4封目 えぐりたい、その瞳
よっぽど小さな子ならともかく、小学校では最高学年ともなる男が嬉々としてヌイグルミを持ち歩くのはいかがなもんだろう。
――大樹を見てそればかりが気になっていた春樹は、つい周りのことを疎かにしていた。
「……春樹。おまえ、俺の言ったこと聞いてたか?」
「え?」
低い声に我に返れば、葉の不機嫌そうな顔。
――まずった。
「え、とあの……」
「聞いてなかったようだな?」
「……ご、ごめんなさい……」
「ったく、仕方ねえな」
面倒くさそうにため息をつく彼に引きつり笑いを浮かべる。
じろりと睨まれ、春樹は思わず姿勢を正した。
とはいっても、葉の目つきの悪さは生まれつきだ。
彼は単にこちらを見ただけかもしれない。
ちなみに今は、葉に一通りの説明を終え、もっちーの件で意見を求めたところだ。
その返答をぼんやりして聞いていなかったせいでこうも睨まれるハメになったのである。
「もう一回言うぞ? ……『いいんじゃねえの?』」
「……え?」
「だから、別に構わねえだろって。その渡威が仲間になっても」
「葉兄!? だって渡威だよ!?」
「渡威にしかわからねーこともきっとあるだろ。それがわかればこっちとしてもメリットになる」
「でも……」
葉が言っていることもわかった。
だが春樹としてはどうも納得出来ない。
みんな楽観的すぎるのではないだろうか。
「何も、俺はおまえらに無理に馴れ合えとは言わねーよ。むしろ利用しろ。……それでも、文句はないんだよな?」
不敵に笑った彼は、後半をもっちーへ向けたようだった。
春樹はつられるようにしてもっちーへ目を向ける。
だが、もっちーには動じた様子も怯んだ様子もない。
「構いまへんよ? ワイに出来ることなら手伝いもするつもりやし。封印されなければ、の話やけど」
「封印はとりあえずお預けだ。んなことしたらそこのチビがうるせーだろうし」
「チビは余計だっ!」
大樹がとたんにわめき出す。
封印をしようがしまいが、どのみち彼はうるさいだろう。
まるで口から生まれたような奴だ。
だが、葉は大樹の文句に耳を貸さなかった。
もっちーとの会話に戻ってしまう。
彼をからかうことが大好きな葉には珍しいことだ。
「でも、こいつらが渡威の封印をするのにも力を貸すつもりか?」
「そうやね。まあ頑張りますわ」
「それは渡威を裏切る行為になると思うんだが?」
「渡威同士に仲間意識なんてあらへん。裏切るも何もない」
言葉と言葉の、ギリギリを紡ぐような攻防戦。
決して熱くはない。激しくもない。
けれど妙な不穏さを感じた春樹は、あくまでも淡々とした言い合いに入り込むことが出来なかった。
無意識の内に強く手を握る。
「……最後に一つ訊く。こいつらを裏切らないって証拠は?」
「この愛くるしい瞳を見い!」
「……えぐりたくなるほど丸いな、うん」
「のォ――――ッ! ジョークやジョーク! 怒らんといて!」
「俺は思ったことを素直に言っただけだぜ?」
「やめろよ葉兄!」
葉の手がもっちーに伸びた瞬間、間一髪で大樹がもっちーを庇った。
彼はもっちーを抱き上げたまま威嚇するように葉を見上げる。
あまり迫力があるとは言いがたいが。
「もっちーをいじめんな!」
「いじめてなんかねーよ。これは立派なコミュニケーションだ」
「それで目をえぐられてたまるかあっ」
「大丈夫だ。例えこの愛くるしい目とやらをえぐっても、えぐられるのはヌイグルミのもっちーで渡威のもっちーじゃない」
そういう問題なのだろうか。あまりの言い様にもっちーもあんぐりと口を開けてしまっている。
どうでもいいが間抜け顔だ。
「なっ、く……こんな小さいのをいじめて葉兄は何とも思わないのかよ!?」
「……そうだな。小さいものをいじめるのは悪いことだよな、うん」
「だろ!?」
「ああ。……大樹、今まで散々いじめて悪かった」
「ってオレは小さくね――――っ!」
大樹が叫ぶと、葉はこらえ切れなかったかのように吹き出した。
彼の頭をポンポンと軽く叩く。まるで余裕を見せつけるかのように。
「大丈夫だ、チビ樹。自信を持て。おまえは立派に小さいぞ」
「そんな自信いらねえっ!」
「謙遜するな。――ところでチビ樹、今日は早く寝ろよ?」
「は?」
大樹が数度瞬く。
ただでさえ噛み合わない会話だったのにさらに突拍子もないことを言われたのだ。その反応も当然だろう。
そんな彼に、葉が意地の悪い笑みを浮かべた。
「ほら、寝る子はよく育つとも言うしな?」
「だからっ……」
「――あの」
たまりかねて春樹は二人の間に割り込んだ。
このままではちっとも話が先に進まない。
彼らのケンカは放っておけば延々と続くのだ。
「結局、葉兄はもっちーが仲間になることに賛成なの?」
尋ねると、葉が一度もっちーを見やった。肩をすくめる。
「そういうことになるな」
「ホンマ!?」
「やりいっ!」
もっちー、そして大樹から歓喜の声が上がった。
代わりに春樹はがっくり肩を落とす。やっぱりこうなるのか。
「ま、何かあったら連絡しろ」
「うん……」
何かあってからじゃ遅いのではないか。
そう思わずにはいられなかったが、春樹はただ小さくうなずいた。
日向家の中ではあっさり割り切ってしまうのが一番楽なのだ。
長年の経験もあり、春樹はそれを身をもって知っている。
とはいっても、あっさり割り切るという芸当は自分にとってなかなか難しいのだが。
春樹と大樹が何か話している。
二人の意識がもっちーから外れていることを確認すると、葉はおもむろにもっちーを持ち上げた。
本当に丸々としている。
ついでに言えば、愛くるしい瞳とやらもやはりえぐりたくなるほど丸い。
「おい、もっちーとやら」
「な……何です?」
「俺はおまえが仲間になることを許可した」
「はい。感謝してますけど……」
「ただし」
もっちーの言葉を遮り、ぐっと声を低くする。
口の端を上げ、葉は上辺だけの笑みを浮かべてみせた。
もちろん眼は鋭く睨んだまま。
「あいつらに手ぇ出したらどうなるか……覚悟しとけよ?」
「……肝に銘じときますわ」
異様な迫力にもっちーの顔が引きつる。
そんな緊迫した空気があったことを、二人は知らない。
◇ ◆ ◇
渡威を封印しろと命じられたとき、その渡威が仲間になるなどと一体誰が予想していただろうか。
倭鏡から戻ってきた春樹は、先の見えぬ不安にため息をついた。
どうして物事はもっとスムーズにいかないのだろう。妙な問題ばかり湧いて出てくる。
そうしないと物語が成り立たないからと言われればそれまでだが、もう少し平和で穏やかな、のびのびとした物語でもいいと思う。
春樹としては、騒がしい毎日より平穏な毎日を暮らす方が望ましいのだ。
そんな自分の様子に大樹も気づいたらしい。彼はきょとんとしてこちらを見てきた。
ちなみにその足元にはもっちーが立っている。
注意して見ないと、あまりにも下に位置しているので視界に入らない。
「春兄?」
「……何?」
「怒ってんのか?」
「別に」
にべもなく答えると、大樹が小さく口を尖らせた。
彼はムッとしたように言葉を紡ぐ。
「怒ってんじゃん。そんな怖い顔して」
「元からこんな顔だと思うけど?」
「ちげーよ。いつもより変な顔してる」
怖い顔から変な顔に変わったことに意味はあるのだろうか。
しかも変な顔だなんて失礼ではないか。
「……何でもないってば。もう決まっちゃったことだし、それについていつまでも文句を言う気もないし」
「それはワイのことですか?」
「……まあ……」
そのせいで機嫌が良いというわけではないのは確かだ。
春樹にとって悩みの種が増えたようなものなのだから。
「春兄は難しく考えすぎなんだよ」
「おまえが考えなさすぎなの」
呆れた声の彼にきっぱり返す。呆れたいのはこっちだ。
「何がそんなに嫌なんだよっ?」
大樹が苛立ったように言葉を強めた。心底わからない、というように。
そんな彼に、春樹も多少ムッとするものを感じた。
怒るのを通り越して呆れ、呆れるのを通り越して――また怒りが戻ってくる。
「おまえは警戒心がなさすぎる!」
「んな!?」
「もっちーも言ってただろ? 渡威は僕たちを狙ってるんだって。その渡威をわざわざ自分たちの側に置くなんて……それこそ飛んで火に入る夏の虫だよ」
もちろんこの場合の虫は大樹だ。
「それを教えてくれたのはもっちーなんだか」
「そうやって油断させるためじゃないってどうして言える?」
言い切る前にすっぱり言い返してやると、大樹が一瞬瞳を揺らした。
しかしめげずにこちらと視線を切り結んでくる。
「丸くてもちもちした奴に悪い奴はいない!」
「どんな偏見だよバカ!!」
「ば……バカぁ!?」
「バカだからバカって言ったんだ!」
「何度も言うなよ!」
「何度言っても言い足りないくらいだっ」
一度言い合いになってしまえば止まらない。
だが、口喧嘩なら春樹の方が断然有利だった。
元々大樹は口喧嘩に向かないし、知っている言葉の数も春樹ほどには多くない。
何より、彼はまくし立てられることに弱いのだ。混乱や焦りで自分の言いたいことがわからなくなってしまうらしい。
そして、春樹はそれをしっかりと心得ていた。
「大体、何度おまえの勝手な判断で大変なことになったと思ってる!? 不注意でボヤ騒ぎを起こしかけたのは誰だった? 部屋を水浸しにしたのは? 散々注意していたのに封御をなくしたのは!?」
「そ、それは……」
「全部……全っっ部おまえのせいなんだぞ。それも、気をつければ大丈夫だったはずのことばかりで!」
「そ……そんなこと……」
「おまえには注意力も何もあったもんじゃない! そのせいで毎回毎回迷惑かけて! その上同じ過ちを繰り返したりするからバカだって言……っ」
「スト――――ップ!!!」
――突然の大声に、二人はピタリと動きを止めた。
怪訝に振り返った先にはもっちーが仁王立ちで立っている。
それとも「多分」と付け加えた方がいいだろうか。
手足が短いので、仁王立ちか否かを見極めるのは難しい。
「もっちー……」
「言い争いの原因が言うのもなんやけど、こないな争い意味ないやろ?」
「でもっ……」
「春樹サン。心の中ではどう思ってようと、ワイが仲間になるのは許してくれた。ちゃう?」
「え……? うん、まあ……」
葉までがそのことに賛成したのだ。二対一では敵わない。
「ならええ。少しずつ信用してもらえるよう頑張るさかい。大樹サンもこれで怒る理由はないはずや」
ちらり、ともっちーが大樹を見る。
大樹はまだ不満そうな顔をしていたが、やがて肩をすくめて息を吐き出した。
「……何で怒ってたのかもわかんなくなっちまった」
それは春樹も同じな気がする。
だがそれを了解の意と取ったらしく、もっちーがにっこりと笑った。
そこで唐突に気づいたが、もっちーの気持ちによってぬいぐるみの表情はきちんと動くようだ。
もしかしたら悲しいときは本当に涙を流すのかもしれない。物理的な問題はあるが。
「じゃ、これで仲直りっちゅーことで! 丸くなりよったとこで飯でも食いましょ♪」
…………。
…………え?
「た……食べるの? もっちーも?」
(ヌイグルミの姿で? ていうか渡威なのに?)
「あー! 春樹サン、そりゃないで! 渡威だって生き物なんやから!」
「あ、そっか……」
「ちょっとした好奇心で食べてみたくなるってもんや!」
「って結局必要はないんじゃないか!」
続いた言葉に、春樹は危うくハリセンでツッコむところだった。
何なのだろう。別に自分は漫才がしたいわけではないというのに。
「で? 今日のメニューは?」
「……ラーメン」
「……インスタント?」
「……違うから、そんな哀れむような目で見ないでよ……」
まるで、自分たちがロクなものを食べていないみたいではないか。
「まあ、春樹サン器用そうやしなあ。な? 大樹サン?」
「…………」
「大樹サン?」
「……へっ?」
どうやらぼんやりしていたらしく、大樹の反応には大分時差があった。
彼は目をパチクリとさせている。全く話を聞いていなかったようだ。
「春樹サンは料理上手そうやなって」
「あー……うん。毎日作ってるし、結構上手いぜ?」
「そら楽しみや」
「期待はしない方がいいと思うけど。……じゃ、作ってくるから」
言い残し、春樹はいそいそと台所へ向かった。
確かにそろそろお腹が空いてくる頃だ。作り始めないと遅くなってしまう。
大樹ともっちーは部屋で待っていることにしたようだった。
何か話しながら離れていく。
その後ろ姿を見送りつつ、春樹はふと表情に陰を落とした。
(……言いすぎたかな)
冷静になった今では、あそこまで言う必要はなかったかもしれないという後悔が込み上げてきた。
大樹に言ったことは全て本当のことだと思うが、もう少し言い方というものがあった気がする。
大樹自身に気にした様子はなかったようだが……。
春樹は緩く首を振り、気を取り直した。
ふと窓の外に目をやる。そしてわずかに目を瞠った。
いつの間にだろうか。外は、静かに雨が降っていた。




