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第7話 信仰の形

 熊の解体は、手早く済ませた。

 矛の刃こそ使いづらかったが、肉の繊維を裂くコツさえ掴めば、あとは慣れた作業だった。熊の肉は固かったが、じわりと脂が滲み、野性の力強さを感じさせた。


 「……しばらくは、食っていけそうだな」


 タケルは満足げに吐息を漏らし、竪穴に目をやる。稲男様が、寝ている。


 ――なんというか、豪快に寝ている。


 仰向けになったその顔は、口を開け、鼻が鳴っていた。神様どころか、ただの疲れたおっさんにしか見えない。

 顔には乾いた泥と血がまだこびりついていて、髪もボサボサだ。


「……あれが神様、なぁ」


 思わず苦笑いがこぼれた。


 だが、タケルは知っている。あの男が、昼間、命を張ってミズキと自分を守ってくれたことを。素人の動きだった。

 逃げなかった。震えながら、熊の脇腹に矛を突き立てた。死ぬつもりだったのかもしれない。


(あんたがいなかったら、今ごろ俺もミズキも――)


 思考をそこで切る。


 ふと、焚き火の奥に気配を感じ、視線を向ける。


 ミズキがいた。焚き火の灯りが届かない場所で、彼女の白い指先だけが月光を受け、仄かに浮かんで見えた。

 祈りというより、何かにすがるような仕草だった。

 胸の前で手を重ね、そっと目を閉じて、囁くように言葉を紡ぐ。


「天を照らす月の神よ……この身、まだ未熟なれど、御心に恥じぬよう努めます。どうか、今日を生きる者たちに、安らぎと導きを……」


 その声は風に溶けるように小さく、けれど一語一語に祈りの重みが宿っていた。

 タケルは腰を上げ、そっと近づいた。


「……祈ってるのか」 


 タケルが声をかけると、ミズキはぴくりと肩を震わせた。

 こちらに顔を向けると、どこか気まずそうな笑みを浮かべる。


「兄様……」


 顔を向けたミズキの目元は、まだ赤い。袖でぬぐったのだろう、頬に泥がついている。   

 泣き顔を隠すように下を向いたまま、唇がかすかに動いた。


「……言わなきゃ、いけないことがあって……」


 タケルは黙ってうなずく。


「今日……熊が来たの、私のせいなんです」


 その声は震えていた。言ったあと、自分でも怖くなったのか、視線を上げられないままでいた。


「……あの熊の体に、種籾が……ついていたんです」


 言葉は震えていたが、はっきりとした声音だった。


「……わたし、選ばれなかった種籾たちが哀れに思えて……だから、供養しようと草陰にまいたのです……そうすれば野の神が拾ってくださると思って……」


 そこでミズキの声は途切れ、肩が小さく揺れた。


「それで……匂いにつられて、熊が来たんだと思います……」


 月明かりに照らされた頬に、ぽろりと涙がこぼれる。


「わたしのせいで……稲夫様も、兄様も……危ない目に遭わせてしまって……」


 タケルは静かに視線を下ろし、深く息を吐いた。

 炎の明滅が影を揺らす。タケルは、ミズキの涙が土に落ちてしみこむのを見て、言葉を探した。


「……生きてるじゃないか、俺も、あいつも」


 そう言うと、ミズキがゆっくり顔を上げた。目元に涙が滲んでいる。タケルは少しだけ笑った。


「……稲夫様がどう思ってるかは知らないが、おそらく同じようなことを述べるだろう」


 それはただの予感だった。だが、妙に確信があった。

 あの方は、そういう男だ――と。


 ミズキの表情がふっと揺れた。


「兄様、いま……ちょっとだけ、優しい顔してました」


「……そう見えたか?」


「はい。なんだか……稲男様を信じてるみたいに」


 タケルはしばらく黙り込み、月を仰ぐ。


「……正直、まだわからない。あの方が本当に神かどうかも、何者かさえも」


 タケルの声は、焚き火のはぜる音にかき消されそうなほど静かだった。


「だが、神かどうか関係なく、間違いなく勇敢だった。素人の動きで、足も震えてた。けど、逃げなかった」


 稲夫が熊の前に立ちふさがったあの瞬間。矛を握る手は震え、腰も落とせていなかった。戦い慣れた者から見れば、あれは無謀で、滑稽ですらあったかもしれない。


 だが、それでも――


 あの男は、逃げなかった。

 死を前にしてなお、己の足で地に立ち、矛を前へ突き出した。


 それは、ただの勇気ではなかった。

 どこか、「決意」に近いものだった気がする。


「そして俺たちは救われた。出会って間もない俺たちのために命を懸けて戦ってくれた」


 それが事実だった。

 ただの人間かもしれない。だが、その行動は、本物だった。


「たとえ神でなくとも――俺は、あの方に付いて行きたいと思った」


 ミズキが、ふっと目を細めて、優しく笑った。


「兄様には、兄様の信仰があるのですね」


 神に捧げるような敬虔さではなく、誰かを信じる事そのものへの、素朴な、温かな肯定だった。

 赦しでも、感謝でもない。ただ、心の底から穏やかな感情がにじみ出ているような、そんな笑みだった。


 タケルはしばらくその顔を見ていたが、ふと立ち上がる。


「……もう遅い。そろそろ寝ろ」


「はい。おやすみなさい、兄様」


 ミズキが竪穴の方へ向かうのを見送る。


 軽い足音が闇に吸い込まれていく。残された静寂に包まれながら、タケルはふと空を仰いだ。そこには、揺るがぬ月がただ、在るだけだった。

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