第50話「この日、俺は"あの日の夢"への一歩を踏み出した」
それから数週間後――ついに、ジークの初出勤の日がやって来た。
まだ朝の光が柔らかい時間。
窓の外は淡く白んで、街がゆっくり目を覚ましはじめている。
玄関で靴を履き、身だしなみを整えるジークを、セレナが見送るように立っていた。
いつもより少し落ち着かない様子で、指先を胸元に添え――そして、ふわりと笑う。
「いってらっしゃい、あなた……ふふ」
自分で言っておきながら、"あなた"の響きがくすぐったい。
セレナは頬を赤らめ、視線をいったん逸らしてしまう。
「行ってきます」
ジークはその反応が愛おしくて、思わず彼女の髪を撫でた。
柔らかな黒髪が指の間をすり抜けて、ほんのりシャンプーの香りがする。
そして――自然な流れで、唇が重なる。
短くて、それでも胸の奥があたたかくなるキス。
名残惜しさを飲み込んで、ジークは扉を開けた。
玄関先には、すでにケインが待っていた。
制服姿のまま、壁にもたれて腕を組んでいる。
今日は初日だから、案内がてら一緒に出勤することになったのだ。
「兄弟で一緒にって……。小学生みたいだな」
ジークが冗談めかして言うと、ケインは肩をすくめて笑う。
自分一人で大丈夫だとジークは言ったのだが、ケインがどうしてもというので、初出勤は一緒に行くことになった。
「はは、そんなこと言ってるけど、行ったら絶対におれと一緒でよかったって言うぜ? 兄ちゃんが想像してる10倍は広くて、複雑だからな」
(10倍って……どんな迷宮だよ)
ジークは内心ツッコミつつ、ケインの言葉を信じてついていくことにする。
二人は駅へ向かって歩きながら、自然と会話が弾んだ。
朝の空気はひんやりしていて、息を吐くたび少し白い。
「ようやく、この日が来たか。セレナさんとの結婚式も決まってやる気満々だろうけど、張り切りすぎて空回りしないようにな兄ちゃん」
「ああ、わかってるよ。セレナを幸せにするって誓ったからな」
セレナとの結婚が決まってからというもの、ジークのやる気は人一倍だった。
それはケインやアミも知るところだ。
ジークのいつになく真剣な横顔に、ケインは満足そうに笑うのだった。
駅からは転移装置を使って、一瞬で世界政府のあるセントラルフィールドに移動する。
出勤時間は10分程度。
転移装置を使わない場合は、陸路と海路を使って1週間以上の旅をしなくてはならない。
世界政府の職員が、出退勤するときのみ使用を許されているため、ジークにとっては初めての体験だった。
改札を抜け、専用の転送ゲートへ向かう。
人の流れはスムーズで、係員の誘導も無駄がない。
ゲート前に立つと、空気がわずかに震えるような感覚がした。
淡い光が視界の端をなぞり――
次の瞬間。
「ほんとに一瞬なんだな。……って、うおっ! テ、テレビで見るより、広くて大きな町だな……」
セントラルフィールドの駅に到着したジークは、反射的に辺りを見回して感嘆の声を上げる。
石畳の広い通路。
天井の高い構内。
行き交う人々の量も、服装も、どこか“世界の中心”らしい洗練がある。
「だろ? で、世界政府の庁舎はこっちな」
ケインが軽く手で示す先。
人の流れに乗りながら、二人は歩き出した。
そして視界が開けた瞬間、ジークは思わず足を止めた。
「で、でけぇ……。これ、ほんとに職場か……? 1つの大都市じゃないか……」
目の前に広がるのは、巨大な建造物。
建物というより、要塞――いや、もはや“都市”だった。
空に向かってそびえる壁面が、朝の光を反射して眩しい。
「ここが世界政府、世界の中心だ」
ケインはそう言うと、当たり前のように前へ進んでいく。
ジークはその背中を追いながら、胸の奥がじんわり熱くなるのを感じていた。
(……俺、本当にここに立ってるんだ)
二人は受付で手続きを済ませた後、エレベーターへ向かう。
通路は広く、案内表示も多いのに、それでも迷いそうなほど複雑だ。
「はは……。ケイン、謝っとくぜ。お前の言う通り、お前が一緒でよかったわ……」
辺りをキョロキョロ見ながら、ジークは苦笑いを浮かべる。
「だろ? この職場、マジで広いから慣れるまで大変だと思うぜ?」
エレベーターの前に立つと、ケインはボタンを押す。
後ろから次々と人がやって来る。
乗り遅れたら、たしかに大変そうだ。
「兄ちゃんたち入社式参加者は、120階だったな。おれは79階だから途中でお別れだな。頑張れよ、兄ちゃん!」
エレベーターに乗ったケインは、ジークの肩に手を置く。
軽い力なのに、妙に安心する。
「ああ、サンキューケイン」
エレベーターは静かに動き出し、耳が少しだけ詰まる感覚がした。
79階に着くとケインは降りていく。
「じゃあな!」
その声が扉に吸い込まれ――ジークは一人になった。
(……よし)
深呼吸して、120階へ到着するのを待つ。
120階。
扉が開いた先には、長い通路が伸びていた。
左右には部屋がびっしり並び、扉の数だけで目がくらみそうだ。
一つの階につき、100室以上あるらしい。
所々に置かれた案内板を頼りに進み、
「入社式待合室」と書かれた部屋に辿り着いたジークは、そこでしばらく待機する。
(うわぁ……人がたくさんだ……。この人たちみんな同僚か……)
胸の奥がそわそわする。
さすがのジークも緊張を隠せなかった――その時。
「ジークさん! やっぱりジークさんだ!」
弾む声が飛んできた。
振り返ると、そこにいたのはセナ・ハヅキ。
そして、その後ろに――ハンク・バートンとエルマ・オールビー。
最終試験を一緒のチームだった三人だ。
「セナちゃん! ハンクに、エルマさん! み、みんなも合格して……よかったぁ!!」
ジークは、周囲の新入社員が思わず振り返るほどの声で喜びを露にした。
そのまま勢いで三人を抱き寄せ、円陣みたいにぎゅっと集まる。
「よっしゃあ! 3人なら大丈夫だと思ってたけど、ほんとに全員無事合格して同僚になれるなんてな! いやー、マジで嬉しいよ! これからよろしくな!!」
「ちょ……ジークさん……! ……はい! 本当に嬉しいです」
セナは驚きつつも、満更でもない様子だった。
「はは、ジークってば。だけど僕も嬉しいよ。他の課だからあまり会わないかもしれないけど、僕たちは同期なんだからね」
「あっはは! うん、ほんと嬉しい! 誰1人欠けて欲しくなかったから! これから頑張ろうね!」
ハンクとエルマも、それぞれジークに言葉を掛ける。
こうして最終試験を通して絆を深めた四人は全員が合格して、夢へのスタートラインに立つ。
ジークは国防省オラクル・ナイツ課、セナは国防省エージェント課に所属するため、顔を合わせる機会は多いだろう。
ハンクは国土交通省交通課、エルマは財務省財務課に配属されるため、仕事ではあまり関わる機会はないかもしれないが、信頼できる同期同士仲良くやれる。
そんなやり取りをしていると、部屋に一人の男が入ってきた。
空気がすっと引き締まる。
全員が自然と姿勢を正した。
男は新入社員たちに向かって声を掛ける。
「皆さま、お疲れ様です。これより世界政府入社式を執り行います。本日はご参加いただき、誠にありがとうございます」
「あ……始まるみたいだな」
ジークの言葉に、三人もうなずいた。
こうして世界政府の入社式が始まる。
「国防省オラクル・ナイツ課、ジーク・ハワード」
「はい!」
点呼に元気よく返事するジーク。
胸の奥には、ようやくこの日が来たという喜びと、未知の世界へ踏み込む不安が入り交じっていた。
それでも――喜びの方がずっと大きい。
新入社員代表挨拶は、エルマが担当することになった。
弟であるケインが昨年挨拶したこともあって、そのことを知る人たちからは、ジークが悔しい思いをしているのではないかと思われていた。
だが当の彼は、全く気にしていなかった。
むしろ――仲のいいエルマの挨拶が上手くいくように、と願っていた。
エルマは立派に新入社員挨拶を終えた。
(うん……エルマさんの挨拶、去年のケインよりよかったかもな)
去年のケインの挨拶は堂々としていて、ジークが涙を流すくらいだった。
だがエルマの挨拶には、彼女自身の強さが感じられた。
エルマが挨拶を終えると、その後は各省に分かれてオリエンテーションが始まる。
「じゃあね。ジーク、セナ、エルマさん。それぞれ仕事頑張ろうな!」
「はぁ~、代表挨拶緊張したぁ~! ジークさん、セナちゃん、ハンクさん。また近いうちに集まろうね!」
ハンクとエルマは、それぞれの省でのオリエンテーションを受けるために、二人から離れていく。
ジークとセナは配属される課こそ違うが、同じ国防省であるため二人で指定された階へ向かう。
通路を歩きながら、ジークはふと気になって尋ねた。
「セナちゃん、やっぱり国防省なんだ。ナナに反対されなかった?」
「あはは……反対されました。もっと安全な内職勤務の省にしろって」
セナは苦笑しながら答える。
「でも、私は身体的に優れていましたし、自分の強みを活かせるのは国防省だと思いました」
セナの生い立ちを聞いたことがあったので、ジークは納得してうなずく。
「そっか……でも本当によかったよ。セナちゃんなら国防省でもきっと上手くやれるさ!」
「ありがとうございます! あ、ここが指定場所、ですよね」
話していると、二人の配属先である国防省の研修室に到着したようだ。
扉の前で、ジークは小さく息を吸う。
ここから先が、“夢の続き”であり――“本当の始まり”。
(よし。行くぞ)
そしてジークは、セナと並んで扉へ手を伸ばした。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
これにて第一部完結です。




