第5話 薄明層の商人
深度200mの縁を越えると、光の色が変わった。
頭上の真珠色が、少しずつ遠くなる。浅瀬の翠が、背中のほうへ置いていかれる。かわりに、四方から群青が満ちてくる。
【深度 -240m/薄明層】
昼と夜のあいだの海。
ウタは、僕の泡殻のすぐ横を泳いでいた。ときどき下をのぞきこんでは、首をかしげる。
「まだ、聞こえる?」
「ときどき。……遠くで、ぱくって」
灯りを食べる、何か。
確かめに行きたかった。けれど、僕のPRSは60だ。PRS 60のままでは、600mより下で泡殻が削られていく。もっと下へ行けば、膜ごと潰れる。
だから、狩った。
*
薄明層の魚は、浅瀬より手ごわかった。
光をまとわない魚が多い。群青の中から、輪郭だけがふっと現れる。ウタが先に見つけて、指をさす。僕が突く。
「34」「31」「36」
数字の泡が、暗い水の中で白く弾ける。浅瀬より、ひとつひとつがよく目立った。暗い場所では、光るものがきれいに見える。
夢の夜を、いくつか越えた。
昼間は東京で、ほどけかけた記憶をメモに書く。泡の数を数えるように、丸を並べる。夜は眠って、群青の中へ戻る。
泡貨は少しずつ貯まっていった。弾けて減るぶんより、稼ぐほうが多い。
【所持泡貨 1,000】
ちょうど、きりのいい数字になった夜だった。
深度580mの岩棚に、変な人がいた。
*
その人は、泡を売っていた。
背の高い、ひょろりとした影だった。継ぎはぎだらけの長いコートを着て、肩から、いくつもの泡を風船みたいに束ねて浮かべている。泡の中には、それぞれ小さな光る品物が入っていた。
「おっ、兄ちゃん。ええとこ来たな」
関西の言葉だった。
「そこの嬢ちゃんも、いらっしゃい。今夜はええもん入っとるで」
頭上に、名札が浮かんでいる。
【カゲロウ】
ジョブの印は、泡沫師。
「何を売ってるんですか」
「なんでもや。光る石、潮の地図、ちょっと甘い泡。……で、兄ちゃんみたいな顔した人には、だいたいこれや」
カゲロウは、束の中から泡を一つ引き抜いた。
中に、淡い青の珠が入っている。
【耐圧の泡:PRS +10(60分)】
「下、行きたいんやろ。顔に書いてある」
図星だった。
「おいくらですか」
「1,000泡貨」
ちょうど、僕の全財産だった。
思わず笑ってしまった。こんなに出来すぎた値段があるだろうか。
「買います」
「まいど。……あ、ちょい待ち」
カゲロウは、僕の財布の表示をのぞきこんだ。
「兄ちゃん、今、なんぼ持っとる?」
「1,000ちょうど。……の、はず」
確かめる。
【所持泡貨 1,000 → 990】
目の前で、十枚弾けた。
ぱちぱちぱち、と、小さく、気の抜けた音で。
「……日付、変わったなあ」
カゲロウが、しみじみと言った。
1日に1%。夢の中の「1日」が、ちょうど今、終わったらしい。
「泡貨はな、貯めたらあかんのや。貯めとるあいだに、勝手に弾けよる」
ウタが、くすくす笑っていた。
「ルカの泡貨、弾けた」
「笑わないで」
カゲロウは腕を組んで、うーん、とうなった。
「10足らんな。しゃあない、ほな、まけといたる――」
そこで、声が止まった。
視界の隅で、時計が【2:30】に変わった。
一拍。
「……失礼しました。ええと、価格の変更は、規則でできないことになっていまして」
声は同じなのに、話し方が別人だった。丁寧で、少しだけ硬い。語尾を一つずつ確かめるように置いていく。
「ですが、990でも、構いません。お困りのようですので」
「え、あ、ありがとうございます」
「取引成立、ですね。またお越しください、銛の方」
カゲロウは、静かに笑って、泡を一つ僕に手渡した。笑い方まで、さっきと違った。
【耐圧の泡 を手に入れました】
【所持泡貨 990 → 0】
全財産が、きれいに消えた。
泡の表面に、小さな付箋が貼りついていた。英語の走り書きだった。
『Stay safe down there! ――T』
カゲロウの字には見えなかった。大阪弁の字でも、丁寧な字でもない。けれど、カゲロウ以外に、誰がこれを書くのだろう。
僕は、受けとった泡と、カゲロウの顔とを見くらべた。
同じ顔だ。同じ声だ。なのに、あの一拍を境に、中の人が入れ替わったみたいだった。
*
「なあ、ルカ」
ウタが、僕の袖を引いた。
「あの人の名前、なんて読むの?」
「カゲロウ、じゃない? カタカナで書いてある」
「ちがうよ。むずかしい漢字だよ。虫の字が、二つ」
見上げる。
【カゲロウ】
カタカナだった。
と思った瞬間、文字が切り替わった。
【蜉蝣】
そしてまた、切り替わる。
【KAGEROU】
【カゲロウ】
三つの表記が、順番に入れ替わっていく。時計の秒針みたいに、決まった間隔で。
「今、カタカナに見えた?」
「ううん。ずっと、虫の字。もぞもぞ動いてる」
名札は、見る人に合わせて描かれるものだ。ウタには、その宛先がないのかもしれない。描かれる前の生のままの何かが、彼女には見えているのだろうか。
僕は、ミズハさんの名前を思い出していた。書きこみのたびに、一文字ずつ、にじむように変わっていった名前。
カゲロウの揺れ方は、あれとは違う。
あちらは、ゆっくり何かに侵されていくような変わり方だった。こちらは、三つの決まった姿が、規則正しく交代している。入れ替わるたびに、どれもくっきりと、正しい形をしている。
壊れているのではない。もともと、三つあるのだ。
……たぶん。
「お客さまの名札、珍しいですね」
カゲロウが、僕の頭上を見ていた。
「『???』というのは、初めて見ました」
「直し方、知りませんか」
「すみません、存じません。……でも、謎の方、というのも、素敵だと思いますよ」
慰めになっているのかいないのか、分からなかった。
*
別れぎわに、カゲロウは岩棚に腰を下ろした。
「〈灯会〉は、ご存じですか」
「ともしびかい?」
「ギルドです。ギルドといっても、リーダーはいません。入るのも出るのも自由で、会費もありません」
「それ、何をするギルドなんですか」
「決まりは、ひとつだけです」
カゲロウは、指を一本立てた。
「破泡した仲間を、廃教会で待つこと」
泡が割れたら、ダイバーは、近くの沈んだ教会で目を覚ます。そこまでは、灯台の声に聞いた。
「それだけ?」
「それだけです。でも、それがいいんです。泡が割れて、一人で目を覚ますのは、けっこうさびしいものですから」
カゲロウは、群青の上のほうを見上げた。
「八百メートルあたりの礼拝堂に、Lv99のおばあさまがいらっしゃいます。知らない誰かの破泡でも、ずっと待っていてくださる。わたしたちも、何度迎えていただいたか」
わたしたち、と言った。
一人なのに。
訊こうとしたときには、カゲロウはもう立ちあがっていた。
「それでは、また。泡貨は、貯めずに使ってくださいね」
継ぎはぎのコートと、泡の束が、群青の中へ遠ざかっていく。名札が、カゲロウ、蜉蝣、KAGEROU、と、規則正しく瞬きながら。
*
耐圧の泡を、胸の前で割った。
青い光が、泡殻の膜に染みこんでいく。膜が、ほんの少しだけ厚くなった気がした。
【PRS 60 → 70(残り 60:00)】
700mまでは、削られずに潜れる。
僕たちは、潜った。
【深度 -650m】
【深度 -700m】
ここから下は、泡殻が削れる。けれど、獲物はもう少し下にいる。群青の底で、大きな影がゆっくり回っていた。
さらに、80m。
【深度 -780m】
泡殻が、きしんだ。
【圧損 −4/分】
HPのゲージが、ゆっくりと痩せはじめる。一分ごとに、4。
この深さに必要なPRSは78。僕のは70。足りないぶんの、半分ずつ。
分かりやすい、と思った。足りないものが、そのまま痛みになる。
「ルカ、へってる」
「うん。急ごう」
減っていくHPを横目に、突いた。
「41」「38」「CRITICAL 60」
この深さの魚は、経験値が重い。圧損のぶんを差し引いても、浅いところの何倍も稼げる。
耐圧の泡の残り時間が、一秒ずつ減っていく。HPが、一分ごとに4ずつ減っていく。数字が二つ、並んで流れていく。
残り時間が【04:12】を指したとき、それは来た。
【LEVEL UP!】×3 Lv 5 → Lv 8
PRS 70 → 100
ファンファーレが、群青の中に金色の泡を散らす。
圧損の表示が、ふっと消えた。この深さに要るのは78。もう、足りている。
四分と十二秒後、胸の前で、耐圧の泡の最後の光が弾けた。役目を終えたのを知っていたみたいに。
【PRS 100 → 90】
泡が切れても、90。900mまでは、削られずに潜れる。
残っていたのは、時計の数字が【00:00】になった空っぽの膜だけだった。
僕は、その膜が群青に溶けるのを見送った。990泡貨の、六十分。悪くない買い物だった。
*
そのとき、低い鐘のような音が、海全体に響いた。
僕だけにではない。周りにいるすべてのダイバーに、同時に。
群青の水が、一瞬、琥珀色に染まった。
ウタが、僕の泡殻にしがみついた。衣の欠片が、ひとつ残らず明滅している。
視界の中央に、文字が浮かんだ。
【告知:深度 -800m 〈灯喰い〉が祭壇の灯りを占拠中】
【次の灯り:案内役#07】




