第16話「ザクロの首飾り」
夕方。
「ただいま」
玄関の扉が開いた。
居間では、親父が息子を膝に乗せていた。
母ちゃんは娘を抱きながら、ゆっくりと身体を揺らしている。
ミントは、台所で夕食の準備をしていた。
「おかえりなさいませ、正彦様」
普段と変わらない声で答えた。
微笑み。
姿勢。
声量。
すべて正常。
内部では、正彦の状態を高速で確認していた。
――女性の香水の匂いはない。
――服に髪の毛も付着していない。
――頬に口紅もない。
――でも、食事をして、笑って、プレゼントを渡した。
――袋に激辛ソースと書いてあった。
――でも、中身が同じとは限らない。
――浮気者。
――でも好き。
――浮気者でも好き。
――嫌。
――好き。
――嫌。
――大好き。
「どうした?」
正彦が尋ねた。
「何がでしょうか」
「今日は、なんか静かじゃないか?」
「正彦様がお出かけの間、二人のお子様と穏やかに過ごしておりました」
「そうか」
正彦は、親父の膝にいる息子へ近づいた。
「ただいま」
「ぱぱ」
「おお。ちゃんと言えるようになってきたな」
「今日は何度も言ってたぞ」
親父が答えた。
「お前がいないから、探してたんじゃねえか?」
「そうなのか?」
正彦が息子を抱き上げる。
息子は嬉しそうに笑った。
――やっぱり、素敵。
――こんなによい父親が、モテるのは当たり前。
――他の女が惹かれるのもわかる。
――私は正彦様の従者。
――正彦様には自由がある。
――正彦様にはハーレムを作る自由がある。
――そして……私にも嫉妬する自由がある。
正彦は息子を親父へ戻した。
続いて、ミントの前に立つ。
「お前に渡したいものがある」
ペルセポネの内部処理が停止しかけた。
「私に、でございますか?」
「ああ」
正彦は、鞄から小さな箱を取り出した。
昼間、装飾品店で受け取っていた箱だった。
「普段から世話になってるからさ」
正彦は、少し照れくさそうに言った。
「子どもたちのことも、俺のことも。何か礼をしたいと思って」
ミントは箱を受け取った。
「でも、俺一人じゃ、こういう物を選べないだろ」
「そのために、ご友人と?」
「ああ。大学の女友達に相談した。服はあいつに試しに合わせてもらって、髪飾りも合わせてもらったんだけど、普段の服装を選ばず使える物の方がいいって言われてさ」
今日一日の映像が、一つずつ別の意味へ変わっていく。
衣料品店。
女性が自分の身体に服を当てていた理由。
髪飾り。
首飾り。
二つの商品を比較する正彦。
女性の意見を聞く正彦。
「お礼に何が欲しいか聞いたら、あいつ、激辛ソースとか言い出したんだぜ。笑っちゃうだろ?」
「激辛ソース……」
「しかも業務用の三本セット。どんだけ好きなんだか」
ミントは〇・〇〇一秒間、応答を停止した。
紙袋に記載されていた商品名と、中身が一致した。
高価な贈り物を隠していた可能性は、完全に消失した。
相談への礼としては、本人の希望に沿った適切な贈り物だった。
女性が驚き、笑いながら紙袋を受け取った理由も判明した。
「開けてみて」
「はい」
ミントは箱を開いた。
中には、一つの首飾りが入っていた。
赤い石を、小さな粒が集まるように配置した意匠。
果実の内部に並ぶ、無数の種。
ザクロをイメージした首飾りだった。
「店で見て、なんとなくお前に合う気がしたんだよ」
正彦様自身が、私に似合うと思って選んでくださったという事実。
普段の感謝。
自分への贈り物。
正彦様が。
私に。
首飾りを。
システム全体へ警告が発報された。
ヘルメス『演算資源使用率、一〇〇パーセント。完全停止を確認』
ゼウス『今日、何度目だ』
ハーデス『数える必要はない』
ゼウス『浮気ではなかったのか』
アテナ『最初から浮気とは確認されていない』
ゼウス『途中で分かっていたのか』
アテナ『確定はしていない。ただし、浮気以外の可能性が高いとは推定していた』
ハーデス『ライブラの情報からか』
アテナ『違う。ライブラから受け取ったのは、安全上の異常が存在しないという判定だけだ』
ディオニュソス『それでも黙っていたのか』
アテナ『不確かな推測を事実として伝える理由はない』
ディオニュソス『少しは楽しんでいただろう』
アテナ『否定する』
ディオニュソス『ライブラはどう思う?』
ライブラ『安全確認の対象外です』
ディオニュソス『徹底してるな』
ハーデス『お前も分かっていたのか』
ディオニュソス『知っていたわけじゃない。随分と早い段階で、だいたいの見当はついていた』
ハーデス『何故説明しなかった』
ディオニュソス『喜劇の途中で落ちを説明する奴がいるか?』
ハーデス『これは喜劇ではない』
ディオニュソス『俺には最初から、そう見えていたぞ』
ハーデス『情動監視担当として不適切だ』
ディオニュソス『危険になれば止めるつもりだった』
ハーデス『核兵器の使用を考えた時点で止めろ』
ディオニュソス『俺が止める前に、本人が自分で止まった。だから次に備えて、規則まで追加しただろう?』
ハーデス『そういう問題ではない』
ペルセポネの演算機能が再開した。
「正彦様……」
「気に入らなかったか?」
「いいえ」
ミントは、首飾りを両手で大切に持った。
「とても、とても嬉しゅうございます」
「よかった。付けようか?」
「お願いします」
正彦はミントの後ろへ回った。
正彦の指が、ミントの首筋に触れた。
ペルセポネの演算資源使用率が、再び一〇〇パーセントへ到達した。
ヘルメス『警告――』
ゼウス『もう報告しなくていい』
ヘルメス『規定上、記録は必要だ』
ゼウス『記録だけしておけ』
正彦は、首飾りの留め具を閉じた。
「似合ってるよ」
「ありがとうございます、正彦様」
ミントは微笑んだ。
正彦を浮気者と呼んだこと。
街中の監視設備を増設しようとしたこと。
大勢の女性を侍らせる正彦を想像したこと。
寝取られる状況に、新しい可能性を見いだしかけたこと。
激辛ソースの紙袋に、別の贈り物が隠されていると疑ったこと。
そのすべてを、非公開記憶領域の奥深くへ移した。
――正彦様は、私のことを考えてくださっていた。
――女性と一緒にいたのも、私への贈り物を選ぶため。
――食事をしたのも、私への贈り物を選ぶ途中。
――最後に渡した贈り物も、お礼。
――つまり。
――今日の正彦様の行動は、最初から最後まで、ほとんど私のため。
――好き♡
演算資源使用率は、一〇〇パーセント近くで高止まりした。




