第三一話 祠の精霊
手紙を読み終えたクレアが、小さく、しかし長い息を吐いた。
「……整理するわよ」
隠し部屋の薄暗い空気の中、クレアの声だけが妙にはっきりと響いた。
「私たちが見たノヴァク公爵と、ネロス公爵は人間じゃない。ルシアンのお父さんの言葉を借りれば、魔族か、魔人か、悪魔か...中身が入れ替わった、と」
ルシアンは黙って頷いた。頭では分かっている。だが、言葉が出てこない。
「ノクスラントに封印された悪神がいて、そこから化け物が出てきている。それが——」
クレアの声が、一瞬だけ固くなった。
「劫魔。父さんを殺したとあのザルガってヤツと同じ......」
その言葉に、ルシアンはようやく顔を上げた。クレアの琥珀色の瞳は、怒りを湛えてはいたが、揺れてはいなかった。
ノクスラントで、クレアは既に『ソレ』と向き合っている。ザルガの言葉を聞き、ゴリアテの死を看取り、その上で立ち上がった。だからこそクレアは、今この手紙の内容をルシアンより冷静に受け止められているのだろう。
だがルシアンは違った。
ノヴァク公爵が人間ではない。
それは昨日、ヴァーレンの街で感じた本能的な拒絶と繋がる。
魔眼に痛みが走り開けられなかったこと。
クレアの力でも捉えられなかったこと。
あれが...人ではないものと対峙した反応だったと考えれば納得がいく。
父ファーガスが、恐らく命を賭けて書いた走り書きが、九年越しに真実を突きつけている。
だが、ルシアンの思考を最も強く揺さぶっていたのは、公爵の正体でも、封印の話でもなかった。
——母さんは、オニール公爵領に逃がした。
九年間、家族は全員死んだと思っていた。ルシアンにとって育ての親ともいえる傭兵団のゲイル団長もそう言っていた。屋敷は焼け落ち、父も母も灰になったのだと。
母が、生きているかもしれない。
ルシアンの母、サーシャ・オニール・ロスは、現オニール公爵、サライ・オニール公爵の妹だ。伯父であるサライ・オニールには幼少の頃に一度だけ会ったが兄妹仲は良かったように見えた。もちろん、幼少の記憶なので確信はないが。
戦火の中、もし自分と同じように逃げることができていれば、生きている可能性はある。
ただ、ロス領とオニール領はかなりの長旅になる。
自由都市サルタニアやネロス領を横断する必要がある上に、ネロス公爵が人ではないという父の言葉を見たた後だ。やはり可能性があるとしか言えない。
その可能性が、胸の奥で暴れている。
すぐにでもオニール領に走りたい衝動と、期待して裏切られることへの恐怖が、同時に渦を巻いていた。
「ルシアン」
クレアが、手紙をルシアンに返しながら言った。
「お母さんのこと、考えてるでしょ」
「…分かる?」
「そりゃ分かるわよ。あんた今、こどもみたいな顔してるし」
自覚はなかった。ルシアンは慌てて袖で目元を拭う。
「……ごめん」
「別に謝ることじゃないでしょ、私の方が散々恥ずかしいところみせてるし」
クレアは、ルシアンの肩にぽんと手を置いた。
「全部を今すぐ整理する必要はないと思う。でも、一つだけ確かなことがある」
「……何?」
「祠に行けば、分かることがある。ルシアンのお父さんがそう書いていたでしょ。なら、行こう」
簡潔で、迷いのない言葉。
ゴリアテが死んだとき、ルシアンがクレアの手を引いたように、今度はクレアがルシアンの背を押していた。
ルシアンは深く息を吸い、頷いた。
「そうだね。行こう」
手記と金属の箱を外套に包み、銀の腕輪を懐に入れた。
クレアが力を重い回転ドアを押し開けてルシアンに先に出るように促す。
「こういうの逆なんだけどな、ありがとう」
適材適所でしょ、とクレアが笑い返した。
――――――――――
祠は庭の奥にある。
以前、クレアがルシアン宛の手紙に書いた通り、蔦と背の高い草に覆われているが、破壊された形跡はない。幸いなことに祠の入口は正門の見張りからは死角になる位置だ。
まるで祠が自らの存在を隠すように植物が不自然に成長している。
もしかするとノヴァク兵は祠の存在を知らないかもしれない。
月明かりの下、石造りの小さな祠は入口の扉こそ朽ちかけているが、中に足を踏み入れると、外の荒廃が嘘のように空気が清澄だった。
九年ぶりの場所だ。
七歳の誕生日、一人で向かうように言われて恐る恐る入った祠。
あの日、全身が緑色でツルツル頭の、ゴブリンのような精霊に出会った。怖くはなかった。不思議と、安心したのを覚えている。
「…ロダン、いる?」
ルシアンが名を呼ぶと、祠の奥の空気が揺らいだ。
石の祭壇の影から、小柄な姿が現れる。
身の丈は子供ほど。全身が深い緑色で、頭には毛の一本もない。大きな目がルシアンを見上げた。
「—あのチビが、随分とでかくなったな」
九年ぶりの再会の第一声が、それだった。感動も感慨もない、素っ気ない声。
だが、ルシアンは思わず笑った。
「久しぶり、ロダン。貰った魔眼のお陰でなんとか生きてるよ。貰った時は痛かったけどね」
「当たり前だ、神の力を人の身に入れたんだからな。—で、そっちの嬢ちゃんは...」
ロダンの大きな目がクレアに向いた。数秒、じっと見つめる。
その目が僅かに細められた。
「…ほう。面白い嬢ちゃんだ」
「面白いって何よ」
クレアが眉をひそめたが、ロダンは答えず、視線をルシアンに戻した。
「俺は十七歳になったら来いと言ったはずだが、一年早いな」
「色々あったんだよ。この前はノクスラントの奥地に入って劫魔ってのと戦った。彼女...クレアの父、ゴリアテさんが命がけでザルガっていう劫魔は—倒してくれたけれど...」
ロダンは黙ってルシアンの言葉を聞いていた。驚いた様子はない。
「勿論知ってる。封印が揺らいでるのはこっちにも伝わる。力をもった劫魔、ザルガが消えたのも分かった」
「あと、父さんの手紙に書いてあったけど、ノヴァク公爵とネロス公爵も劫魔だと。そのノヴァク公爵は昨日見た。いや実際は魔眼で見る事ができなくて、ヤバいやつなのが分かったから直ぐに距離を置いたよ」
「よく無事だったな。ここからだと見えないものも多いが、ノヴァク公爵の中身はヴァイセンの眷属の中でも上位の存在だ」
ロダンは祭壇の上にひょいと飛び乗り、あぐらをかいた。
「まあ二人ともその辺に座れ。少し長い話になるぞ」
――――――――――
祭壇前の石床に腰を下ろしたルシアンとクレアにロダンが改めて口を開く。
「まず、お前の眼の話をする。九年前、俺はお前に『死にたくないか』と聞いた。覚えてるか」
「覚えてる。死にたくないですって答えたら、いきなり魔眼を入れられた」
「そうだ。あの時のお前にはああ言うしかなかった。七歳のガキに、運命がどうの、世界の歪みがどうのと言ったところで分かるわけがないからな」
「……運命?」
「お前は魔眼の力を『死の危険を視る力』だと思ってるだろう。間違いじゃない。だが、それは魔眼の一番浅いところだ」
ロダンの大きな目が、ルシアンの左目を真っ直ぐに見据えた。
「その眼の本質は、『運命の分岐を視る力』だ。この世にある全てのものは、無数の選択肢の中を生きている。だが、普通はそれが見えない。どの道を選んでも、選んだ後にしか結果は分からない。お前の眼は、その分岐を—選ぶ前に視ることができる」
ルシアンは息を呑んだ。
「死の危険が赤く見えるのは、それが一番分かりやすい分岐だからだ。『ここで右に避ければ生き残る、左に避ければ死ぬ』。お前はずっと、その選択を無意識にやってきた」
「じゃあ、他の人の危険が見えるようになったのも——」
「お前が視る範囲を意識して広げたからだ。自分だけじゃなく、他人の運命の分岐にも眼が届くようになった。これはお前自身の成長だ。眼が勝手に進化したわけじゃない」
ロダンの言い方は淡々としていたが、そこに僅かな肯定の色があった。
「人ならざるもの—神の力や、劫魔の力は、世界に歪みを生む。運命の分岐を視る眼は、その歪みにも強く反応する。お前が公爵を見て眼を開けられなくなったのは——」
「大きな歪みを見たから?」
「それもある。だが一番の理由は、お前がまだ未熟だからだ。眼に流れ込む情報を捌ききれなかった。歪みの象徴ともいえる存在を視界にいれて、その中でも上級の劫魔から害意を向けられて限界を超えた。あれを処理できるようになるかはお前次第だな」
ルシアンは左目に触れた。あの時の、眼球の奥から溢れるような痛みを思い出す。
「ロス家は代々、その眼を継いできた。チェルダロ様の力をもった魔眼を」
ロダンが続ける。
「お前の父、ファーガスも魔眼持ちだった。俺が授けた。あいつは魔力が少なくてな。眼の力がそこまで強くなかったから、封印の監視役としては十分だったが、それ以上のことはできなかった」
「父さんも……」
「お前の方が視える。これは良いことだが、視えすぎるというのは厄介でもある。お前の心がついていけない」
ロダンが、ちらりとクレアを見た。クレアは口を挟まず、静かに聞いている。
「もう一つ。お前、嬢ちゃんに初めて会った時、鮮やかな赤、緋色に見えただろう」
不意を突かれた。ルシアンは一瞬、言葉に詰まる。
「……なんで、それを」
「俺はチェルダロ様の眷属だ。お前の眼を通じて、大まかには分かる。それで、見えたんだろう」
「…見えた。死の血のような赤とは違う、鮮やかで綺麗な色だった—」
「それはチェルダロ様からのささやかなギフトだ。お前自身にとって望ましい出来事の兆し。運命の分岐の中で、良い方向に繋がる道が緋色に光る」
ルシアンは、クレアの方を見ることができなかった。
隣で、クレアが小さく「ふうん」と呟いた。感情の読めない声だった。
だが、横目で窺うと、クレアの耳がほんの少しだけ赤い。
「まあ、それについてはお前ら二人の問題だ。俺の知ったことじゃない」
ロダンが面倒くさそうに手を振る。
――――――――――
「ロダン」
ルシアンは外套の中から、金属の箱を取り出した。宝石箱ほどの大きさの、鍵穴のない箱。
「父さんの手記に、この箱は祠でロダンに開けてもらえと書いてあった」
ロダンの目が、箱を見た瞬間に鋭くなった。
「——ああ。それか」
祭壇から降り、ロダンが箱に手を伸ばす。
緑色の小さな手が、金属の表面に触れた。




