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第3話 火の神の儀式

 川辺に戻った稲夫の足取りは、重かった。


(ただ米を作るのに協力するはずが……どうして神様の振りをしないと殺される事態に……)


 脳裏に、先ほど耳にした声がこびりついていた。


『あいつが神でないと分かった時は――俺が斬る』


 タケルのその言葉が、今から行おうとしている温湯消毒のプレッシャーを、格段に跳ね上げていた。


 温湯消毒が成功すれば、農薬のないこの世界でも、種籾につくカビや病気の予防になる。

 だが、温度が高すぎれば発芽率が落ち、低ければ意味がない。

 下手をすれば、全ての種籾を台無しにしかねない。


(そんな事態になれば……俺は間違いなく殺される……)


 胃のあたりから、酸っぱい物がこみ上げてきた。


「お待たせしました。薪を集めてまいりました」


 背後から、明るい声が届く。


 振り返ると、ミズキが腕いっぱいに薪を抱えていた。

 どこまでも真っ直ぐな眼差しでこちらを見ている。


「お、おう、ありがとう。助かるよ……」


 稲夫は無理やり口元を引き上げ、作ったような笑みで返事をした。

 ミズキのその真剣さが、逆に申し訳なくなる。


「それじゃあ……火を起こす準備をしておいてくれないか?俺は、ちょっと水を汲んでくる」


「畏まりました」


 ミズキは静かに頷くと、薪を抱えたまま作業の支度に取り掛かる。

 稲夫はその姿を背に、そっと川の方へと歩き出した。


 川の流れは冷たく澄んでいた。そして、土器の中にたっぷりと水を汲む。

 濁りのない澄んだ川の水が、土器の内側でわずかに揺れる。


(大丈夫だ。温湯消毒は実際、何回かやったことがある。作業としては難しくない。温度管理さえできれば……)


 自分に言い聞かせるように、稲夫はそっと首を振る。


(自信を持て、稲夫……お前は、できる)


 そうやって何度も胸の内で念じる。ほんの少しだけ、心の中に落ち着きが戻ってきた。


 土器をしっかり両手で抱え、再び川辺の作業場所へと歩を進める。


 作業場所に戻ると、火起こしの準備を終えたミズキの姿が見えた。

 焚火のために並べられた石囲いの中に、薪が綺麗に組まれていた。


 稲夫は小さく息を吐き、土器をそっと地面に置いた。


 ここからが本番だ。


「ミズキ、火の準備ありが――って、ああ……悪い、もっと早く声をかけるべきだったな……」


 声を掛けかけて止まったのは、ミズキの必死な姿が目に入ったからだった。

 ミズキは石囲いの前に座り、両手で木に棒を押しつけて懸命に擦っていた。


「……もうすこし、火が……」


「いや、ごめん。こっちに任せてくれ」


 稲夫は苦笑しつつ、ズボンのポケットをまさぐる。

 そして、取り出した銀色のオイルライターをカチリと開けた。

 ホイールを弾くと、シュッという音とともに炎が立ち上がり、ふわりと薪へ火が移った。


「……これは……」


 ミズキの手が止まり、しばし沈黙する。

 だがその瞳には驚きよりも、何かを悟るような光が宿っていた。


「火が……稲夫様、あなた様は……火の神の御力が宿っているのでしょうか?」


「いやいやいやいや、違う違う。火の神の力とかじゃなくて、これはただの――」


 言いかけて、ふと考える。今、神様らしいアピールができるのではないかと。


「……まあ、そうだな。“ちょっとした神の小道具”ってとこだな」


「やはり……火の神のご加護をお持ちなのですね……」


 ミズキは静かにそう言い、火の前で手を合わせた。


(なんか……妙な属性が増えた……)


 命がかかっているとはいえ、自分の軽率な発言を若干後悔する。

 稲夫は焚き火の石囲いに土器をそっと乗せた。


 稲夫オイルライターをポケットに仕舞う際に、あることに気づいた。


(あれ、タバコが……ない)


 ポケットをもう一度探る。

 だが──ない。あるはずのタバコがない。どこを探してもない。


「マジか……全部……落とした?」


 稲夫の顔が引きつる。


(嘘だろ……つまり、強制禁煙生活!?)


 思わず天を仰ぎ、肩を落とす。


「稲夫様……?」


「ああ、いや……ちょっと現代の呪物を一つ、喪失してな……」


 心ここにあらずのまま、首を振って現実逃避する。

 だが、土器の縁から湯気が立ち始めると、すぐに気持ちを切り替えた。


 稲夫は泥水選でより分けた種籾の入った袋状にした作業着を取り出し、土器の前にしゃがみ込んだ。


「これから、この種籾をお湯に浸けて、病原菌やカビを祓う。さっき説明した温湯消毒ってやつだ」


「……火の神様に、清めていただく儀式……ですね」


「まあ、そんなところだ。けどな――熱すぎれば中身が死ぬし、ぬるけりゃ意味がない。六十度で十分。それが基準だ」


 彼は土器の湯に指を差し入れる。


「ん……まだぬるいな。たぶん四十度くらいか。ミズキ、もうちょい薪くべてくれるか?」


「承知しました」


 ミズキが手際よく小枝を足す。火が勢いを増し、じわじわと水が温まっていく。

 もう一度指を入れる。じんわりとした熱が指先に広がる。


「おっ……あっつ。けど、これぐらいだ。たぶん、六十度前後だな」


 稲夫は種籾の入った布袋(作業着)を手に取り、息をひとつ吐く。


(しくじれば、俺の命はない……)


 失敗すれば種籾がダメになりかねない。そうなれば間違いなく殺される。

 温湯消毒にかかるプレッシャーが、ずっしりと肩にのしかかる。


「ミズキ。火の勢い、頼む。薪を足したり火を抑えたり、君のほうがきっと慣れてる」


「分かりました。火の神の気配を感じながら……務めます」


 ミズキの表情が引き締まる。焚き火の前に座り、手元の薪に注意を払い始めた。


「よし、いくぞ」


 稲夫は布袋ごと、種籾をそっと湯に沈める。ふわりと湯気が立ちのぼり、茶色の粒が静かに沈んでいく。


「これから十分、集中していく。頼んだぞ」


「はい。火の神のご機嫌、損ねないようにします」


 ミズキは炎の揺らぎを見つめながら、小さく息を整えると、そっと薪を足した。

 火の勢いを読み取りながら、手元の木の位置を微調整していく。


 稲夫は口の中で数を刻む。一分、二分、三分……。


 湯が冷めていないか、何度も指を入れて確かめる。

 ぬるくなれば、意味がない。熱すぎれば、死ぬ。


(……大丈夫。ミズキの火は安定してる)


 ふと視線をやると、焚き火の向こうで薪を動かすミズキの横顔が見えた。

 真剣で、どこか神聖な空気をまとっている。


(よし……信じるか)


六分。七分。時間がゆっくりと流れていく。


そして――十分。


「よし、引き上げる!」


 稲夫は袖で布袋をつかみ、土器から持ち上げる。


「熱っつ!!」


 叫びつつも耐え、種籾の入った布袋を抱えたまま急いで川へ駆け出す。

 そのまま川の流れに沈めると、ひんやりとした水が熱を奪っていく。


「稲夫様……うまくできましたか?」


 後ろから不安そうなミズキの声が届く。


「種籾に光沢が出ていたら成功だ。白っぽかったら失敗……さて」


 袋を開き、指先で一粒の種籾をつまむ。そして陽の光にかざす。


 光沢が――あった。


 しっとりと、命の気配を湛えた艶がそこにあった。


「……よし。いける。成功だ」


「これが……火の神によって清められた種籾なのですね」


 ミズキがそっと傍に寄り、稲夫の手元をのぞき込んだ。

 その瞳がゆっくりと細められる。


「なるほど……確かに、表面が日を浴びて、輝いているように見えます。美しいですね」


 稲夫はその言葉に、思わず口元をほころばせた。


「そう言ってもらえると、こいつらも報われるよ」


 ミズキは小さく微笑み、まるで祈るように手を合わせた。


(ひとまず、俺の命はつながった……)


 緊張で張り詰めていた背筋が、一気にほどけていく。

 ほんの少し前まで、頭の中には』

『失敗=死』の文字がちらついていた。

 自分の命を種籾一袋に預ける羽目になるとは、人生で一度も想像したことがなかった。


「これで……第一関門突破、だな。次は――浸種と芽出し、か」


 水で冷やされた種籾は、光沢に命の気配を湛えている。

 それはただの農作業の結果ではなく、生き残るための闘いに勝った証のように感じられた。


※本文では簡単に触れましたが、「温湯消毒おんとうしょうどく」は種籾を病気から守るための工程です。

六十度のお湯に一定時間浸けることで、薬剤を使わずにカビや細菌を殺菌できます。

昔ながらの方法ですが、今でも無農薬栽培を目指す農家ではよく使われています。


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