第9話 死者の夜と、農神の決意
虫の音が静かに夜を彩る中、ミズキは拠点近くの小高い場所に立っていた。白く淡い月光が黒髪を照らし、その輪郭はまるで神前に仕える者のように凛としていた。
「……月よ、夜を統べる天の御光よ。今宵も無事に日を終えしこと、深く感謝申し上げます。願わくば、来たる朝も穢れなき光に満たされますよう……」
両の手を胸の前で組み、細く長く祈りの言葉を紡いだ。声は小さく、風に溶けて消えていくほどだったが、その想いは確かだった。
焚き火の残り火がぱちりと音を立て、ほのかな橙が衣の裾を淡く染めていた。
祈りを終えたミズキは静かに立ち上がり、焚き火の前を通って稲男の住まう竪穴住居へと向かった。
「稲夫様、お告げがありました。明日は……雨が降ります」
「雨が?」
不意に告げられた言葉に、稲夫は目をぱちりと開けた。見上げた天井の隙間から覗く夜空は、雲ひとつない星空。
月は冴え冴えと地上を照らし、乾いた夜風が隙間から流れ込んでくる。
(いやいや、これはどう見ても晴れだろ……てか、明日雨降ったら俺が神様信じるレベル)
内心で突っ込みながらも、「そうか」とだけ返して寝床に潜り込んだ。なんせ相手は信心深さの権化みたいな巫女だ。
下手に突っ込めば、「信仰心が足りません」とか言われかねない。タケルに聞かれでもしたら命に関わる。
(神の名を疑うとか、矛で一突きされる案件……)
そう思いながら、稲夫は乾いた夜気の中で眠りについた。
そして――翌朝。
ぽつ、ぽつ――。
「……ん?」
屋根を叩く音に稲男はうっすら目を覚ました。最初は何の音か分からなかったが、次第にリズムがはっきりしてくる。
「まさか……」
もそもそと寝床から這い出し、竪穴住居の出入り口から顔を出す。次の瞬間、冷たい滴が額に落ちてきた。
「マジかよ……本当に雨が降ってきた……」
空はどんよりと薄暗く、霧が辺りを包み、雨が静かに降り続いていた。夜のお告げが本物だったのか――などと考えるには、あまりに幻想的な風景だった。
住居の中では、ミズキが小さな火を焚き、種籾の入った土器を大切そうに火のそばで温めている。
対照的にタケルは毛皮をかぶって完全に冬眠状態。ピクリとも動かない。
(……この世界、本当に神がいて、祈りとか神力とか、マジで存在するのか?)
稲夫はごくりと唾を飲み込んだ。信じるわけじゃない。だが、否定もしきれない。
何より――
(あの星空からどうやってこの雨が降るんだよ……)
もはや乾燥注意報レベルの天候だった昨夜を思い出し、稲夫は頭を抱えそうになった。
朝食もないまま、三人はそれぞれ静かに時間を過ごしていた。
火のそばで手をあたためながら、稲夫は心の中で「今日はなにもしなくていい日だ……」と密かに喜んでいた。
泥もこねなくていい。腰も痛めずに済む。完璧な休日だ。
しかしその静寂は、あっけなく破られた。
「……稲夫様は、神々の世界のこと、お詳しいのですか?」
ミズキがぽつりと口を開いた。
焚き火に手をかざしたまま、稲夫の動きがピタリと止まる。
(うそだろ……ゆっくりできると思ったのに、なんで信頼揺らがせたら終わりの修羅場が訪れてんだよ……)
しかし、幸いなことにタケルは毛皮を被り完全に冬眠モード。失言しても矛でブスリという展開はなさそうだと安堵する。
が、まるでタイミングを見計らったようにタケルが起き上がる。
「……俺も、気になります」
(おいいいいい!!お前さっきまで寝てただろ!タイミングよく起きてくるな!)
稲夫は心の中で叫び、壁に頭を打ちつけたくなる衝動を堪えた。ミズキの目は純粋そのもの。タケルは真剣そのもの。
(あー、もう逃げられねぇ……)
そのとき、脳裏に電流が走った。
(そうだ!古事記だ!あれならいける。神の話っぽいし、創作かどうか誰も気づかん!)
咳払いひとつ、稲夫は「神の声風」の演出を加えて、語り始めた。
「神々の始まりの話がある――」
二人が静かに耳を傾けるのを確認し、稲夫は続ける。
「……最初に現れたのは、イザナギとイザナミという二柱の神だ。ふたりは天から地上に降りてきて、この国を形作った」
「山、海、風、火……あらゆるものを生み出したんだ」
「なんて……おおいなる神々……」
ミズキがぽつりと呟く。目はきらきらと輝いていた。
(よし、食いついた)
稲夫は内心でガッツポーズを決め、さらに続ける。
「だが、イザナミは……火の神、ヒノカグツチを産んだことで命を落としたんだ」
稲夫の声に、ミズキの表情がわずかに揺れる。命をかけて何かを産む――その意味を、彼女は神事を通してよく知っていた。
唇を結び、そっと胸元で手を組む。
「イザナギは彼女を追って、死の国――黄泉の国に足を踏み入れた。けれど……」
稲夫は言葉を選ぶように間を置いた。
「そこで彼は、変わり果てたイザナミの姿を見てしまった。恐ろしくなって逃げ出し、黄泉の国の入り口を、大岩でふさいだんだ」
語り終えた稲男の前で、ミズキはまばたきもせずに話を聞いていた。その目は、哀しみとも畏れともつかぬ色に染まっていた。
「……それで、世界は“生”と“死”に分かたれた……」
稲夫がそう締めくくると、ミズキはそっと目を伏せ、小さく頷いた。まるで、自分の内にある信仰のどこか深い部分に触れられたように。
「……それが、この世界の始まり、生と死が分かれた出来事なのですね……」
ミズキがぽつりとつぶやいた。
「……そう言われている」
(知らんけど)
稲夫は誤魔化すようにうなずいた。
だが、その次のタケルの言葉に、空気が変わった。
「それでは、“死者の夜”も……イザナミの影響なのでしょうか?」
「ゑ?」
稲夫は完全に固まった。
(ちょっと待て、死者の夜ってなんだ!?そんなDLCは知らねぇぞ!?)
「……その“死者の夜”って……どういう日なんだ?」
できるだけ神っぽい語り口で聞いてみる。ミズキが少し戸惑ったように、そっと答える。
「……地上のことは、神の世界とは違うかと思い、稲夫様もご存じないかもしれません。詳しく説明いたします」
ああ、優しい子だ。
稲夫は心の中で涙を流しながら、ミズキの言葉を待った。
「“死者の夜”は、年の終わり。夜が最も長くなる日――」
(最も夜が長い……冬至か?)
「その夜は、死者が地の底から這い出し、生きた人間を死者の世界に連れていくとされております。」
「かつて、強大な力を持つ国もまるごと消えた、という言い伝えもあるのです」
(冬至って、単なる季節の区切りじゃなかったのか!?なんで命に関わる話になってんの!?)
稲夫は震える心を押さえ込み、神のような威厳ある口調で言った。
「……それもまた、イザナミの影響だろう」
(イザナミさん、何もしてないのに濡れ衣すみません)
稲夫が厳かな声で言い終えると、火のはぜる音だけがしばし空気を満たした。
ミズキは目を伏せ、そっと口元に手を添えた。
「……イザナミ様が、黄泉の国からも世界に影響を……死すらも神の領域なのですね……」
その声には、畏れと敬意が入り混じっていた。ミズキにとって“死”でさえ神聖な理の一部であり、それを語る稲夫の言葉は、まるで神勅のように響いたのだろう。
彼女の横顔はどこか感動に震えているように見えた。
一方、タケルは少し眉をひそめていた。焚き火の炎越しに稲夫を見つめたまま、無言でしばらく考える素振りを見せる。
「……つまり、生と死を分けたのは、神々の争い……ではなく、別れだったということか」
その声には、どこか確かめるような響きがあった。
タケルはそれ以上何も言わず、火をじっと見つめたまままた考え込む。
信じる者と、考える者――二人の反応は対照的でありながらも、どちらも稲夫の言葉を“神の話”として受け止めているように感じられた。
焚き火の火が、ぱちりと小さく音を立てる。誰も口を開かず、再び沈黙が拠点を包んだ。
(……助かった……)
稲夫はふうと小さく息を吐くと、姿勢を正して火の前に座り直した。
瞼を閉じ、頭の中で静かに問いかける。
(……冬至までに、俺は何をすべきか)
感情を切り替えるように、稲男の脳内に現実的な課題が次々と浮かび上がっていく。
(まず、防衛。村の周囲に柵を立てる必要があるな。できれば複数段階で囲う。次に武器。弓、槍、罠……数が足りない。ていうかまともな武器ないじゃん)
脳内ホワイトボードに『防衛』『武器』の項目がでかでかと書き込まれる。
(それに……戦える人間もいない!俺とタケルじゃ手が足りなすぎる。それに戦うなら訓練も必要だ)
ホワイトボードにさらに『人員』『訓練』の文字が追加され、そして最後に最大の難題が浮かに上がる。
(で、それ全部やるには――『物資』『食料』『道具』『衣類』が必要)
ばちん、と焚き火が音を立てて弾けた。まるで稲夫の絶望を代弁するかのように。
(やることが……やることが多すぎる!!!)
火の前でがっくりと肩を落とし、顔を覆いたくなる。
が、投げ出すわけには行かない。稲夫の中に一筋の決意が灯った。
(……やるしかねぇ。このまま放っておいたら……全員まとめて強制黄泉の国ツアーだ)
ぎゅっと拳を握りしめ、口元を引き結ぶ。
火のゆらめきが、稲夫の決意を照らすように揺れた。