第8話 〈四月上旬〉苗代に水を、手に弓を
朝靄が立ちこめる川辺に、稲夫は鍬を手に現れた。
葉の先には露が光り、空気は湿り気を帯びていて、足元の草は歩くたびに水気を含んだ音を立てる。
まだ鳥の声すら聞こえない時間。空気は澄み、土の匂いが濃かった。
「さて、今日で苗代も仕上げだ」
稲夫は川の水面と苗代の位置を見比べる。今日の仕事は、水路を作り苗代を完成させること。やることは多いが、手順は頭に入っている。
「まずは取水口だな」
川沿いを見渡し、流れの穏やかな場所を探す。やがて、自然に川岸が抉れて低くなっている場所を見つけた。水の入り口として理想的だ。
稲夫は鍬を地面に突き立て掘り進める。すると、土の下にごろりとした石が混じりはじめた。
「じいさん、言ってたな。“自然には逆らうな、寄り添え”って」
鍬の先が石に当たっては跳ね返され、そのたびに稲夫は角度を変えて溝を伸ばしていく。しかし、角度を変えた先でも鍬が大きな石にぶつかった。ガキンと嫌な音を立てる。
「うん、全然寄り添えねぇ!クソッタレ!」
ぼやきながらも作業を止めず、手を動かし続ける。やがて、開いた溝から水がじわじわと流れ始め、薄い膜のように苗代へと広がっていく。
「おっし、流れたな」
今度は苗代の反対側に移動し、小さな溝を掘って排水口を作る。
土を削り、ゆるやかな傾斜をつけると、浅く張った水がそちらへ向かってゆっくり流れ出した。
「よし、これで……ん?」
苗代を見ると、張ったばかりの浅い水の高さにムラがある。
一方では水が地表を覆って揺れているのに、別の場所は土の色がまだ見えている。
「これ、傾いてるな」
稲夫は鍬を持ち直し、苗代の高さを確かめながら少しずつ鍬で地面を均していく。すると、ガキンと音を立て、人の頭ほどある大きな石が現れた。
鍬で掘り返そうとしたが、石は思った以上に深く食い込み、びくともしない。
「原因はこいつか。てこなら動かせるか?」
稲夫は石の周囲を掘り進めた後、周囲に落ちていた太めの枝を石の下に差し込む。そして、枝を体重をかけてゆっくり押し下げた。
ぎり、と音が鳴り、埋まっていた石が僅かに浮き上がる。しかし、それ以上は動かすことはできなかった。
「クソッ!動かないか……やっぱり自然とは分かり合えねぇわ……」
膝に手をついて愚痴をこぼしていると、背後の草むらがガサリと音を立てた。
思わず振り返ると、肩に何かを担いだタケルが現れた。
タケルは稲夫の足元、石の下に差し込まれた枝をみて不思議そうに尋ねる。
「稲夫様、これは一体何をしようとしているのですか?」
「埋まってる石をどかしたいんだ。てこを使っても動かなくてさ」
「てこ?この棒のことでしょうか?」
「まぁそんな感じかな。支点を作って、この棒を押すと重い物が動かしやすくなるんだ」
「ふむ?こうすれば良いのですね?」
タケルは棒を握り、軽く押し下げた。
すると石は嘘のように簡単に持ち上がり、そのまま地面から外れた。
「え!?いや、そうだけど……え!?」
「てこというこの仕組み、便利ですね。ですが、この程度であれば手で運んだ方が速いですね」
そう言いタケルは地面から外れた石を軽々と素手で持ち上げ、苗代の外へ運び出した。
(てこ、いらなかったかも……)
稲夫はタケルが軽々と石を運び去るのを呆然と見送る。
タケルの怪力に驚いて言葉を失ったが、ともあれこれで苗代は完成した。
「た、助かったよタケル。おかげで作業が随分早く終わった」
「お役に立てて幸いです。それと——稲夫様に渡したい物があります」
タケルが差し出したのは、一本の弓だった。しっかりとした木の反り、白く磨かれた弦、狩猟用らしい質実剛健なつくりだ。
「その弓を、俺に?」
「はい。昨日の熊の一件で、武装は必要だと感じました。稲夫様が弓を用いた火起こしをしていたのを見て、弓に心得があるかと」
手に取ると、その弓の重みと弦の硬さに目を見張った。ぐいっと引こうとしたが、ビクともしない。
(な、なんだこの弦……鉄か?いや、これ、狩猟用どころかもはや戦争用だろ……)
高校の時、弓道部に所属していたので和弓は扱える。しかし、今しがた渡されたのは的を射る弓ではなく、明らかに武器としてのショートボウの様な弓だ。
「少し強めに張ってあるので、一度試してもらえますか?」
(マジかよ……)
期待に満ちたタケルの顔を見て、断れなかった。
(やるしかねぇ……やるしかねぇ……神の名が泣くかもしれないけど、やるしかねぇ!)
震える手で矢をつがえ、息を吸う。引こうとするが――動かない。
(硬ってええええ!なにこれ!?弦がワイヤーか何かで出来てる!?)
「――ふんっ!」
もはや狙いをつける余裕はない。弦を引くことだけに全神経を注ぐ。
やがて弦がぎちりと音を立て、なんとか引ききった瞬間――。
ぶん!
矢が空を裂き、川向こうの木に突き刺さった。
「おおっ、お見事です!」
(当たった!?え、マジで!?今、神が奇跡起こした!?)
稲夫は引きつった笑顔で肩を押さえる。
「扱いやすいように、弦の張りを調整しようとも思ったのですが……これなら大丈夫ですね」
(大丈夫じゃない大丈夫じゃない。全然大丈夫じゃない)
喉まで出かかったが、ある事に気が付き声を押し殺す。
(まて、仮に調整してもらって「この程度の弓しか引けず何が神だ」とか言って斬られるって事はないよな?ないよね?)
稲夫はしばらく黙り込んで口を開く。
「ありがとう……タケル。大事に、するよ」
言いながら、稲夫は決意した。
(練習だ……練習あるのみ!命がかかってるなら、やるしかねぇ!)
稲夫はそっと弓を抱え、空を見上げた。陽光が水面を照らし、苗代にきらきらと反射している。新しい日々が、静かに始まろうとしていた。
※苗代が傾むいていると水の広がり方が変わってしまいます。高い場所には水が届かず土が乾き、逆に低い場所だけが過湿になって苗が弱ってしまう。また水深にムラがあると水温も均一にならず、生育の速度に差が出てしまいます。
つまり苗代の水平とは、その年の苗の強さを左右する大切な要素になります。




