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第三二話 神の残滓

ロダンの緑色の手が金属の表面に触れると、箱が淡い光を放った。


鍵穴のない箱。


発見した時、クレアが力を込めても全く開く気配がなかったため、薄々普通の手段では開かないのだと思っていた。そして今、ロダンが箱に触れると蓋が音もなく持ち上がった。


中には、小さな結晶が一つ。


親指の先ほどの大きさで、透明とも乳白色ともつかない不思議な色をしている。微かに光を帯びているように見えるが、暗い祠の中では確信が持てない。


「これは——」


「チェルダロ様の力が結晶化したもんだ。人の言葉で言うなら『神の残滓』ってところか」

ロダンが結晶を摘み上げ、月明かりにかざした。透き通った表面の奥に、脈打つような光の揺らぎが見える。


「これはな、お前の家…ロス公爵家が何代もかけて受け継いできたものだ。」


「何のために?」


「本来の役目を果たすのに必要なものだ。お前たちロス家は代々チェルダロ様の目となって人の世界の歪みを視るって役目があったのは知ってるか?」


「イングラス王国の公爵家は、元々神の祭祀を取り仕切る家だったというのは知っています。当然、ロス家が運命神チェルダロ様を祀っていたことも」


「そう、フリード家は秩序の神サルタンを、オニール家は戦の神メイスをって具合だな」


「それで、歪みを視るってなんですか?」


「チェルダロ様はな、運命を大切にしている。そしてそれを超常の力で歪めるのを良しとなさらない。歪みを観測し、取り除くことを常に望まれている」


「その歪みって、一体なんなんですか?」


「神ってのはな、人が思ってるより人と大して変わらん。誰もみていなければ過干渉やえこひいきをすぐにする。偉大なチェルダロ様はそんな神々の中でもっとも高貴なお方だ。チェルダロ様がいらっしゃるから、人の世はバランスを保てているといっても過言ではない」


「……」


「つまり歪みってのは、色んな神様が人に干渉する事を指していて、それを止めさせたいのがチェルダロ様の望みって事であってる?」


クレアの言葉にロダンは頷いた。


「そう、お嬢ちゃんの解釈は間違っていない。そして今、神の力以外に、お前らにとって見過ごせない他の『歪み』があるはずだ」


「それは…劫魔ですか?」


「そうだ。ヴァイセンの使い魔どもだ。お前があったノヴァク公爵の皮を被ったヤツだけじゃない。このイングラス王国は中々病んでるぜ」


「その――ヴァイセンと劫魔ってなんなんですか?」


「ヴァイセンは、その昔に神々に並ぼうとした男だ。ヤツの力と存在は非常に危険なものだった。ゆえにチェルダロ様と神サルタン、そして女神モスによってノクスラントに封印された」


「チェルダロ様と秩序の神サルタンに、女神モス?」


「邪神モスのこと?」


「お嬢ちゃん、女神モスとそれだけ強く共鳴しているのに『邪神』呼ばわりはさすがに女神モスが気の毒さね」


「ロダン、僕たちも疑問だったんだ。神モスは嫉妬と欲望を司る邪神だって教わったけれど、それは嘘なのか?クレアのお父さん、ゴリアテさんが倒した劫魔がクレアの中の力をモスの力って言っていたんだ」


「女神モスが司るものは、嫉妬ではなく愛や慈しみ。欲望ではなく自由だ。邪神モスなんて呼ばれるようになったのは、ここ数百年のことさ」


「なんで、そんなねじ曲がっちゃったのよ?」


「力をもった奴が良からぬことを考えるとろくなことにならないとしか言えないな。ヴァイセンしかり、サルタンしかりだ」


ロダンは両手を挙げてお手上げだといったジェスチャーをした。


「サルタン、秩序の神サルタンも何かしたってこと?」


「それは……いずれ分かるだろうさ。神の残滓について話を戻すぞ。ルシアン、お前がこの力を受け取れ」


「どういう意味?」


「チェルダロ様の力の一端を、受け取れってことだ。お前の父ファーガスは善良な男だったが、神の力の器としては不十分だった。あいつ自身も分かっていたんだろう。だが、お前は違う。お前の魔眼は、こいつを受け入れる準備ができている」


 ルシアンは結晶を見つめた。


「受け入れるって、どうするんだ?」


「九年前と同じだ。お前の左目に入れる」


 クレアが小さく息を呑んだ。ルシアンも、七歳の時の痛みを思い出して身構える。


「何が変わるんだ?」


「今のお前の眼は、運命の分岐が視えるだろう。それは変わらない。だが、こいつを受け入れることで視えるものが増える」

 ロダンが結晶を掲げたまま続けた。


「人ならざる力——神だろうが劫魔だろうが、そういう力が通った場所には痕跡が残る。世界にとっての歪みだ。その歪みの形がはっきり視えるようになる」


「歪みの形……」


「例えば、劫魔が人間に化けていたとしても、中身の歪みは隠せない。お前の眼には視える。神の力が残った場所や物も同じだ。力の痕跡が視えるようになる」


それだけでも、途方もない力だとルシアンは思った。劫魔が姿を変えているという『ノヴァク公爵』を、今度は視ることができるかもしれない。


「そして視るだけじゃない」

ロダンが続けて言う。


「歪みに触れて、除くこともできる。チェルダロ様は世界のバランスを望まれている。本来あるべきでない力の歪みを正す——それがこの力の本質だ」


「除く?」


「例えば、劫魔の力で呪いや毒を受けた者がいたとする。その歪みを視て、触れて、取り除くことができる。ただし——」

ロダンの目が鋭くなった。


「万能じゃないぞ。相手が意識的に力を行使している場合、抗われれば除けない。お前の力を遥かに超える歪みに触れれば、逆にお前が壊れる。あくまで、歪められたものを正し、本来あるべきでない力を取り除く——それも、お前の手が届く範囲でだけの話だ」


「つまり、劫魔そのものを消すようなことは……」


「無理だ。あいつらは歪みの塊みたいなもんだ。丸ごと除くなんざ、チェルダロ様でも簡単じゃない。だが、部分的に——例えば劫魔が放った呪詛や、暴走した力の奔流を鎮めることはできる。力を使いこなせればの話だがな」

ふー、とロダンが長い息を吐く。 


「長話が過ぎたな。夜が明けちまう……。ルシアン、覚悟はいいか」

ロダンが、結晶をルシアンの左目の高さに持ち上げた。


「劫魔って存在に抗うにはこの力が必要なんだよな」


「ああ、そうだ」


「ちなみに、痛い?」


「痛いぞ。恐らく前以上にな」


「ちょっと、心の準備ができてないんだけど……」


七歳の時は何も分からず、突然ロダンに魔眼を突っ込まれた。

幼少の記憶だがあの時の目と頭が焼けるような痛みは今でもしっかり覚えている。


「ルシアン、震えてる?手を握っていてあげよっか?」

クレアの両手が躊躇うルシアンの手を包む。


「よし、いいぞ嬢ちゃん。もしこいつが暴れたらしっかりおさえこんでくれ」

そう言うとロダンの指が、結晶をルシアンの左目に押し当てた。


眼球の奥に異物が溶け込んでいく感覚。


瞬間——衝撃が頭蓋を貫いた。


灼熱のような痛み。恐らく自分は今、痛みで絶叫しているだろう。それすら知覚できない程耐え難い苦痛が絶え間なく襲いかかってくる。


歯を食いしばり、石床に頭を自ら叩きつける。

痛みで痛みがまぎれればいい……そんな事を考えていた。


クレアが「ルシアン!」と叫び、背中から腕を回してがっちりと拘束する。


数秒か、数十秒か、数時間か……どのくらい時間が経ったのかまるでわからない。

ただ、痛みが引き波のように引いていく感覚があった。


自分を強く抱きしめるクレアの腕の感触が分かる。

ルシアンは恐る恐る左目を開けた。


——世界が、少しだけ違って見えた。


祠の内部に、淡い光の筋が幾つも漂っている。壁に、天井に、祭壇に。薄い緑がかった光が、まるで水中の光のように揺らめいていた。


「ロダン、これは……」


「ここはチェルダロ様の聖域だ。神の力が長く留まった場所には、こうやって痕跡が残る。今のお前の眼に視えているのはそれだ」


緑青がかった光の軌跡、これがチェルダロの力の色なのだと、感覚で理解できた。


「慣れるまでは、視ようとしなくても勝手に視えることがある。そのうち、意識して切り替えられるようになる。焦るなよ」

ロダンの声は相変わらず素っ気なかったが、どこか労わるような響きがあった。


―――――――――――――――――

「もう一つ聞きたいんだけど」

話ながら、ルシアンはクレアに無理矢理座らされ、頭に包帯を巻かれている。

痛みのあまり何度も床にうちつけた額は派手に出血していたのだ。


ルシアンが懐から『銀色の腕輪』を取り出してロダンに見せる。

細い銀の輪に、精緻な紋様が刻まれている。


「これも隠し部屋にあった。たぶん魔道具だと思うんだけど——」

ロダンは腕輪を一瞥して、すぐに頷いた。


「これは、恐らくサーシャのものだろう。時の女神ナイアの力を感じる」


「母さんの……」


「サーシャはナイアを祀るオニール家の者だったからな——時の女神との共鳴が強かった。この腕輪にはその女神ナイアの力を感じる」


「どんな力があるか分かる?」


「悪いが俺にはわからんな。知りたければオニール公爵家に行って聞くのがいいだろうさ」

そういうと、ロダンは改めて銀の腕輪をみる。


「まあ、サーシャが身に着けているのを見たこともある。悪いものではないだろうから、お嬢ちゃんが身に着けていればいいんじゃないか?」

ロダンが言葉を切り、意味ありげにクレアを見た。


「ルシアンのお母さんのものを勝手に身に着けたりしたら、怒られないかな?」


「うん……俺はクレアが身に着けてくれると嬉しいかな。父さんが残してくれたチェルダロ様の力は俺が受け取ることができたからさ。母さんが残してくれた腕輪の方は大事な人に持っていてほしいかな」


クレアの表情が一瞬だけ揺れた。

何か言い返そうとして、言葉を探して、結局見つからなかったようだった。


「……ルシアンって、こういう時だけ妙にキザなことを言うよね」

少し唇を尖らせながら、クレアは腕輪を受け取った。銀の輪を左の手首に通す。細い腕に、紋様の刻まれた腕輪はよく似合った。


「小さかったらどうしようと思ったけど……ぴったり」

クレアが、腕輪を嵌めた手首をそっと撫でた。


「そろそろ出ろ。夜が明ける」

ロダンの声で現実に引き戻された。


「早く屋敷を出た方がいい。夜明けに動く連中が一番厄介だからな」


ルシアンとクレアは立ち上がった。


「ロダン。また来ることはできるかな?」


「祠がある限り、俺はここにいる」

ロダンが少しだけ間を置いた。


「お前の魔眼は、チェルダロ様を得て人の身には過ぎた力になった。振り回されないように、力を制御できるように努力しろよ」


「善処するよ」


「もう一つ。嬢ちゃん」


クレアが振り返る。


「お前の中の女神モスのことを知る為に、アイーダに行くんだろう?」


「なんで知ってるの?……って未来を見通す精霊様に聞くのは馬鹿よね」


「チェルダロ様は、女神モスの境遇を案じていらっしゃる。期待しているぜ」

クレアは一瞬驚いた顔をしたが、困ったような笑顔をうかべた。


「なんか、荷が重い話ね。でもこの力には何度も助けてもらっているから、私も善処するわ。何ができるか全く分からないけどね」


「それでいいさ、お前たちの選択の先にあるものが運命だ。決まっているようで決まっていない。逆に決まっていないようで、決まっている。自分の意志で選択し、最良だと思うものを掴めるように努力することだ」

チェルダロの眷属らしい言葉だった。


祠を出ると、東の空がうっすらと白み始めていた。庭の木々の隙間から、正門の見張りの松明がぼんやりと見える。交代の時間までは、まだ少し猶予があるはず。


来た時と同じように、クレアが先行して壁際の状況を確認し、ロープでルシアンを引き上げ、二人で堀の外へ降りた。


街へ戻る道すがら、ルシアンの左目は時折、視界の端に淡い光の粒を捉えた。世界に残る、何かの痕跡。まだ何が何だか分からない。ロダンの言う通り、慣れるには時間がかかりそうだ。


「ねえ」

クレアが、歩きながら言った。


「ロダン…さん?リーフェ村に行くことを知ってたね」


「そうだね。クレアのお母さんの故郷で、何かが分かるんだと思う」


「母さんのこと、か……」

クレアは白み始めた空を見ながら話す。


「前にも言ったけど、母さんのことほとんど覚えてないの。名前と、顔が少しと、優しかったっていう感覚だけ…なんだけど、今日ロダンさんの話を聞けて少し安心したな」


「女神モスの話?」


「そう、私が共鳴して力を借りている神様が嫉妬と欲望を司る邪神じゃなくて、愛と自由を司る女神だったって、聞けて良かった。愛と自由なんて私にぴったりじゃない?」

そう言うとクレアは嬉しそうに笑みをうかべた。


「じゃあ、愛情深いクレア様の故郷を目指して、国境を越えてリーフェ村に向かおうか」


ルシアンもいたずらめいた笑いを浮かべる。


二人の長い夜が明けようとしていた。

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