよ」

「がははっ、俺もそこまで飢えちゃいねーよ。腹はさっき満たしてきたからな」

「それならいいけど」


 淡々と続けられる会話だが――正直、意味がわからない。


「る、ルナ?」

「大丈夫」


 いや、何が「大丈夫」?

 そう思ったが、元々大樹は難しく考えることが得意でない。はっきり言ってしまえば超がつくほど苦手だ。

 だから――潔く考えるのはやめにする。

 ルナが「大丈夫」だと言うのだ。開き直って安心しておくことにしよう。

 そう単純な結論に達した瞬間、ふいに背後で弾けるような声がした。


「ルナ!」

「……ギャラ?」


 ルナに「ギャラ」と呼ばれた青年はルナより年上、恐らく葉と同じくらいの年齢に見えた。

 彼は流れるような銀髪を中途半端な長さで揃え、その合間からやはり獣の耳を覗かせている。

 その瞳は吸い込まれそうな紺碧で、大樹はぼんやり見入ってしまった。


「ルナ、しばらく帰ってこないから心配したぜ!」

「ごめん、ちょっと色々あって」

「ま、いいけどな。……この人間は?」

「あ……訳あって、その……拾ったの」

「へえー……」


 興味深そうに見てくるが、相手はなかなかの長身。

 その視線を真正面から受け止めるには、大樹は思い切り相手を見上げなければならない。首が疲れるというのが本音だ。


「ヒトを拾った……ねえ」

「な……何だよ?」


 あまりにもジロジロと見られ、少々不快な気持ちが生じた。

 その視線がぶしつけなものだったので尚更だ。

 大樹は頬を膨らませ、相手の手を軽く振り払おうとし――。


「こいつ美味そう」

「!!」


 両手首をつかまれた。

 そう認識したときには勢い良く背から床に叩きつけられていた。一瞬呼吸が詰まる。

 痛みに顔をしかめて目を開けると、真っ先に見えたのはカビの生えた天井。

 ボーゼンとする間もなくソレが相手の顔に変わる。

 何かを期待するような、奇妙な光を帯びた瞳。どこまでも深い紺碧の色。


 ――――っ!?


「はなっ……放せ! はなせよっ!」


 振りほどこうとするが押さえつけられた腕はビクともしない。

 床から離れる気配すら感じられなかった。

 不似合いなほどひんやりした床の冷たさだけが背に伝わってくる。


「放せ! 放せってば!!」


 力では敵わない。

 それを思い知らされ、大樹は懸命に相手を睨みつけた。

 だが相手に怯んだ様子はない。ますますニヤニヤと口元を歪めるばかりだ。


「やばい、こいつマジいい。美味そうだし活きいいし。なぁルナ、どこでこんなモン見つけたんだ?」

「……私の勝手でしょ」

「ハイハイ。な、頼むよルナ。俺にこいつちょーだい?」

「……だめ」

「そんなこと言うなって。俺最近ヒト食ってねぇんだよ。な? ちょっとでもいいからさ?」

「――これは、私のなの」

「……ちぇっ」


 ルナの頑なな態度に相手も諦めたようだった。名残惜しそうに見下ろしてくる。


「残念。せっかくのご馳走なのに」


「何言っ……、っつぅ!?」


 ギリギリと力を入れられ、痺れるような痛みが身体を走った。その痛みに顔が歪む。


「はな……っ」

「――放して」

「……わかったよ」


 ルナの声は冷たく、硬い。

 それは周りの者全てが感じ取ったようで、相手も渋々とだが今度こそ大樹を解放した。

 大樹は警戒しながらも冷たい床から身体を起こす。

 その瞬間、今度はじっとりと熱いものが込み上げてくるような気がした。


「大樹サン!」

「もっちー……ぃいい!? ちょ、ルナ! もっちーがかわいそうだろ!」


 見てみれば、もっちーはルナに両耳をつかまれて宙吊り状態だ。

 短い足がプラプラ懸命に揺れているのが哀愁を誘う。


 確かにウサギに似た長い耳はつかみやすそうだけど!

 ていうかさっきの緊迫した空気がパァじゃないか!


 大樹の慌てぶりにようやくルナも彼女自身の行為に気づいたらしい。

 そっと手を放しもっちーを下ろした。


「ごめん、今にも飛び出していきそうだったから……。ギャラに下手に刺激を与えたくなくて」

「おいおい、俺は猛獣か?」


 ニヤリとギャラが笑うと、何がおかしいのか周りがどっと笑った。

 ルナが顔をしかめる。

 それは不快というより、どこか呆れているように見えた。


「半分はその通りじゃない。――大樹、来て」

「あ……おうっ」


 ため息と共に奥へ進む彼女を追う。

 その際、「食われたきゃいつでも言えよ」とギャラに笑われ、大樹は思い切り舌を出してやった。

 ――封御を向けなかった自分を精一杯に褒めてやりたい。全く何て奴だ。


「入って」

「へっ?」


 ルナの声で我に返る。

 示された部屋は小さく、いかにも病院らしいベッドが一つ置いてあった。

 隅の棚へルナが歩いていき、大樹ともっちーは何となくベッドへと腰かける。

 そのベッドはやはり古く、ギシギシと妙にスプリングが軋んだ。


「大樹サン、大丈夫やった?」

「ダイジョーブ。でもあいつ、マジ思い切りつかみやがって……うあっ、手首赤くなってるし!」

「何ちゅー馬鹿力や……」

「ったく。ふざけすぎだよな!」

「――ギャラは本気なの」


 ふいに割り込んだのは、抑揚のないルナの声。

 彼女は裁縫道具を手にし、小さな椅子に腰かけた。


「ルナ?」

「……私たち獣人はヒトだって食べる。ギャラは本気で大樹を食べたがってたのよ」

「じゅうじん?」

「そう。――でも安心して」


 ふいに彼女の肩から力が抜ける。

 彼女はぬいぐるみを器用に縫いながら微笑んだ。


「私たちには『他人のものは奪わない』っていう絶対のルールがあるから。私のものだって言っていれば、大樹には誰も手出ししないよ」

「ちょう待ち」

「……もっちー?」


 もっちーの声は珍しく険しい。

 大樹はポカンとし、ルナも戸惑ったように瞳を揺らした。


「そないけったいなルール、信用せえって?」

「でも本当のことだから……」

「そもそもや。ルナサンが大樹サンに手ぇ出す危険もあるのとちゃう?」

「もっちー!」


 いくら何でもあんまりだ。

 そう思って止めさせようとしたが、もっちーは一度こちらを見ただけですぐルナに視線を戻してしまう。

 対するルナの表情はどこか強張っている。


「……私は普段、ヒトを食べたいなんて思わないもの」

「何でや?」

「……私に流れている血のせい、なのかな……」


 ルナがポツリと呟く。

 それは奇妙な言葉で、こちらを見ようとしなかったもっちーも思わず大樹と顔を見合わせた。

 お互いにわかっていないようで大樹は曖昧に眉を下げておく。考えるより聞いた方が早いだろう。


「ルナ、血って……?」

「……私のお父さん、人間なの」

「え!?」

「だからギャラたちより獣人の血は薄いし、お父さんと同じヒトを食べたいなんて思わない。それに大樹は、私を助けてくれた“恩人”だしね」

「けど……!」

「もっちー。もういいじゃん」


 まだ納得しきれていないもっちーにあっけらかんとした声を向ける。

 もっちーが心配してくれているのはわかった。その気持ちは嬉しい。

 けれど。


「オレ、ルナはいい奴だと思うぜ? 信じていいと思う♪」


 ルナは自分たちを襲ったことを謝ったし、ギャラからも助けてくれた。

 何より彼女の瞳は真っ直ぐだし――彼女が見せた笑顔は、きっと本物だ。


「大樹……。信じてくれるの? ……怖く、ないの? ギャラにあんなことされて」

「あいつはあいつ、ルナはルナだろ?」


 ニッと笑顔を見せ、小指を差し出す。


「な、ルナ。今度一緒に遊ぼうぜ? 約束!」

「え……?」


 ルナの金色の瞳がわずかに揺れる。それは「困惑」の色。


「でも私、森を出てヒトに見つかるとまずいし……えっと……」

「んじゃオレがここに遊びに来るぜ♪」

「…………」


 ルナがこちらを見る。

 そして――おずおずと、彼女の小指を大樹の小指に絡めた。

 困惑の色は徐々に消え、ほのかな喜びへと移り変わる。


「……ありがとう」

「へへっ♪」


 ――ほら、この笑顔は本物だ。

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