第4話 種に宿る神
夕暮れの川辺に、涼やかな風が吹き抜けていく。稲夫は土器に川の水を汲み入れ、焚き火の名残りの場所に戻ってきた。
先ほどの温湯消毒で使った土器は、まだわずかに温もりが残っている。
「さて……次は、種を水に浸ける工程。いわゆる“浸種”と“芽出し”だな」
「……しんしゅ? めだし……?」
しばらく言葉を繰り返した後、視線を伏せる。眉間にわずかな迷いの影が差すが、それを打ち払うように顔を上げる。
「それは……神を、目覚めさせる儀でしょうか?」
「うん、簡単に言えば――“神様を起こして、そのまま働かせる”って感じかな」
稲夫は種籾の入った布袋(作業着)を軽く持ち上げながら、続けた。
「最初は、水にじっくり浸ける。これが“浸種”。眠っていた命に、水のぬくもりで目覚めてもらうんだ」
ミズキはうんうんと頷いたあと、小声でつぶやく。
「……眠っている神に、朝の祈りを捧げるようなものですね」
「まぁ、そんな感じだな。そして次の“芽出し”は、起きた神様にそのまま働いてもらう段階。芽を出す準備をしてもらうんだ」
「……起きてすぐ働くとは、神もお忙しいのですね……」
ミズキはくすりと笑った。声には疲れをねぎらうような優しさが滲んでいる。
稲夫は内心、肩をすくめた。
(あ、これほんとに便利だな……あらゆる現象を神のせいにできる)
「まあ、神様ってのは働き者なんだよ。きれいな水とぬるめの温度で気分良くしてやれば、張り切って芽を出してくれるさ」
「……そうですか。では、種籾一つひとつに、小さな神が宿っているということになりますね」
ミズキは、神聖なものを見るように種籾を見つめた。
(うん、神様フィルターは万能だ)
「でもな、冷たい水じゃ神様が怒って芽を出してくれないし、汚い水だと寝たまま腐っちゃう。だから水は毎日替えて、温度も人肌より冷たいぐらいに保つ」
「では、今からその神の寝床を作るのですね」
ミズキの声は穏やかで、その目には柔らかな光が灯っていた。
「そういうこと」
稲夫は火の名残で温まった石を枝でつつき、ひとつ選んで水の入った土器の中へと沈めた。
じわりと水が温まっていく。指を差し入れ、人肌よりほんの少し冷たいくらいの温度で止める。
「よし、いい湯加減だな。神様も満足するだろ」
そのまま布袋ごと、選び抜いた種籾をそっと水に沈める。茶色い粒が静かに水底へ落ちていき、土器の内側にやわらかな波紋を描いた。
「このまま、だいたい三日から五日。水は毎日新しくする。匂いがしたり、濁ったりしたら、せっかく目覚めた神様の機嫌が悪くなる」
「……なるほど。神の御座を穢さぬよう、清めを欠かさないということですね」
ミズキは真剣な顔で頷く。
その言葉に、稲夫は思わず「……まぁ、そんな感じかな」と曖昧に返す。
(この子、真面目で信心深いけど、なんというか……すこし天然だな)
ふと西の空に目をやると、夕日が山の向こうに沈みかけていた。
「もう日が傾いてるな。そろそろ帰ろう」
二人は川辺を後にし、村へと戻っていった。
「おお……本当に、できてる」
戻った先には、竪穴式住居が完成していた。地面を掘り下げた窪みの中に、柱と木の骨組みで屋根が架けられている。
壁は粘土と枝を塗り固めてあり、湿気と風を防ぐつくりになっていた。入口には木の板が斜めに立てかけられ、屋根の上には葦や草が編み込まれていた。
(正直まともに住めるのか心配してたけど、これなら十分雨風を凌いでくれそうだ)
中に入ると、床には乾いた草が敷き詰められ、中央には焚き火用の石囲いまで作られていた。狭くて天井も低いが、居心地は意外と悪くない。
「ありがとう、タケル。おかげで、安心して眠れそうだ」
「お褒めに頂き光栄です」
タケルは不愛想に答えるが、その表情はどこか誇らしげだ。
その晩は、ミズキたちが集めておいてくれたヨモギやノビルなどの野草、干し肉を分け合って夕食にした。
稲夫の取り分は明らかに多かったが、さすがに未成年二人にそれを見せつける勇気はなかった。
「いいから遠慮しないで。俺の分は気にするな」
そう言って自分の分の半分以上を押しつける。
二人は最初こそ遠慮したが、やがてミズキは小さく「ありがとうございます」と微笑み、タケルも黙ってうなずいて口をつけた。
(うん、これでよし……俺の腹は、明日から草でも食っとこう)
その後、静かに食事を終えると、火を弱め、竪穴の中に三人は身を寄せて横になった。
——だが。
「……腰が死ぬ……!なんだこの拷問ベッド……」
寝床に敷かれているのは、布団……ではなく草。その寝心地は、もはや“ほぼ地面”だった。
クッションなんて洒落たものはどこにもなく、背中には小石たちがゴリゴリと愛のないマッサージをかましてくる。
(寝返りを打つたびに拷問スイッチが入る……!)
稲夫はうめき声をこらえながら、そろりそろりと姿勢を変える。が、そのたびに「ゴリッ」「グリッ」と背中や腰に容赦なく地面が反撃してくる。
横ではミズキとタケルが涼しい顔で眠っている。
(よくこんな環境でぐっすり眠れるもんだ。背中の神経どうなってるんだ……)
稲夫は心の中で突っ込みを入れた。
「布団って……人類の英知だったんだな……」
文明レベルが落ちると、当たり前のありがたさが骨身にしみる。
稲夫は、もう二度と布団を粗末に扱うまいと、心に誓った。
※作中では簡単に描きましたが、「浸種」と「芽出し」は、本来別の工程です。
しかし、作中同様に現代でも種籾を水に浸けている間に、そのまま発芽させることも多いです。
そのため、実質的に浸種と芽出しは同時に行われるケースが一般的です。