プロポーズ
一旦は完結ですが、もしかしたら続くかもしれないです
屋敷へ戻った頃には、朝の支度が始まっていた。
厨房の方からは焼きたてのパンの匂いが漂い、廊下には使用人たちの足音が行き交っている。玄関扉が開くと、外の冷たい空気が屋敷の中へ流れ込み、近くにいた侍女が驚いたように顔を上げた。
「旦那様……!お帰りなさいませ」
屋敷へ戻った頃には、朝の支度が始まっていた。
アリシアは侍女に向かって、少し申し訳なさそうに笑った。
「ごめんね。彼の付き添いをしていたの。遅くなってごめんなさい」
侍女は慌てて首を横に振った。
「いえ、とんでもございません。ご無事で何よりでございます。ただ、お姿が見えませんでしたので、皆、少し心配しておりました」
その言葉に、ローゼンはわずかに視線を落とした。
「悪かった。何も告げずに出たのは、私の落ち度だ。今日は遠出をして疲れたから、私達は部屋で食べようと思う。食堂に用意していたものがあるなら、君たちが使いなさい」
「よろしいのですか?」
「構わない。朝から騒がせたからね。温かいうちに食べてくれ」
侍女はまた少し驚いた顔をしたあと、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。すぐに奥様のお部屋へ朝食をお持ちいたします」
「軽いものでいい。彼女は冷えているから、先に温かい茶を頼む」
「かしこまりました」
侍女が足早に廊下の奥へ向かうと、アリシアは隣でくすりと笑った。
「もう、心配しすぎよ」
アリシアはそう言ったが、どちらかといえば、少し嬉しそうで、少し照れくさそうだった。
そうして二人は部屋へ戻る。
部屋に入ると、暖炉にはすでに火が入っていた。薪が小さく弾け、冷えた身体に柔らかな熱が届く。ローゼンはまず彼女を椅子へ座らせ、近くに畳まれていた毛布を取って膝に掛けた。アリシアは大人しくされるがままになっていたが、毛布を掛けられたところで、さすがに困ったように笑った。
「もう、本当に大げさなんだから」
そう言いながらも、彼女は毛布を押し返さなかった。冷えた指先をそっと毛布の中へ入れ、暖炉の火に向かって息を吐く。
「今日、貴方と一緒にあの場所に行けて良かったわ。結婚してからずっと元気がない理由が、ようやく分かったもの」
「……隠していたつもりだったんだけれどね」
「隠せていなかったわ。もうバレバレよ」
アリシアは続けて話す。
「最初は、私と結婚したことを後悔しているのかと思ったの。北国に来た私を気遣ってくれているのは分かっていたけど、貴方はいつもどこか遠くにいるみたいだったから」
ローゼンの胸が、わずかに痛んだ。
アリシアにそんな思いをさせていたとは、考えたこともなかった。
「今度からは、もっと悩み事を打ち明けることにするよ」
「当然よ。婚約者なんだから!」
アリシアはそう言って、当然のように胸を張る。その明るさに、ローゼンはほんの少し救われる気がした。
「アリシア」
「なあに?」
ローゼンは暖炉の火をしばらく見つめていた。
薪が小さく音を立て、部屋の中へ柔らかな温もりを広げている。その音を聞きながら、彼はゆっくりと息を吸った。
「以前、私は結婚式を急がなくてもいいと言ったね」
「ええ。覚えているわ」
「君が北国を嫌になった時、いつでも帰れるようにしておきたい……そう話したと思う」
あの日、ローゼンは北国の暮らしに馴染めなかった時のためだと説明した。正式に夫婦となってしまえば、アリシアが故郷へ帰りたいと思った時にも簡単には戻れなくなる。だから、結婚式は急がず、この土地で暮らしていけると確信してから決めた方がいいのだと。
けれど、あの言葉は、アリシアのためだけに出たものではなかった。
「君が北国を嫌になった時、帰れるようにしておきたいと思っていた。でも、本当は私の方が怖かったんだ。君を妻として迎えても、幸せにできる自信がなかった」
ローゼンは暖炉から視線を外し、椅子に座るアリシアを見た。
北国へ来たばかりの頃より、彼女は随分とこの屋敷へ馴染んでいる。使用人たちと気軽に言葉を交わし、街へ出れば領民から声を掛けられ、今では彼女の笑い声が聞こえない日の方が珍しいほどだった。何もなかった寝室には少しずつ彼女の持ち物が増え、広すぎた食卓では互いの顔が見える距離に座ることが当たり前になった。
ローゼンが遠ざけようとした幸せを、アリシアは一つずつ屋敷へ持ち込んでいた。
「けれど、もう君が帰る日のことを考えたくない。今日、君とあの場所へ行って、これから先も隣にいてほしいと思った。子どもができたから仕方なく、という意味ではないよ。君だから、一緒に家族になりたいんだ」
アリシアは何も言わず、彼を見つめていた。
いつもならすぐに何かを返す彼女が黙っていることに、ローゼンの緊張が少しだけ増した。
それでも、今度は逃げたくなかった。
ローゼンはアリシアの前まで歩み寄ると、毛布の上に置かれていた彼女の手をそっと取った。その手はまだ少し冷たかったが、握り返してくれる力は確かだった。
「アリシア。私と結婚してください。今度は形だけではなく、私自身が心から望んでいる結婚として、君を妻に迎えたい」
その言葉を聞いた瞬間、アリシアの瞳が揺れた。
これまで何度も、ローゼンの妻になるのだと口にしてきた。街の真ん中で大声を上げたこともあれば、まだ婚約者だと訂正されても、時間の問題なのだから同じだと笑い飛ばしてきた。
けれど、ずっと待っていたのだ。
家や領地のためでも、周囲に勧められたからでもない。ローゼン自身が、心から自分との未来を望んでくれることを。
アリシアは何か言おうとしたものの、声がすぐには出なかった。代わりに、目元へ薄く涙が滲んでいく。
「……本当に今さらね」
ようやく口にした言葉は、少しだけ震えていた。
「ごめん。本当に遅くなってしまった」
ローゼンは申し訳なさそうに目を伏せた。
その姿を見ていると、文句を言いたい気持ちも、待たされた時間を責めたい気持ちも、すぐにどこかへ消えてしまった。
アリシアは握られていた手へ、もう片方の手を重ねた。瞳に溜まっていた涙は、今度こそ堪えきれず、頬を伝って静かに落ちていく。
「本当よ。私はずっと、そのつもりだったんだから」
泣きながら、それでもアリシアは笑った。
悲しいわけではない。ようやく待ち望んでいた言葉を聞けたことが嬉しくて、胸の中に溜め込んでいたものが、涙になって溢れてしまったのだ。
ローゼンは少し驚いたように目を見開き、それから彼女の頬へ手を伸ばした。
「泣かせるつもりはなかったんだ」
「これは嬉し涙よ。だから謝らないで」
アリシアはそう言って、彼の手のひらへ頬を預けた。
ローゼンはその温もりを確かめるように、もう一度彼女の手を優しく握り返した。かつては、自分が誰かの隣で幸せに暮らす未来など想像することもできなかった。けれど今は、目の前に心から妻にしたいと願う人がいて、その人との間には新しい命まで宿っている。
失ったものが消えるわけではない。墓地に眠る友人たちのことを忘れることもないだろう。それでも、過去を抱えたまま未来へ進むことはできるのだと、ローゼンはようやく思えるようになっていた。
こうして二人は、形だけではない、心から望んだ結婚へ向けて新たな一歩を踏み出すのだった。
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