02
私がまだ、アンナベル・マリルーンだった頃。
ここよりずっと北の領地で暮らしていた。冬には雪が積もるし、湖は凍りその上を渡っていける。そんな凍てついた土地だった。
マリルーン家は北部の古い伯爵家で、私は三女として生まれた。二人の兄と二人の姉、それから弟が一人。兄弟は別々に暮らしていたから、どんな人たちだったかはあまり覚えていない。
金髪に青い瞳、いつも品よく上質なドレスを身にまとい、優雅に微笑む。私は完璧な伯爵令嬢だった。
周りにいるのは、メイドや執事たちばかり。私はいつも自分の思い通りにできるのが当たり前の暮らしをしていた。
社交界でもそうだった。
私より上の家柄となれば王家に近い血筋だけ。北の貴族社会にそんな家柄の人が登場することは滅多にない。北の領地で私の家は、社交界での最上位だった。
私が特別に高慢だったとか、自己中心的だったわけではないと思う。
むしろ私は上の人間の勤めとして、慈悲深くあろうとさえしていた。
ただ、みんなが私に従うのが当然のことだっただけ。
なんでもできる、怖いものなど何もない。私はそんな少女だった。
十六になったばかりの年だった。
私の嫁ぎ先が決まった。
王都を挟んで正反対に位置する、遠い遠い南の領地へ。
馴染みもない土地と、見知らぬ相手への不安。
自分ではどうにもできない現実に、私の中では得体の知れない感情が、渦を巻くように膨れ上がった。
* * *
“祝福に染まる花嫁の古城”。
その噂を誰から聞いたのか、記憶は定かでない。
北部で知らぬ者はない、そんな有名な噂。
東の森のはずれにある、古城にまつわる噂だ。
かつてその古城で起きた悲劇。
遠くから輿入れしてきた令嬢が、婚礼の夜に何者かに惨殺された。
花嫁の血は婚礼の祭壇を真っ赤に染め、彼女は無念のままこの世を去る。
けれど死の直前、彼女は「正しい花嫁には、幸せな結婚を」という奇妙な言葉を残したという。
それ以来、城へやって来た花嫁たちには次々に奇妙な出来事が起きた。
大勢の花嫁が恐ろしい目にあって、一晩も耐えきれずに城を去った。
けれどある時、正しい心を持った花嫁が三つの捧げ物を祭壇に供えて祈りを唱え、一晩無事に過ごし終えると、その花嫁は愛に満ちた幸せな結婚を手に入れることができたという。
以来、その城には多くの花嫁たちが捧げ物を手に訪れ、一晩を過ごし、幸せな結婚を願う聖地として賑わったこともあったという。が、それもとうに昔のこと。
城はいつしか主人をなくし、打ち捨てられた。
その噂は、特に結婚を控えた少女たちの間で囁かれ続けていた。私の母も、祖母でさえも、聞いたことがあると言っていた。
貴族の娘は大抵、政略結婚をする。
思い通りに生きて来たのに、唯一思い通りにならない。しかも人生において重大な出来事だと言うのに。
そんな運命を少しでも自分の手で良い方へ変えてみたい。
変えられるかもしれない。
私たちは、そんなことを夢みて互いに囁き合った。けれど、誰の城かもわからない古城に、行かせてくれる貴族の親はいない。
そうとわかって、私たちは軽々しく「行けたらいいのにね」と、何度も言い合ってため息をついた。
* * *