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第1話 種籾を託されし者

「……廃業か」


 昼の陽射しが柔らかく降り注ぐ田の縁に、米田稲夫(よねだいなお)はぼんやりと立ち尽くしていた。

 用水路の水面に映るのは、疲れ果てた自分の顔。日焼けした肌、泥でくすんだ作業着、重く垂れた肩。

 その姿は、かつての情熱とは裏腹に、どこまでも沈んでいる。


 この地にある田は、祖父母が代々守ってきたものだった。

 両親を早くに亡くし、農作業の全てを祖父と祖母の背中から学んだ。


 ――この田を守ることが、生きる意味だった。


 高校を卒業してからの十年間、稲作に人生を捧げてきた。

 稲作は重労働だが、黄金色の稲穂が頭を垂れる光景を目にするたび、全てが報われる気がした。

 心の底から、米づくりが好きだった。


 ――それでも、限界だった。


 燃料も肥料も年々値上がりし、異常気象が続き、収穫は不安定になった。市場には関税が撤廃された安価な輸入米が流れ込み、直販の注文も減った。

 作れば作るほど赤字が膨らみ、努力や工夫では立て直せなくなっていた。


 ――やめるしかないのか。


 その一言を、喉の奥から引きずり出すように吐き出す。

 まるで、自分の人生そのものを切り捨てるような、重たい言葉だった。


「……はあ」


 深いため息をつき、稲夫は田んぼから静かに背を向ける。


 稲夫は近くの林の奥にある、ひっそりと佇む小さな神社がに向かう。

 誰が祀られているのかもわからない、無名の社。

 台風が迫る日や、猛暑が続く日も、稲の無事を願って通い続けた。

 収穫のたびには感謝の祈りを捧げ、掃除をして小さな供物を置いた。


 今日は、その神様に最後の報告をするために来た。


 鳥居をくぐり、石段を登る。賽銭箱の前で立ち止まり、小銭を入れて、深く二礼二拍手一礼。静かに目を閉じ、心の中で祈る。


(氏神様……勝手ながら、私は米農家をやめます。祖父母から受け継いだ田を、私の代で終わらせてしまいます。申し訳ありません)


(それでも、今まで本当にありがとうございました。いつかまた、稲を育てられる日が来ますように)


 ――そう祈った瞬間、風がぴたりと止まった。


 森のざわめきが静まり、空気が張り詰める。鳥の声も、虫の音も消え、世界は沈黙に包まれた。


 ――耳元で、声が聞こえた。


「その願い、聞き入れよう」


 誰――?


 反射的に目を開いた瞬間、視界が白く弾けた。


 ***


 気がつくと、稲夫は見知らぬ場所に立っていた。

 土の匂い。川のせせらぎ。風に揺れる草の音。


 目の前には、木々に囲まれた野原が広がっている。その一角に、ぽつんと建てかけの竪穴式住居があった。

 木の骨組みと乾きかけの土壁がむき出しのまま、作業の手が途中で止まったかのように放置されていた。


「……ここは?」


 呆然とつぶやいた声に、ふたりの影が立ち上がった。


 一人は中高生程の少女だった。黒髪を束ね背に垂らし、くすんだ朱の羽布を肩に掛け、白布の衣を静かに身にまとっている。

 大きく見開かれた瞳には、驚きと微かな希望の色が揺れていた。肩がわずかに強張り、息を詰めたようにその場に立ち尽くしている。


 もう一人は大学生ほどの青年。筋肉質な体に粗く織られた麻布を上半身に巻きつけ、腰には同じ布地を巻いていた。

 背には鉄製と思われる鈍色の矛を背負っている。無言で稲夫を見据え、表情を硬くしていた。


 やがて、少女が声を震わせながら口を開いた。


「……もしや、豊穣の神であられますか……?」


「え?は、はい……?」


 条件反射のように返事をしてしまった次の瞬間、少女の瞳に涙が溢れた。


「ああ……本当に……本当に来てくださった……!」


 そのまま膝をつき、地に額をこすりつける。嗚咽をこらえながら、ひたすらに祈るように頭を垂れる。その姿に続き、青年も無言で跪いた。


「ちょ、ちょっと待って!いったん待って!」


 混乱する稲夫に構わず、ふたりは動かない。ただ、信仰と願いをこめて頭を下げ続ける。


「……あの、今、どういう状況?」


 なんとか声をかけると、少女が顔を上げた。涙の跡が頬を伝い、真剣な瞳が稲夫を捉えていた。


「私はミズキ。五日ほど離れた村の巫女です。こちらは兄のタケル。村の戦士長です」


「巫女に……戦士長……?」


 まだ理解が追いつかない稲夫を前に、ミズキは語り続けた。


「私たちの村は、別の集落に襲われました。村は焼かれ、逃げるしかありませんでした。長老たちは……せめて巫女だけでも逃がそうと……神託を継ぐ者として」


 タケルが無言でうなずく。その視線には、押し殺した悔しさが滲んでいた。


「逃げるとき、母――先代の巫女が私に神の糧を託しました」


「……神の糧?」


「少し、お待ちください」


 ミズキは一礼し、背後の竪穴式住居に駆け込む。しばらくして、縄目の付けられた土器を両腕で抱えて戻ってきた。


 慎重に膝をつき、土器に付けられた木製の蓋をそっと開けると、茶色く乾いた粒――ずっしりと詰まった米の種籾が現れた。


「これは、母が私に託した米の種籾です。村では“神の糧”と呼ばれ、代々巫女が祠で保管していました」


 ミズキは土器の中の種籾を見つめながら言葉を続ける。


「けれど私は、育て方を知りません。田を作っていたのは、長老や村の男たちです。兄も……」


「俺も、戦うばかりで田はすこし手伝っただけだ。詳しいやり方までは知らん」


「だから、どうか……また実らせることができますようにと、私は神々に祈りました」


 ミズキは深く地に額をつける。震えながらも、真っ直ぐな祈りがその身から伝わってくる。


「そのとき……あなた様が、天から現れたのです。どうか、私たちをお導きください!」


 稲夫は黙ってその光景を見つめていた。


(なるほど。つまり住んでいた村を追われ、逃げ延びた先で米を作ろうと巫女が祈ったら俺が来た……これって異世界に召喚ってやつか?)


(でもさ……俺が知りたかったのは『俺』が『どこ』に『どうやって』来たのかって話だったんだけど!?)


 声を大にして問いたい気持ちはあったが、今はそれどころではなかった。

 懇願する少女と、その後ろで静かに頭を下げる青年。この状況で俺以外に頼れるものは誰もいないのだろう。


 稲夫は土器の中をのぞき、指先で一粒をつまむ。乾きも揃いも良い、上等な種籾だ。


 ――これなら、きっと芽が出る。


 胸の奥に、小さく火が灯るのを感じた。もう一度、稲を育てられる――そう思うと、こんな状況でも嬉しく思えた。


「……わかった。俺にできることはやってみる。米づくりのことなら、任せてほしい」


 その言葉に、ミズキの顔がぱっと明るくなった。涙の跡を残したまま、希望に満ちた笑みを浮かべる。


「ありがとうございます、豊穣の神よ!」


「いや、豊穣の神って……俺は米田稲夫。よろしく」


 こんなにも早く、再び稲を育てる日が来るとは思わなかった――しかも、こんな形で。

※ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

これが、私にとって初めての執筆・投稿になります。もし少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。

どうぞ、これからもよろしくお願いします。

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