第2話 信じる者と疑う者
「米を作るにしても……まずは、住む場所をなんとかしないとな」
立てかけられた竪穴式住居を見上げ、稲夫はぽつりと呟いた。木の骨組みは既に組み終わっているが、壁の土は塗りかけのままで屋根もない。
風雨をしのげるとは言いがたく、さすがに野宿では体がもたない。
「それならば、今日一日あれば建てられる」
背後から、低く短い声がした。
声の主はタケルだった。腕を組み、真っ直ぐにこちらを見つめている。その目には、疑念と警戒がありありと浮かんでいた。
「そうか。頼めるか?」
稲夫が声をかけると、タケルはわずかに頷いただけで、それ以上の言葉は返ってこなかった。
だいぶ警戒されているな……まあ、不審者(空から落ちてきた神様らしき男)にしては、素直すぎるリアクションかもしれん。
稲夫は少し肩をすくめて、別の話題に気を向けることにした。
(……それにしても、今は何月なんだ?)
気候は確かに春めいている。だが、稲作には正確なタイミングが重要だ。
気温、日照、降水量――条件を見極めて動かねば、収穫に大きな差が出る。
「なあ、ミズキ。こっちの季節で言うと……今はいつ頃なんだ?」
「えっと……春に入って、もう二十日ほどが経っています。村では、そろそろ田の準備をする時期だったかと」
「そうか、そうなると三月下旬ごろか……」
(なら今やるべきは、種籾の選定と消毒、そして芽出しの準備。間に合う……まだ間に合う)
「それなら、ちょっと川を見に行ってくる。田んぼを作れそうな場所があるかどうか確かめたいんだ。それと種籾の選定と消毒もしたい」
そう言って種籾の入っている土器を抱え歩き出すと、ミズキが小さく手を挙げて言った。
「私も、お供してもよろしいでしょうか?できることがあれば、お手伝いしたくて……」
「ありがとう、助かるよ。じゃあ、よろしくな」
タケルが一瞬、横目で二人を見やる。だが、何も言わない。ただ、わずかに眉をひそめ、唇を引き結んだ。
二人で歩くことしばし、川辺の開けた場所へと辿り着いた。そこは日当たりがよく、傾斜もなだらかで、湿り気のある土が足元に広がっている。
しゃがみ込んだ稲夫は、手のひらに土をすくい、指先で感触を確かめた。
「うん……粘土質が少し混ざってるけど、水はけも悪くない。水を引ければ、田んぼにできる」
川の流れは安定しており、用水路を引く余地もある。川沿いの田での経験と比べても、ここなら十分にやれる。
「ミズキ、ひとつ聞きたい。……塩って、ある?」
「塩……ですか?申し訳ありません、今は持っていません……」
「そうか……わかった」
(そうなると塩水を使った選定も、塩を使った殺菌も無理だな……まあ仕方ない。今あるものでやるしかない)
「だったら泥水選で種籾を選んで、温湯消毒で対応するしかないな」
「……でいすいせん?おんとうしょうどく?」
ミズキは言葉を復唱し、わずかに眉をひそめた。聞き慣れない言葉に戸惑いながらも、何とか意味をつかもうとしている様子だった。
「種籾には良し悪しがある。良い種籾は中身が詰まってて、比重が重いから水に沈む。逆に空っぽのやつは軽くて浮いてくる。だから、浮いたやつは外して、沈んだのだけを選ぶ。これが“選定”だ」
「…………?」
ミズキは一瞬、目を伏せて考え込む。だが、すぐには言葉が返ってこなかった。
(だよな……やっぱ現代の理屈じゃ難しいか)
「つまりな。土と水の神様が、力ある種籾を見分けてくれる。浮くやつは、命が薄い。沈むやつは、土と水に選ばれし強い命だ。そいつらだけを選び取るんだ」
「土と、水の神様が選んでくれるのですね。それなら理解できます」
ミズキは軽く頷き、真っ直ぐに稲夫を見つめて答えた。
稲夫は内心、ほっと胸を撫でおろした……が、ミズキが急に深刻そうな顔をして口を開いた。
「ということは、浮いた種籾たちは、神に選ばれなかったということですね……あの、後で供養したほうがいいでしょうか?」
「いや供養はしなくていいよ!?これは儀式とかじゃないから!」
「でも“命が薄い”って……」
「言ったけども!そんなに神妙に考えなくて大丈夫だから!ただの比重の問題だから!」
「あ、でも草陰に撒けば、野の神が拾ってくれるかもしれませんね……」
「だから供養じゃなくて……いや、もう好きにしてくれ……」
ぐいっとこめかみを押さえる稲夫。ミズキは満足げに頷いていた。
「で、次は“温湯消毒”。これは、火の神様の役目だ。火でお湯を沸かして、そこに種籾をしばらく浸けておく。そうすると、病やカビとかの“穢れ“を祓って、丈夫に育つ」
「火の神の力で、穢れを祓うというわけですね」
ミズキは深く頷き、その目に揺るがぬ敬意を宿した。
(よし、完全に理解してくれた……たぶん)
「じゃあ、火を使うから薪が必要だ。ミズキ、薪を集めてくれるか?できるだけ乾いてるやつを頼む」
「承知しました。すぐに用意しますね」
微笑を添えて応じたミズキは 身を翻して森の奥へと足を進めた。その後ろ姿を見送りながら、稲夫は地面に作業着を敷き、そこに種籾を広げる。
次に、土器に川の水を汲み、そこへ泥を加えてかき混ぜる。手でかき回して粘度を均一に整えると、そこへ種籾を数握りずつ入れていく。
水面に浮かぶ種籾、沈む種籾。比重の違いが徐々に現れた。
「よし……浮いたやつはこっちだな」
浮いた種籾をすくっては除け、沈んだものだけを丁寧に作業着の端へ並べていく。これを何度も繰り返し、すべての種籾をより分けていく。
時間はかかったが、最終的に選ばれた種籾はしっかりと重みがあり、色も均一。これだけあれば――
「十分だ。大体一反(約千平方メートル)はあるな」
稲夫は作業着の袖を結び、簡易的な袋にしてその中に選定した種籾を入れる。そして川の流れに手を浸し、ゆっくりと種籾に付いた泥を濯いでいく。
(もう一度、こうして種を選んでるなんてな……)
川の水で種籾をすすぎ終えた時、ふと視界の端に人影が動く。
視線をやると、川から離れたところでミズキとタケルが立ち話をしていた。
川音の切れ間に、ふたりの声が思いがけず耳に届いてしまう。
「ミズキ。本当に、あの男は……神なのか?」
「神であると、私は信じています」
ミズキは短く、しかし確信をもって告げる。
「私は祈りました。また神の糧を実らすことができますようにと。その瞬間、稲夫様は空より現れました」
「……偶然、じゃないのか」
タケルは淡々と返したが、その語調には迷いもあった。
「そうかもしれません。ですが、あの方は“稲”というものを知っていた。まるで昔から見てきたかのように」
しばし沈黙ののち、タケルがぽつりと口を開いた。
「……俺も、先ほどのやり取りを陰から見てた。確かに、俺たちの知らぬ知識を有していたが……どうしても、あいつが“ただの人間”にしか見えない」
「兄様……それを口にするのは、不敬にあたります」
静かにそう返したミズキの声は、責めるでも怒るでもなく、ただ祈りの延長のような静謐さを帯びていた。
だが、タケルは怯まなかった。
「不敬でも構わん。俺は、お前を守らねばならない……もし、あいつが神ではないと分かったときは――俺が斬る」
その言葉に、ミズキは目を伏せ、しばし沈黙する。
「……その刃が、必要のないものであることを、私は信じています」
そのやり取りを、離れたところで稲夫はじっと聞いていた。
(いやいやいや、話が穏やかじゃない!)
音を立てないように、息を潜めて後ずさる。落ち葉一枚が擦れるだけでも命取りに思えて、全神経を集中する。
(いま俺、“処刑予告”されてなかったか!?こうなるんだったら最初に全力で神じゃないって否定しておけばよかった!)
音を出さないように慎重に後ずさり、そっとその場から離れる。
(やばい、今からちゃんと“神様”を演じないと殺される……ただ米を作るはずが、いつの間にか俺の命かかってた……)
稲夫は心の中で嘆いた。その背後では、沈黙を保ったままの兄妹が佇んでいる。
昼の陽光が、タケルの背に担がれた鉄器の矛の刃を、静かに照らしていた。
※今回、本文では泥水選をしましたが、塩で選定する場合は塩水選定と言います。発芽率が上がり、病害にも強くなるとして現代でも使用されています。
また、これをするとしないでは収穫量に一割の差が出ると言われています。