プロローグ 道化師
異様に静かな空間で見えるのは、二つの影。
二つの影はしばし動かなかった。
薄暗さが勝り互いの顔をはっきり見ることは出来ない。
けれど互いにそこにいることは知れる。
冷えた空気と、そこに生じる熱と、伝わる――電波に近い渦。
その距離は数メートル。沈黙を支配しているのは耳障りな時計の音。
やがて、一つの影が細く息を吐き出した。
「こんなところにいたなんてな」
「歓迎するよ。……もっちー、だったかな?」
彼は心底面白そうにクスクスと笑った。
呼ばれた名にもっちーはわずかに目を細める。なぜか目の前の彼にそう呼ばれるのは気に食わなかった。
だがそれ以上の感情は呑み込んでおく。
もっちーはしばし相手の影を見ていた。
そこに目を見つけることは困難だと悟り放棄する。
代わりに周りを見回し、そこが机の多い部屋だと知った。
机が並ぶせいで道が細い。
壁には一つの鏡。
それはうっすらと、心細げに密やかな明かりを発している。そのおかげで影の輪郭くらいは見てとれたのだ。
その鏡には――憑いている渡威。核など確認する必要はない。
自分とて渡威だ。感じる。
そして――。
(……いや)
もっちーは緩く首を振った。再び影へ目を向ける。
視線が絡み合っているかなどわかりもしなかったが、とにかくそうすることで自分を奮い立たせた。
そんなもっちーの気配を感じ取ったのか。
影は小さく揺れ、その揺れよりさらに小さな笑い声を漏らした。
「よくここを見つけたものだ」
「馬鹿にするな。自分だって渡威だ。命令が来れば逆に辿っていくことくらい出来る」
「それは失礼」
低く笑う。そこに嘲りはない。純粋に楽しんでいるようだともっちーには思えた。それがまた、かえって神経を逆撫でる。
「……あの兄弟とは、ずい分仲良くしているようじゃないか」
「そんな話はどうでもいい。……何なんだ? あの命令は。今まで音沙汰なかったくせに急に……」
「君も言ったじゃないか。命令を送れば私の居所が知れる。私とてあの兄弟の側にいる君に命令を送るほど馬鹿じゃない。音沙汰ないのも当然だろう」
「それはわかっている。そうじゃない」
わずかに苛立ちながらも言葉を紡ぐ。聞きたいのはそんなことではない。そんなことではなくて。
なぜ、それがわかっていて命令を送ってきたのか。今になって急に。なぜ?
「気が変わったんだ」
「変わった?」
あっさり告げられ、もっちーは顔をしかめた。からかわれているのだろうか。そんな気がしてならない。現に彼の声音はどこか楽しそうだ。まるで玩具をじっくりと弄ぶかのように。すぐには袋を開かないで、何度も何度も角度を変えて見て、光に当て、一つ一つの仕組みを順に見て。ボタンを押すことをせずに、ただ触れ、撫で、見て楽しんでいる。
「前々からではあったが……ますます彼の“力”に興味が湧いてね」
「彼の……“力”……?」
「すぐにわかるよ」
「…………」
もっちーは反応を示さなかった。ただ目の前の相手を見つめる。出来る限り感情を押し隠しながら。
「そろそろ時間がない。これはもしかすると渡威全体の利益になるかもしれない。――違うかね?」
「それは……」
言葉に迷う。畳み掛けられ、思わずうなずいてしまいそうになる自分がいた。
「君にも決して悪い話ではないはずだ」
答えを確信しているかのように穏やかな笑み。見えないのになぜかわかる。――何だか癪に障る。自分の出す答えは、きっと彼の望むものだろうから。それ以外の答えを持ち合わせてなどいないから。
「……一つ、訊く。本当にあの命令が真意なんだな? 当初の――あの目的とは、違うんだな?」
「……ああ」
彼は低くうなずいた。もっちーは深く息をつく。引き止めるものなどなかった。尋ねた時点で自分は足を踏み入れていたのだから。そしてそれは、彼もきっとわかっている。だがあえて言わなければならない。
別に仲間意識なんてないけれど。
「……わかった」
「…………」
「そっちの命令に、従おう」
「……感謝するよ、もっちー」