束縛
僕は即座に体勢を変え、方向転換して走り出す──一目散に、あの怪物のような謎の女の子から逃げるべく、地を勢いよく踏み出した。
「はぁ・・・はあ・・・・・・っ、はぁ・・・──!!」
当然、パニックに陥っていた僕はペース配分など全く考慮しておらず、最初に行った全力ダッシュの反動に痛み続けた脇腹を庇うようにして逃走を続ける。
「ふふっ。先輩は結構足が速いんですね──か弱い女子の私には追いつけそうにありません。でも革靴で、しかもこんな雨天時に急に走り出すのは、あまり感心しませんねえ。いくら屋内と言えど
──────床が濡れていますからね。」
なるほど。
確かにそれは、ご尤もな忠告だ──身体のバランスを崩し、床に右半身を強く打つように転げた僕は、彼女の振り撒く正論に、一般論に、反駁する余地を見つけることが出来ずにいた。
強打した肩が古い木の幹のように──軋む。
「おっと。言わんこっちゃないですよう、先輩──慌てるというのは基本的に損ですからね。いつもいつでもどんなときも、慌てちゃあいけませんよ、ふふ。」
そう言いながら床に倒れたままの僕へと歩み寄る暗望。
しかし僕は、こういう異常事態に対しては人並み以上に耐性がついてしまっているせいで、既に勘づいていた。
今のは滑って転んだ感じじゃあない────喩えるならば、身体の一部が急速に" 麻痺 "したかのような感覚だった。
故に今も尚、起き上がることがままならないのだ。
「とぼけるなよ、今の転倒は君のトリック──能力だろ。
聞かせろ、君の正体を。」
「正体?名乗ったじゃあないですか、暗望 闇樹です、と────それとも、«式神遣い»としての私に興味を持ってくださいました?
嬉しいなあ嬉しいなあ、先輩が私に興味を持ってくれたんだあ、いえーいっ。」
わざとらしい棒読みでそんなことを言ってから、暗望は制服のポケットから先程握っていたものと酷似している札を数枚取り出す。
「人の心には皆、闇がありますよねえ──後ろめたいこと、秘密とか、まあいろいろあるんですけれど。
その闇──というかその陰影の部分に、弱さに憑依する化物がいるんですよ。
先輩もご存知ですよね?«鴉»のボス──ではないのかな。旭川 黒羽さん。彼女がまさしくそれだった。」
最近の僕の動向を知っている──のか?
八宮高校の決戦の時、あそこにいたってのかよ・・・同じ生徒なわけだし、有り得なくはないけれど、それでもおかしい。
なぜ同じ学校の生徒に、裏の世界に関与するものがいるのだ?
「私はその化物、まあ文脈に準えて言うなら式神ですね。それを札に«保存»して«使役»するんですよ────周期と再利用。
勿論、彼らの存在意義を損なわない程度には戦闘に際する武器として扱えますが・・・・・・それだって、部下として命じたり、道具として扱ったりするわけではありませんよ。どちらかと言えば共闘です──仲間に、友達に、『一緒に戦ってよ、お願いね』って懇願するんです。」
「式神遣い。式神のエキスパート──というか、それが代々受け継がれた、私の血族の才能なので、拒むことは出来ないんですがね。
だから私は、式神を無辜の人々に勝手に憑依させたり、勝手に祓ったりすることだって、可能なんです。それこそ魔法のように──というよりは、呪いのように。」
呪術師。
式神遣い。
別物かと言えば、それは違わない。
「ふふふ。精神を蝕む呪いの憑神──その存在を知った物語のすぐ次の話に私みたいなキャラを登場させるのは、少し興醒めじゃありません?
まるで誂えたようですねえ、先輩。」
「・・・・・・何を言っているか分からないね。もう一度訊くぞ。お前は僕の──何なんだ?」
「おーっと。イエスとノー、二者択一で答えられない質問が飛んできましたねえ。こういうの、オープンクエスチョンって言うんでしたっけ?会話を円滑に進めるためには有効な手段ですけれど。」
「後輩ですよ──私は。私こと暗望 闇樹は、先輩の後輩です。私立八宮高校に通う一年生。
そして«呪術師»──そして«式神遣い»。」
「そしてあなたの────依頼人です。」
胸が打つ。
依頼人──その言葉に少し、僕は驚いた。
依頼人だと?
この女の子が?
「さてと。それではそろそろ学校へ向かいましょうか──あと10分もすれば、私の施した拒人結界も解けちゃいます。結界が決壊しちゃいますよ、えへへ。」
暗望は倒れている僕の腕を掴み、無理矢理に引っ張り起こす。
どうやら彼女の意思に基づいて、身体に纏わりついていた奇妙な" 痺れ "は解けたみたいだ。
「次の電車あたりにしっかり乗っておかないと遅刻確定ですからね──先輩もあの表裏一体、憑依一体の白黒の女の子に怒られたくはないでしょう?
菱森 希心さん、でしたっけね。」
「やめろ。その名を君が口にするな────いいよ、でも依頼なんて大袈裟な言葉を使わないでくれ。相談くらいなら聞いてあげるから、放課後に校舎正門前で待ち合わせってことにしよう。」
「らじゃーですよ、繊細」
「繊細?」
「おっと、間違えました。先輩と言おうとしたんですけれど。
いちいちデリケートな男だなあ、もう少し器量が広いもんだと思ってたのに、期待外れだなあ、がっかりしたなあ、という思いがつい口を突いて出てしまったんですね。」
「人の傷口に塩を塗るなよ!」
なんてヤツだ──後輩ならもっと後輩らしくしろ。
先輩を慮ってくれ。
「敵に塩を送ってあげたんですよ──敵の傷口に。」
「痛いっつーか、痛々しいぞ、それ・・・・・・。」
「うるさいですね、狭量が過ぎますよ。千敗の先輩。」
「千敗!?いつの間にかそんなに敗北を喫していたのか、僕は!」
というか、千回も戦った覚えなんてないのだが。
人と争うことは嫌いなのだ。
「千敗なだけですよ。全数が一億くらいなら、まあまあ好成績でしょうに。好成績で高勝率でしょうに。」
「そりゃまあ、そうだけどさ・・・・・・。」
「というわけで全敗の先輩」
「何にだよ!!」
──と、まあこんな感じで(どんな感じだ)、僕ら2人はなんとか時間厳守の登校を終えた。
予鈴にはギリギリ間に合ったようで、特に叱責されることもなく、無事に授業を受けることも出来たが、それは集中出来たかという話とは全く別である。
ただ«命題»の皆にこの依頼人──この後輩を、暗望を見せたら、皆どんな反応をするのだろうと気になっていた。
桜木くんあたりと話が合いそうだが。
それにしても、回想してみると、初めてなんじゃあないだろうか?
裏の世界の住人が、全く不自然な猜疑心を向けられることなく、人間社会に溶け込めている実例を見るというのは。
学校なんて人間の溜まり場だろう、何か些細なミスでもあったらすぐ怪しまれそうなものだけれど、そこはのらりくらりと隠して躱す、暗望の有する一種の才能なのかもしれない。
表の世界の身で裏の世界に片足を踏み入れた僕と、出自が全くの正反対ってわけか。
ふうむ。
「お待たせしましたっ、撥条の先輩」
僕が正門前で思考に耽っているところを、その澄んだ綺麗な声で一気に呼び戻される。
「なんだよ、僕は機械仕掛けじゃあないぞ──いや、別に待ってない。今出たところだし。」
「そうですか。いやはや、こんな見ず知らずの一人の後輩如きにお気遣い頂けるとは、先輩はやはりお優しいですねえ。」
なんだこいつ・・・調子の良いやつめ。
朝は狭量って言ってたのにな。
「先輩はやはりおやさいですねえ。」
ちょっと待て。
おやさい?
『おやさしい』じゃなくて、『おやさい』?
お野菜?
「ふふふ。前菜の先輩、と言ったところですかねえ──あはは。」
いや。
上手くないし。
「うまくない?それはお野菜がですか?いけませんよ、好き嫌いは良くありません。」
めっ、と幼い子供に言うように僕の頭をぽすんと軽く叩く暗望。
うざっ。
「君のボケが上手くないって言ったんだ、敬愛すべき先輩のことを前菜とか言ってんじゃねえ!僕も君もこの話では主要登場人物なんだよ、メインディッシュなんだよ!」
「それはまた、嬉しいことを仰いますね──。」
そんな余裕のある会話を交わしていたものの、電車を降りたあたりで、暗望の表情が一変する。
「ん。むむむ。
おーっと、そろそろ悠長にはしていられません。先輩、なるべく急ぎ足で帰りましょう。」
へらへらとしたその表情に変化といったほどの変化はないけれど、瞳の奥が笑っていない──何かを危惧するような、そんな眼差しだった。
「・・・わかった。急ごう、暗望。僕は事務所と家が近いから、一度荷物を置いてから向かう。」
「私もご一緒してよろしいですか?」
「ダメだ。君みたいなのを見ると妹が発狂する。」
「なぜですか・・・・・・。分かりましたー。それじゃ、また後で。」
僕らはそこで別れ、互いに正反対の方向を歩み始めた。




