第82章:英雄の残滓、空間の亀裂
彼女の悲鳴が、茂みの奥から響いてくる。
迷う余地などなかった。俺は折れそうなほど震える足を地に着け、獣たちがひしめく闇の中へ身を投じた。
短剣を闇雲に振り回す。かつて数多の軍勢を一人で薙ぎ払った勇者の剣術など、今の俺にはない。ただの、泥にまみれたFランク冒険者の無様な抵抗だ。
視界の端に、アリスの姿が見えた。
不潔な泥に汚され、恐怖に歪んだ彼女の顔。その光景が脳髄に突き刺さる。俺は死に物狂いで彼女の方へ手を伸ばそうとした。
だが、その一歩は届かなかった。
背後から別のゴブリンの群れが飛びかかり、俺の四肢を力任せに地面へと押し付ける。
抑えつけられた視界の中で、彼女を汚す獣たちの姿が鮮明に映る。
自分自身が引き裂かれるような屈辱と絶望が、俺の理性を粉々に砕いた。
「やめろ……! 頼む、やめてくれッ!」
涙と鼻水にまみれ、俺は情けなく叫んだ。
かつての支配者はどこへ行った? 世界を救った英雄の面影はどこへ消えた? 今ここにいるのは、ただ一人の少女を守ることもできず、泥の中でわめき散らす無力なゴミだ。
「誰か……! 誰か助けてくれッ!」
誰に向けての叫びだったのか。この世界には、俺たちを救う神などいない。
ゴブリンの群れが、俺の絶望を嘲笑うようにアリスに群がる。
俺の手が、空を掴んで激しく暴れる。指先が、死にゆく者の最後のような虚無を描いた。
その時だった。
中指にはめていた、古錆びた指輪が、不意に熱を帯びる。
――ッ!
指輪が突き抜けるような輝きを放った。
空間が、まるで薄いガラスが割れるように軋み、爆ぜる。
天から地へと、巨大な「亀裂」が走った。
空が裂ける。
光でも闇でもない、ただ強大な質量がそこに現れ、現実という境界線を踏み越えてきた。
ゴブリンたちが悲鳴を上げて散り散りになる。
空間を裂き、そこに現れた「何者か」の影。
俺の意識が途切れる直前、その圧倒的な存在感が、森の空気を塗り替えていくのを確かに感じた。




