第92章:帝都の宿屋にて、予期せぬ「ご夫婦」判定
カトウ商事の帝都本社が鎮座する街は、商事の威光と肥大化した利権をそのまま体現したような、煌びやかで騒がしい場所だった。空には物資を運ぶ大型ドローンがひっきりなしに飛び交い、石畳の通りには利殖の熱に浮かされた商人や労働者たちの怒号が響いている。
長旅の砂埃を払うため、俺とアリスは通り沿いに建つ一際立派な宿屋のカウンターへと向かった。
「すまない、部屋を頼む。……2人だから2部屋だな」
俺がそう言いかけた時、帳場にいた主人はニヤリと厭らしい笑みを浮かべ、カウンターの下から鈍く光る真鍮の鍵を「1つだけ」差し出してきた。
「へえ、初々しいお2人さんだねぇ。今ちょうど帝都キャンペーン中でね。『愛の絆を深める極上スイート』、一室空いてるよ。奥様への特別サービス、お代は据え置きだ!」
「「奥様……?」」
俺とアリスの声が綺麗に重なった。
固まる俺。頭の中を「夫婦ではない、これは戦略的共同体であって……」という言い訳が猛スピードで駆け巡る。しかし、主人はそんな思考など意に介さず、俺の手に鍵を強引に押し付けた。
「ささ、冷めないうちに! 仲良く幸せになっておくれよ!」
背中をどんと押され、俺はアリスと共に階段を上る羽目になった。
扉を開けると、そこには花びらが散りばめられた巨大なダブルベッドと、何故か置いてあるシャンパングラス。……商事は現場の安全管理を削るくせに、こういう無駄なホスピタリティにばかり予算を割くのか。
「ねえ、サトオ」
後ろから声をかけられ振り返ると、アリスが頬を紅潮させ、ベッドの上で跳ねていた。彼女の顔には、先ほどまでの張り詰めた緊張感は微塵もない。
「やったじゃない、キャンペーン! 私たち、奥様ですって! あはは、最高!」
「いや、違うだろ。これはシステム上の誤認というか、カトウ商事の悪習が引き起こした……」
「いいじゃない! ほら見て、この部屋、お風呂までついてるわよ! 荒野の泥も旅の汗も、すっきり流せるわ!」
アリスは完全に調子に乗っていた。あろうことか、俺の肩をバシバシと叩き、シャンパングラスを掲げて「乾杯!」と叫ぶ。
「これで私たちも『中央物流ターミナル』に潜入する最強の夫婦ね! まずは明日の作戦会議の前に、この甘いお菓子を2人で分け合いましょうよ!」
「……おい、アリス。調子に乗るな。俺たちはあくまで……」
「はいはい、わかってるわよ『戦略的共同体』様。でもね、今夜くらいはいいじゃない。神々を倒す前の、せめてもの晩餐会よ!」
彼女はそう言うと、ベッドに大の字になって笑い転げた。
意識の深層で待機している02、03、10の気配が、呆れたように、あるいはどこか温かい沈黙を保っているのが伝わってくる。……まあ、いいか。明日になれば、この街を震わせる「夫婦」へと変わるのだから。
俺は息をつき、極上スイートのソファに深く腰を下ろした。
だが、ただ浮かれて眠る気にはなれなかった。
アリスがグラスを空けて静かに息を整え始めた頃、俺は千里眼を全開にし、窓から帝都の夜景を見下ろしていた。
千里眼の知覚が宿屋の壁を透かし、さらに数キロ先の「中央物流ターミナル」の地下構造を網膜に焼き付ける。
「……見つけた」
呟きに、アリスがグラスを置いて俺の背後に回った。彼女の無邪気な表情が、一瞬で鋭い術者の顔に戻る。
「04と05の気配?」
「ああ。ターミナルの地下、旧時代の動力炉区画だ。あの区画の周囲だけ、神々の監視網から巧妙に隠蔽されている。だが、隠し方がかつての俺の手口そのものだ」
俺は腰からハンマーを外し、テーブルの上に置いた。
それから、先ほど宿屋の主人から押し付けられた真鍮の鍵を取り上げる。
「アリス、さっきの『キャンペーン』の鍵……魔力を通してみろ」
アリスが不思議そうに鍵を手に取り、繊細に魔力を流し込む。すると、真鍮の表面が弾けるように剥がれ落ち、中から青白い魔力回路図が空間に展開された。
「これ……!」
「04と05の隠し拠点のゲートキーだ。商事の連中は、キャンペーンという名目で、あえて俺たちを『管理網の特定ルート』へ誘導しようとしていたらしい」
罠だ。それも、最高級の。
カトウ商事は、俺たちがこの街に来ることを見越していたのか、あるいは、俺たちが「主」として戻ってきたことを既に察知しているのか。
「……罠なら、踏み抜くしかないわね」
アリスが不敵に笑う。彼女の瞳には、かつての弱気な光はなく、管理者を食い荒らそうとする光が宿っている。
「04の『物流掌握』と05の『存在抹消』。この2つを手に入れれば、私たちはこの都市そのものを影に隠すことができる」
俺は立ち上がり、鍵を握りつぶすようにして回路図を脳裏に刻み込んだ。
「よし。明日の朝、宿を出る。だが、正面からは行かない。物流ターミナルの『死角』から、物流そのものに擬態して侵入する」
「夫婦ごっこはおしまいね。ここからは、神々と商事の喉元を狙う暗殺者として動くわ」
アリスがハンマーを俺に手渡した。彼女の肌の温もりが、まだ手に残っている。
甘い極上スイートの空気は、戦いの冷徹な緊張感へと塗り替えられた。
帝都の眠らない光が、遠くで不吉に明滅している。
俺たちがかつて作った「管理の要」へ。今、その心臓を止めるための計画が、夜の帳の中で完成した。
◇
【擬態する暗殺者、物流の深淵へ】
夜明け前、帝都の空は物資運搬船が吐き出す重苦しい排気ガスと、工場街から立ち上る煤煙で濁った灰色に染まっていた。
陽光すら届かぬ薄暗がりの中で、街は巨大な歯車のように規則正しい唸りを上げている。俺とアリスは、宿屋のスイートルームに残された甘い罠を背に、物流ターミナルへと向かう作業員たちの無機質な雑踏に紛れ込んでいた。
「……侵入ルートの照合は済んだわ。中央ターミナルの第3ハブ、コンテナ輸送の自動搬送ラインが、最下層の旧動力炉区画へ繋がる唯一の動線よ」
アリスが俺の外套の袖を軽く引き、息を潜めて囁く。その瞳には昨夜の浮かれた気配はなく、冷徹な術者としての光が宿っていた。
昨晩、真鍮の鍵から展開された回路図は、既に彼女の脳裏に克明な地図として刻まれている。力任せの強行突破ではなく、「物流という巨大な血流」そのものと同化し、監視網のデータベースにノイズとしてすら認識させない完全な擬態潜入だ。
ターミナルの巨大な搬入門の前では、数機の警備ドローンが鋭い赤色の走査線を地面に走らせながら低空を滑空していた。
あの探知網に一端でも触れれば、即座に防衛機構が作動し、全方位から迎撃術式を叩き込まれる。
俺は意識を研ぎ澄まし、手に入れた千里眼を静かに起動させた。
視界の奥でドローンが放つ探知波の波形が、青や赤の色彩となって空間に浮かび上がる。波紋が重なり合い、わずかに生じる死角の隙間を見定め、俺は歩を進めた。
「10、02、03。……力を貸せ」
俺が胸の内で念じると、意識の深層に溶け込んでいた3つの魂が呼応した。
02が周囲の確率演算を微細に歪めて予期せぬ遭遇の芽を摘み、03の武の気迫が俺たちの存在感を周囲の鉄錆や廃棄物と同質の無機物へと塗り潰す。そして10が足元に薄い空間の膜を張り、靴音や衣擦れの音波を完全に吸収して消し去った。
俺たちは流れるように動き、自動搬送ラインを滑る巨大な貨物コンテナの底面、そのわずかな窪みへと吸い付くように身を滑り込ませた。
頭上を赤色走査線が通過していく。だが、02が探知機の内面回路へ送り込んだ「1分前の正常な走査記録」の残像が、機械の目を完璧に欺き続けていた。
もし術式の同期がコンマ数秒でも狂えば、即座に警報が鳴り響く。針の穴を通すような極限の緊張感の中、俺の腕に触れるアリスの指先から、小さく整った鼓動が伝わってきた。
「完璧ね。……誰も、私たちがここにいることすら気づいていない。神々の計算式に、私たちは存在しない空白として処理されているわ」
アリスが口元に不敵な笑みを浮かべる。
重機が唸りを上げ、レールを滑る無骨な金属音が空間を震わせる。巨大な生物の体内を巡る血液のように、規則正しく、そして無機質に流れる物流。
かつて俺自身が盆地を守るために構築した物流管理の論理が、今、侵入者となった俺たち自身を運んでいるという皮肉。神々も商事の幹部たちも、かつての設計主が自ら作った檻の死角を突いて戻ってくることなど、露ほども演算できていないはずだ。
やがて、コンテナの速度が緩やかに落ちていく。
鼻腔を突く冷気と、肌を刺すような異質の魔力が漂い始めた。旧動力炉区画――自動搬送ラインの終着点であり、旧時代の遺物が眠る完全な暗がりだ。
コンテナが完全に停止した。俺たちの目の前に、重厚な耐圧隔壁が立ちはだかっている。
そして、その門前に広がる濃密な影の中から、俺たちの到着を初めから確信していたかのように、2つの人影が音もなく滲み出てきた。
「……珍しいお客さんね。手ぶらで帰すわけにはいかないわよ、主」
影の奥から響いたのは、感情を削ぎ落とした、金属的な響きを帯びた女性の声。
04の『物流掌握』と、05の『存在抹消』。
あらゆる物理的な物資のベクトルを支配する力と、空間内の事象や存在そのものを認識から消去する権能。この2基を敵に回すということは、この鉄とコンテナに満ちた空間そのものが、丸ごと凶器となって襲いかかってくることを意味していた。
俺は腰のハンマーの柄を強く握り締め、コンテナの底から床へと音もなく着地した。
「アリス、10。俺が04の射線を引く。その隙に奴らの核へ術式座標を固定しろ。03、02、背後は任せたぞ!」
俺の声が地下空間に響き渡ると同時、04が細い両腕を前方に掲げた。
ガガガガッ! とけたたましい金属軋み音が鳴り響き、周囲にうずたかく積まれていた数十トンの貨物コンテナが一斉に浮上する。
物流という名の質量弾が、空気を圧縮しながら猛烈な速度で俺たちの頭上へ殺到した。
暗がりの中、存在を消し去る05の冷たい殺気が背後へと回り込む。
かつて自分が生み出した傑作たちを再びその手で解放するため、俺はハンマーを振り抜き、鉄の嵐の中へと地を蹴った。




