第37話「仕事の終わり、2人きりの一杯」
お店の前に立つジーク。
夜明け前の空気はひんやりしていて、吐く息がうっすら白い。
看板灯の淡い光が、路地の石畳をぼんやり照らしていた。
いつもなら、迷わずドアを開ける。
けれど今日は――昨夜の“余韻”がまだ胸に残っていて、ほんの少しだけ手が止まる。
(いや、昨日会ったばかりだし。緊張とか別に……)
自分に言い聞かせるように小さく呟き、ジークはドアノブを握った。
金属の冷たさが掌に伝わる。
そのまま、えいっと勢いをつけるように扉を開けた。
「おはようございまーす!」
鈴の音が、ちりん――と軽やかに鳴る。
店内には、まだ開店前の静けさが満ちていて、磨いたグラスの匂いと、木のカウンターの落ち着いた香りがした。
カウンターにはセレナが立っていて、すでに開店準備を始めていた。
ボトルの位置を整え、布でカウンターを拭き上げる手つきが、いつも通り綺麗だ。
「おはようございます、ジークくん。昨日はありがとうね」
彼女はいつものように微笑んで出迎え、ジークもいつも通りの笑顔で返す。
――返そうとしたのに、昨日の笑顔が一瞬重なって、胸がきゅっとなる。
「いえ、こちらこそ。すごく楽しかったです!」
声はいつも通り。
でも心臓は、いつもよりちょっと速い。
2人はいつものような挨拶を交わし、そのまま開店準備を進めていく。
グラスを並べ、氷の補充をして、軽い清掃を回す。
作業の音が小さく響くたび、店が“起きていく”感じがした。
「ふふ、今日も昨日と同じ髪型なのね。うん、やっぱりそっちの方が似合うわ」
そう言ってセレナは嬉しそうに微笑む。
昨日のデートに引き続き、ジークはしっかりと髪型をセットしてきた。
ジークは心の中で、誰にも見えないガッツポーズを決める。
(よし、この髪型でいこう!)
少し照れ臭そうに笑いながら、ジークは問いかける。
言葉にするのは恥ずかしいのに、止められない。
「セレナさんはいつも通り髪を束ねてるんですね。仕事をスマートにこなすお姉さんって感じで素敵です! あ、昨日の髪を下ろしてるのも、可愛いくて好きです!」
褒めた瞬間、自分の心臓が跳ねたのがわかった。
(言い切った…俺…!)
彼女は少し照れたように微笑むと、自分の髪の毛を手ですくうようにして答える。
指先が髪を滑る動きが、やけに大人っぽく見える。
「そ、そう? ありがとう。昨日も褒めてもらったけど……やっぱりすごく嬉しいな」
その声が柔らかい。
ジークは喉の奥が熱くなるのを誤魔化すように、手元の作業に視線を落とした。
そしてセレナは、いたずらっぽく笑いながらこう続けた。
「……ジークくんはホントに褒め上手ね」
ジークが完全に固まっているなか、セレナはカウンターから出て商品棚の整頓を始めた。
瓶のラベルを揃える横顔が、朝の光に少しだけ柔らかく見える。
「そうだジークくん。嫌じゃなかったらでいいんだけどね。今日からお店を閉めたあとに、私の作ったカクテルを1杯か2杯一緒に飲んでくれたら嬉しいなって……。もちろん残業代はしっかり払うから」
セレナは恥ずかしそうに、それでいて少し期待を込めた表情でジークを見つめる。
店内の静けさの中で、その視線だけがやけに近い。
突然のお誘いに少し驚きつつも、ジークは笑顔でこう返す。
「え? そんなのお安い御用ですよ! セレナさんのカクテルを飲めるなんて楽しみです!」
するとセレナは嬉しそうに微笑んだ。
ほっとしたように、ほんの少し肩の力が抜けるのがわかる。
「よかったぁ……! 休みの日も自分で新しい味を研究してるんだけど、自分で味見するだけじゃ限界があってね。やっぱり誰かに飲んでもらって感想を言ってもらった方が、次に作る参考になるから……」
セレナは少しだけ申し訳なさそうな顔をすると、こう続けた。
「あ……でも本当に無理しなくていいからね? ジークくんだって試験勉強があるんだから、無理に付き合わせるのも申し訳ないし……」
そんな彼女の言葉をジークは遮る。
迷いなく、まっすぐに。
「いえ! このお店のためにもセレナさんのためにもなると思うので、こちらこそぜひ協力させてください!」
ジークは、セレナの思いに共感していた。
自分の夢のために努力するのと同じように、彼女も“自分の一杯”のために努力している。
その姿が、ジークは好きだった。
「……ありがとう。そう言ってもらえるとほんとに嬉しい!」
2人はお互いに微笑み合うのだった……。
そんな会話を交わした後、開店準備を終えていつものように仕事を開始する2人。
扉を開け、灯りを整え、最初のグラスを並べる。
店内に“営業の空気”が満ちていく。
「さて、今日も頑張りましょうね」
「はい!」
1日の仕事を終えた2人は、約束通り一緒にカクテルを楽しむことにした。
閉店後の店内は、昼とは違う静けさがある。
椅子を上げ、最後の拭き上げを終えたカウンターに、二人だけの時間が落ちてくる。
「はいどうぞ♪ まずは『カンパリオレンジ』よ」
そう言ってセレナはグラスに入ったカクテルをジークに差し出す。
オレンジ色の液体が、店の光を受けてきらりと揺れた。
「ありがとうございます! ……うん、美味しいです! ほのかに甘くてスッキリしてますね!」
ジークはグラスに入ったオレンジ色の液体を飲み干したあと、笑顔でそう答えた。
その反応を見て、セレナの表情がぱっと明るくなる。
「うふふ、良かった。私も一杯いただくわね」
そう言ってセレナもグラスにお酒を注ぐと、2人は軽くグラスを掲げて乾杯した。
氷が、ちん、と小さく鳴る。
「あ、そういえばセレナさん。この間いただいたキールっていうカクテルの言葉の意味、調べましたよ!」
ジークはセレナのカクテルを飲みつつ、先日教えてもらったキールの意味を調べたことを報告する。
「あら、そうなんだ。……それで、どう思った?」
セレナは期待と不安が入り混じった表情でジークを見つめる。
その“間”に、昨日の自撮りの距離感がふっと蘇ってしまって、ジークの胸がどきんと跳ねる。
「……はい。俺も同じ気持ちです!」
ジークがそう伝えると、彼女は嬉しそうに微笑む。
その笑顔が、どこか安心したように柔らかい。
「よかった……!」
2人は見つめ合って微笑み合う。
言葉がなくても、空気が温かい。
「よし、じゃあもう少し飲みましょう!」
ジークはグラスのお酒を一気に飲み干すと、新たに継ぎ足してもらった。
勢いがよすぎて、セレナがくすっと笑う。
「ふふふ……もう♪ あまり急ぎ過ぎると潰れちゃうわよ? ゆっくり飲んで、ね?」
そんなセレナの言葉にジークも笑顔でこう答えるのだった。
「そうですね! 2人で楽しみましょう」
そうして2人は1日の心地よい疲労を感じながら甘いカクテルに酔い、楽しいひと時を過ごすのだった……。
2人は、いつものようにそれぞれの家へと通じる分かれ道へと差し掛かる。
空はまだ暗い。
街灯の光が道を薄く照らし、遠くで新聞配達の自転車の音が聞こえた。
ジークがセレナを呼び止めた。
「セレナさん、今日も昨日みたいに家の前まで送っていきますよ。明け方でまだ暗いし危ないですから」
セレナは少し驚いた表情をすると、嬉しそうに微笑む。
けれど、すぐに申し訳なさそうに視線を落とした。
「ありがとう。でもジークくんだって疲れてるのに……」
その心配を吹き飛ばすようにジークは笑顔でこう返す。
「大丈夫ですよ! 俺が送りたいんです! もう少しセレナさんと話したいので!」
そんな彼の言葉にセレナは照れて顔を赤くする。
肩をすくめるように小さく息を吐きながらも、口元は隠しきれない。
そんな反応が可愛らしく思えて、ジークまで赤くなった。
そして2人は、昨日と同じようにセレナの家まで一緒に歩くのだった。
ジークには悪いと思いつつ、セレナもまた、彼と2人で話す時間がもう少し続いて欲しいと願っていた。
「今日は本当に楽しかったです」
「うん! 私も!」
小さな声で笑い合いながら歩いていると、すぐにセレナの家に着く。
家の前に来るとジークは切り出した。
「それじゃあ俺はこれで失礼しますね」
そう言って帰ろうとするジークを見て、セレナは名残惜しそうに言う。
「あ……もう着いちゃったのね……」
彼女の言葉にジークも少し寂しそうな顔をするが、すぐに笑顔に戻って返した。
「そうですね……でも今夜また会えますからね!」
セレナも笑顔になって答える。
「ふふ、そうだね! 送ってくれてありがとう。ゆっくり休んでね」
「はい! それじゃ、また今夜!」
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