第42章:聖女の祈りと、冷徹なる食卓
第2部
商会長が項垂れ、広大な商会の裏側が俺たちの管理下に置かれたその日の夜。
俺たちは、商会が所有していた街外れの古びた倉庫を、「当面の拠点」として整備することにした。
「……信じられません。あんなに傲慢だった商会長が、サトオ様の言葉一つで……」
エレンが、積み上げられた廃棄在庫の山を指して呆然と呟く。
俺は手にしたハンマーで古びた壁の構造を叩き、強度の低い箇所を補強しながら答えた。
「弱みってのは、力ずくで殴るより、使い方一つで立派な『鍵』になるんだよ。……おいセリア、そっちの魔力遮断は上手くいってるか?」
「言われなくても。アンタの『情報偽装』がバレないように、この周囲だけ因果律を少し捻じ曲げておいたわ」
セリアが不機嫌そうに答えるが、その手つきは繊細だ。彼女が指先を動かすたび、倉庫全体が外界の干渉を受け付けない「聖域」へと書き換えられていく。
拠点の中は、まさに俺の理想郷の第一歩だった。
商会から強引に引き取った「湿気た種籾」は、俺の『鑑定』と『構造破壊』の技術で湿気を取り除き、保存状態を最適化してある。あとは適切な温度と湿度で寝かせれば、いずれ極上の米へと育つはずだ。
ふと見ると、クルスが分捕ってきた籾と塩の山に駆け寄り、何やら怪しい動きでバタついている。その隣ではエレンまでが、キラキラと何かを発している籾に手を合わせ、神妙な顔つきで祈りを捧げ始めていた。
その滑稽かつ真剣な姿に、俺は思わず苦笑する。
「……サトオ様」
エレンが、祈りを終えて近づいてくる。彼女は慣れない手つきで、商会から分捕ってきた上質な塩を小皿に分けていた。
「この塩、素晴らしいものですね……。なぜか見ているだけで、心が洗われるような……」
「ああ。……で、エレン。お前、さっきから祈ってばかりだが、何を願っていたんだ?」
俺が尋ねると、エレンは少し驚いた顔をして、それから優しく微笑んだ。
「はい。……このお塩が、サトオ様と皆様の身体を健やかに満たしてくれるように。そして、私たちがここで過ごす時間が、誰にも邪魔されない平和なものでありますようにと」
「……祈りの対象が食い物かよ。聖女としてはどうかと思うぞ」
「ふふっ。マサト様も仰っていました。『祈りとは、誰かの明日を願うことだ』と。……私の明日には、サトオ様が作ってくださる美味しいご飯がある。それだけで、祈る価値は十分にあるのです」
その無垢な言葉に、俺は少しだけ言葉に詰まった。
世界を救うだの、歴史を正すだのといった大層な目的ではなく、ただ「腹を満たす」という行為に聖なる意味を見出す。
……この聖女は、どこまでいっても俺の「隠遁生活」に毒されているらしい。
その時、クルスが肩の上でピシッと硬直し、倉庫の入り口の方を睨みつけた。
「……お客さんか。セリア」
「わかってるわ。……随分と熱心なことね、帝国のある貴族が放った密偵様」
セリアが闇の薄膜を指先で弾く。
倉庫の闇が鎌首をもたげ、入り口の扉の外に潜んでいた気配を、音もなく拘束した。
帝国貴族が、自身の権勢を誇示するために独断で放った監視の目だ。国の方針ですらない、ただの「個人の欲望」が俺の平穏を覗き見ようとしていた。
俺はハンマーを肩に担ぎ、冷めた笑みを浮かべる。
「さて。食事の前に、少しばかり『害虫』の駆除でもするか」
商会長を屈服させた次は、貴族の監視網か。
俺たちの平穏な生活への道は、どうやら泥沼を通り越して、修羅の道へと繋がっているらしい。
だが、腹が減っては戦はできん。
「おい、エレン。邪魔が入る前に、さっさと塩おにぎりだけでも作っておこうぜ」
「はい! 喜んで!」
俺は冷徹な眼差しを扉の外に向けながら、聖女と共に「平和な晩餐」の支度を始めた。
ベルンの夜は、まだ始まったばかりだ。




