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倭鏡伝  作者: あずさ
8話「過去と未来の狭間に眠れ」
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6封目 こんにちは亡霊

 瀬名には、葉に見せたいものがあった。

 そんな情報を得た春樹たちに従って、葉は彼らの言う場所にまで車を走らせた。

 ちなみにその車を誰から、どうやって拝借したのかはあえて明かさないでおく。春樹が思い切り顔を引きつらせたことから大体の見当をつけてほしい。



「ここか?」


 春樹のナビ通りの場所で車を停める。そこは少し山の中の、特に何かがあるわけでもない平凡な場所だった。


「実際はここからもう少し歩くんだけど……」

「……どうしたの、おまえ」

「……酔った……」


 青い顔の彼に尋ねれば、ぐったりとした返事。

 葉はわずかに顔をしかめた。自分は免許を持っていないし、弟を乗せようとすると大抵「命がいくつあっても足りない」と不満を言われるのは確かだ。しかし今回ばかりは葉もいたってマトモに運転をした。春樹のコレにこちらの責任はない。


「おまえ、酔いやすい方なのにじっと手紙見てるからだろ」


 車に乗っている間、後はもう真っ直ぐ行けばいいということでナビがほぼ必要なくなった後、彼は食い入るように瀬名の手紙を読み返していたのだ。それなら酔っても何の不思議もない。


「そう、なんだけど」

「春兄、その手紙に何かあるのか?」

「うん……ただちょっと気になって」


 助手席を覗き込んできた大樹に、そこに座っている春樹は曖昧に言葉を濁す。それが却って気になったのか、拓真も後ろから身を乗り出してきた。


「気になるって?」

「えっと……何て言えばいいのか……。文がおかしい気がするんです」

「おかしい?」


 大樹と拓真が瞬く。葉も似たような気持ちで春樹を見やった。しかし余計な口は挟まない。春樹は妙に鋭いところがあるので、彼の率直な意見を聞いてみたかった。


「葉兄。瀬名さんの言う『ひどいこと』って、きっと“力”に関することだよね? 最後に言い争ったときの」

「多分な。他に心当たりもねぇし」

「だとしたらやっぱりおかしいよ、これ」

「……春兄。オレ、さっぱりわかんねー」

「えっとだから……この部分」


 言葉に困ったような顔をして春樹が手紙を見せる。彼の指はある一文に向けられていた。


『僕は葉に嫌われたくなくて……そのせいでひどいことを言ってしまったから』


「? これのどこが変なんだよ?」

「だって、このまま読むと矛盾してるよね? 嫌われたくないからひどいことを言った、なんて」

「……確かにな」


 嫌われたくないのなら、ひどいことなんて言わなければいい。しかしこの文脈では、嫌われたくないからこそひどいことを言ったのだということになる。普通は「嫌われたくないのにひどいことを言ってしまった」とでも書く方が自然だろう。


「あの兄貴がこんな間違いするなんて珍しい……」

「……本当に間違いなんでしょうか」

「……春樹。てめーは何が言いたい?」


 低く問うと、春樹はバツが悪そうにこちらを見た。顔色を窺うように視線をさまよわせる。


「ただの推論だし、あまりいいことじゃないんだけど……」

「前置きはいい。言え」


 きっぱり言った自分に、春樹が小さくため息をつく。拓真の様子も窺った彼は、拓真にもうなずかれ、遠慮がちに続きを話し出した。


「……瀬名さんが危ないことをしていたっていう話は知ってるんでしょ?」

「ああ。当時流れてた噂だろ?」

「――もし、それが噂じゃなかったら?」

「何だって?」


 声を上げたのは拓真だった。葉も彼と同じ気持ちで眉をひそめる。いまいち理解出来ていない大樹だけが、きょとんとみんなのことを見回していた。


「ちょっと待ってよ。それってつまり……」

「もし、それが噂じゃなかったら。事実だったとしたら」

「……だったら何だっていうんだ?」


 目を細めて彼を見下ろす。確かに聞いて気持ちの良くなるような話ではなかった。だが聞かないわけにもいかない。

 春樹は二人と目を合わせようとしなかった。手紙をじっと見、あえて淡々と続けてくる。


「……瀬名さんは人に言えないような何かをしていた。それは誰にも知られたくないものだった。知られてはまずいものだった。だから……葉兄の“力”で自分を視られることを恐れた」

「!」

「葉兄に知られたくなくて、嫌われたくなくて。だから怒ったんだ、葉兄が瀬名さんの未来を視たときに。それ以上視られたら何かがバレてしまうかもしれないから」


 だから。

 だから『ひどいことを言ってしまった』――?


「……もちろん証拠なんてないし、ただの一つの憶測でしかないけど……。ただ、こう考えると一応つじつまは合うんだ。……ごめんなさい、嫌な気分にさせて」

「別に謝る必要はねぇよ。促したのは俺だ」


 うなだれた春樹を小突き、葉は車の外に出た。少々重くなりがちな空気を振り払うかのようにみんなもつられて車を降りてくる。夏という割にはひやりとした風が、そっと肌を撫でた。


「さ、とっとと行こうぜ。もう少し歩くんだろ? ……あの建物か?」

「うん、まあ……」


 あえて先ほどの発言に何も触れない自分に複雑そうな表情をし、春樹が言葉を濁す。彼はちらりと空を見上げた。


「もう少し暗くなってからじゃないと意味がないんだけど」

「暗く……?」

「とりあえず建物のとこまで行こーぜ! 暗くなるまでそこで待ってりゃいーし!」

「チビ樹、あんま走んな。さっきまで雨降ってたんだから滑るぞ」


 忠告してもあまり効果はなかった。天気予報通りすっかり雨が上がったことが嬉しいのか、大樹はどんどん先へ走っていく。周りはすでに薄暗くなってきているので少々危険だというのに。

 と――ふと、大樹の封御にぼんやりと光が灯った。


「「!?」」


 ハッとする。この反応は!?


「渡威……!?」

「……あの建物の中にいるみてぇだな」


 恐らくそれは確かだった。春樹の封御も反応を示したが、建物に近い大樹の方が強く光を照らしている。


「……春樹」

「わかってる。先に封印して来い、でしょ?」

「いや。おまえの封御を俺に貸せ」

「……え?」

「俺が行く」


 きっぱり言い切ると、春樹が唖然とした様子でこちらを見上げてきた。瞬きすら忘れたかのように。


「葉兄!? 何言って……!?」

「いいだろ別に。おまえは拓真とここで待ってろ。……大丈夫だな?」

「……わかった」


 一瞬のためらいを、春樹は黙って打ち消したようだった。うなずき、彼の封御を手渡してくる。少しだけずっしりと伝わる重み。


「サンキュ、行くぞチビ樹!」

「おうっ!」



◇ ◆ ◇



 建物の中は薄暗かった。もうとっくに潰れてしまったのか、物らしい物はほとんどない。そのせいで、ここが何のための建物なのか葉にはいまいちわからなかった。

 廃ビルと言っては言いすぎだが、それでも決して新しくはないであろう古い壁。埃くさい空気。


「葉兄、渡威は……」


 後から中に入ってきた大樹がピタリと足を止めた。気づいたのだろう、すぐ向こうに潜むおびただしい影に。


「何……だよこれ……」

「さあな。全部が全部本物ってわけじゃなさそうだが……盛大な歓迎じゃねぇか」


 皮肉げに笑い、封御を構える。大樹も封御を伸ばし、しっかりとそれを握り締めた。

 ――踏み込む!


 カッ――!


 群れの中へ入るのとほぼ同時に一体の渡威の核を封御で突くと、その渡威は瞬く間に“玉”へと化した。光と共に転がり落ちる。


「は……はえ~……」

「おらチビ樹! ぼさっとすんな!」

「お、おうっ」


 怒鳴られた大樹が慌てて行動を開始する。それを確認した葉は改めて渡威へ向き直った。気味悪いほどの数に思わず顔をしかめる。


「こんなところにはびこりやがって……」


 睨み、前方から襲ってきた渡威を踏みつける。


「――めんどくせーじゃねぇか」


 ドンッ!

 勢い良く核を突くが、今度は“玉”は出てこなかった。恐らくダミーだったのだろう。突いてみないとわからないのが非常に面倒くさい。

 しかし文句を言う暇もなく、葉は次々と渡威の核を突いていった。手間はかけていられない。狙うのは核、ただそれだけだ。


(……まあ、渡威も単調な動きばかりだ。この調子なら思ったより早く済むな。……だが)


 一つ、気になった。葉はここまで凶暴性な渡威を目の当たりにしたことはない(、、)。まだ倭鏡に散在している渡威は大人しい。だから倭鏡の住民もほとんど騒いではいないのだ。これはやはり、地球が渡威に影響を及ぼしているのだろうか?

 考えながら、葉はまた一体の渡威を封印した。その際にチラリと大樹を見る。葉のペースには及ばないものの、彼もなかなか健闘しているようだ。

 だが。


「チビ樹!」


 一体の渡威が大樹の攻撃を避け、彼の懐に入り込んだ。


「!? う……っわあぁ!?」


 渡威の攻撃が入ったのか、大樹が思い切り吹っ飛ばされる。たまたまその方向に葉がいたので、吹っ飛んできた彼をキャッチし、いくらかその衝撃を和らげることは出来た。


「げほっ……げほごほっ」

「ったく……リーチの長い武器はその分懐が狙われやすいんだ。それくらい教えてもらったろ? ちゃんと注意しとけ」

「う、うるせー……」

「減らず口が叩けるならまだ元気みてぇだな」

「トーゼン!」


 きっぱり言い切り、何とか大樹が立ち上がる。そのまま彼は、彼を吹っ飛ばした渡威を封御でなぎ払った。倒れこんだ渡威を素早く突く。


 カッ――!


「ほらな!」

「ハイハイ」


 妙に誇らしげな彼の頭上に封御を振りかざす。ビクリとした彼の後ろで、また一つの“玉”が姿を現した。


「…………」


 気まずそうに固まった彼に、ニヤリと嫌な笑みを浮かべてやる。


「油断大敵」

「ち、違うー! 今のはたまたまっ。いつもはダイジョーブだし!」

「ハイハイ」

「こら! 信じてないだろ!? 葉兄のアホーっ」

「助けてもらって何だよチビ」

「チビゆーなあっ」

「ハイハイ」


 何度目かのセリフと共に肩をすくめた葉はぐるりと周りを見回した。今ので最後だったのか、もう周りにそれらしき姿はない。音も自分たちの足音、そして多少乱れた息遣いが聞こえるだけだ。


「あらかた片づいたみたいだな」

「……まだいる……」

「チビ樹?」

「……声、聞こえる」


 難しい顔をして大樹が指差したのは、さらに奥の部屋だった。葉には何も聞こえないが、それは大樹の“力”が関係しているのだろう。彼が聞いたのはきっと渡威の声だ。


「……行くか」


 呟き、大樹を見る。大樹は当然だとでも言いたげにしっかりとうなずいた。そんな彼を見て小さく笑いながらもドアの取っ手に手をかける。


 ガチャ……


「……?」


 部屋に足を踏み入れた葉はそっと眉をひそめた。一見ガランとしているだけで渡威の姿は見当たらない。しかし何か妙なものを感じたような――。


 カラーン――……


「!?」


 突然の物音にハッとする。だが、そこにいるのは封御を落とした大樹だけであった。重力に逆らえなかった封御がカラカラと虚しい音を立てて数度転がる。


「何だよチビ樹……驚かせんな。……チビ樹?」


 大樹はこちらを見ない。ある一点を見つめたまま。

 しかしそこには何も――ない。


「……み、い……?」


 掠れたように絞り出された言葉は、この場にはおよそ関係のないはずのもの。


「……チビ樹?」

「葉兄、みいが……! みいが!」


 叫ばれ、葉は瞬間的に混乱した。何もない一点を見続ける弟を凝視する。

 みいというのは子猫の名だった。ひょんなことから大樹が出会い、そして数日の間だけ春樹と飼っていた。だが、その子猫は亡くなってしまったのだ。こんなところにいるはずもない。そもそもこの部屋には枯れそうな植物しか置いていないではないか?

 妙な予感がチリチリと焦がれる。どう見ても必死な弟は明らかに普通ではない。


「……チビ樹、しっかりしろ。ここには猫なんていねぇよ」

「だってそこに! みい……みいっ!」

「大樹!!」


 葉は彼の肩を強くつかみ、無理に自分の方を向かせた。大樹が反射的に暴れようとしたが、葉は彼をつかんだまま離さない。ぎゅっと肩をつかむ手に力を入れてやると、彼もハッとしたように体を強張らせた。すがるように見上げてくる。


「ぁ……」

「大樹。それは幻覚だ。みいじゃない」

「……!」


 瞳を揺らした大樹が、やがて堪え切れなかったように表情を歪ませた。ボロボロと泣き出してしまう。


「葉兄……オレ……」

「…………」

「みいにずっと言いたいことがあって……ありがとうって言えなかったから……オレのこと助けてくれてありがとうって……っ!」


 しゃくり上げた彼がそのままうつむく。その頭を撫でてやった葉は不意に目を見開いた。

 ――これは夢か?


「……瀬名……?」



◇ ◆ ◇



 二人が中に入っている間、春樹と拓真はひたすら建物の前で待機することになった。そのことで不満そうな顔をしているのは拓真だ。さっきから何やらブツブツ言っている。


「訳わかんない……。そもそも渡威って何?」

「何と言われても……。倭鏡の生き物なんです、簡単に言ってしまえば」

「そんなものが何でここに?」


 それは正直なところ、春樹も訊きたくなるような質問であった。何で渡威が日本の方へ来てしまったのか、嘆いても仕方ないこととはいえ……時に不満も言いたくなる。

 しかし拓真に文句を言ってもそれこそ意味がないので、春樹は苦笑を浮かべて補足することにした。


「ちょっとした事情で倭鏡から逃げ出してしまって。放っておくと厄介なことになるんで、僕たちはそれを封印しなきゃいけないんですよ。だから葉兄たちが今……」

「――封印、ね」

「!」


 突然第三者の声が割り込み、二人は思わず息を呑んだ。いつの間にか自分たちの前に一人の少年が立っている。

 相手を見下すように細められたきつめの瞳。風にたなびく、無造作に束ねられた黒い髪。


「歌月くん……」


 渡威が逃げ出した原因に関わりのある彼を、春樹はほぼ無意識に呼んでいた。しかしあることに思い当たり、思わず表情を強張らせる。


「……歌月くんが仕組んだことなの?」


 この場所に渡威を呼び寄せたのも、全て彼の?


「……ちげーよ。俺は渡威を回収しに来ただけだ」

「回収……?」

「渡威が命令無視してここに集まってたからな」


 そう呟いた彼は少し苛立っていた。その様子から彼の言葉が嘘ではないと知る。彼自身、渡威の予想外の行動に振り回されてしまったのだろう。


「ねえ、ちょっと。俺、本当に訳わかんないんだけど?」

「……拓真さん、僕から離れないでください」

「え?」


 拓真が目を丸くするが、春樹はそれ以上構っていられなかった。気にしている余裕はない。目の前に立っているのは立場上“敵”なのだ。そう思うのは気が進まないものの。


「……ふん。わかってるんだ、おまえが丸腰だって」

「…………」

「別にその気はなかったけど。どうせならおまえを片づけといた方が楽かもな」


 バカにしたように渚が口元を上げる。春樹は黙って彼を見ていた。――焦るな。落ち着け。


「本当はこんなやり方、俺に合わねぇんだけどよ。親父がまずはおまえからだって言うから」

「……歌月くんってファザコン?」

「てめーは何で真面目な顔でアホなことぬかすんだっ!」


 思い切り怒鳴られて首をすぼめる。しかしツッコむべき点はそこなのだろうか。


「そもそも意味がわからないよ。親の揉め事にどうして子供の僕らが介入するの?」

「俺が知るか!」

「そんな無責任な……」

「うるせえ! ――行けっ!」


 カッとした渚が小さな笛を取り出した。それを吹いたかと思うと――。


 バサバサ……ッ


「ひ……っ!?」


 カのつく物体が! 天敵が!!


「だ……駄目駄目駄目――っ! そ、それだけは無理―っ!」

「え、ちょ、春樹!? 離れるなって言ったのはそっち……!」

「離れないように一緒に逃げてください! それはアレを倒してくださいっ!」

「いや無理だし!? どうやってあんなカラスを倒せって!?」

「うわっ、駄目! その名前も無理なんですうぅっ」

「はあ!?」


 自分でも混乱しているのはわかっていた。しかしどうにも出来ない。体が力一杯に拒否するのだ。アレに追われていると思っただけで鳥肌が立ちそうになる。それならば足場の悪い道だろうが何だろうが、とにかく必死に逃げるしかない。

 しかも、倒す術がないのもこの恐怖に拍車をかけた。ただでさえ苦手なのに封御は葉の手元にある。アレは渡威が憑いているようだが、これでは手の打ちようがない。例え封御を持っていようとアレに近づくのは無理難題というものではあるが……。


(……待てよ?)


 アレを相手にしようとするからいけないのだ。相手がアレでなければ……。


「……ふ……ふふふ……」

「は、春樹……?」

「セーガっ!!」


 ――拓真の声には耳を貸さず、春樹は声を張り上げた。その声に呼応するかのように一匹の動物が現れる。それは黒い犬のような、けれど翼の生えた生き物。

 拓真がぎょっとしたように目を丸くした。無理もない。


「拓真さんも乗ってください!」

「え、何? それがあんたの“力”……?」

「そうです。……行きますよ!」


 声をかけ、拓真もしっかりつかまると、セーガが軽く地を蹴った。追ってきたカラスをあっさりかわし、あっという間に建物の前まで戻り――渚の前を横切る!


「な……!?」


 トン……ッ

 あんなに勢いがあったにもかかわらず、セーガの着地は軽やかだった。こちらを見て渚が顔を引きつらせる。どうやら猫に変身する“力”のある彼は犬に酷似したセーガが苦手なようだ。


「てめえ……!」

「先に苦手なものを仕掛けてきたのはそっちだよ」

「だったら何羽でも呼んでやるよ。――っ!?」


 睨みつけてきた彼が息を呑む。その理由に春樹は心当たりがあった。そっとセーガから降り、一歩だけ前へ進み出る。


「……臭いは元から断て、ってね。渡威を操ってるのはこの笛?」

「……!」


 渚が目を瞠った。小さく舌打ちする。


「手癖悪いな」

「そっちほどひどいことはしてないつもりだけど」

「……」


 しばらく動きは見られなかった。だが油断は出来ず、春樹も彼から目を逸らすようなことはしない。ただ、ひどく時間の流れが遅く感じられる。


「……ふん」


 機嫌悪そうに渚が鼻を鳴らす。あからさまにやる気が失せたらしい彼はそのまま黒猫の姿へと変化した。こちらが止めるより早く闇に紛れてしまう。


「あっ……行っちゃったけど……」

「……いいんです」


 引き止めても何も出来ない。むしろ今回は大人しく引き下がってもらった方がこちらのためでもある。


『親父がまずはおまえからだって言うから』


 その言葉に、形容しがたい何かが膨らんだ。釈然としないまま疑問だけが募る。それは以前から感じていたもの。


『一つだけ教えといてやる』

『あえて最初におまえを狙った理由』

『親父が言ってた。ここの言葉で言うなら、「人を射んとすれば先ず馬を射よ」だって』


 ――それは一体、なぜ?


 ため息をついた春樹はふとセーガへ目をやった。自分を見上げる彼に苦笑する。


「ごめんね、急に。でも助かったよ。ありがとう」


――“お安い御用だ”


 小さくセーガが微笑う。それが何だか嬉しくて、春樹もやっと笑う余裕が戻った。そっと空を見上げる。


「あとは二人が戻ってくるだけか……」


 周りはもう、どっぷりと闇に染まっていた。

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