第20話:図書館の奥、誰も知らない“書かれていない本棚”
ある静かな朝だった。
空は晴れていて、カフェにはパンの匂いが漂っていて、
何ひとつ変わらない“いつもの日”になるはずだった。
けれど――
モグが、珍しく焦ったように走ってきたのだ。
「マスター。図書館の奥に、“棚”が、勝手に現れました」
“石の図書館”と呼ばれるそのフロアは、モグが管理している知の空間だ。
翻訳された古文書、石板、巻物、魔法陣の写しなどがきれいに収蔵されている。
だが、その一番奥の壁に、昨日まで存在しなかった“空白の本棚”が出現したという。
俺はすぐに現地へ向かった。
ティアとポヨもあとから合流した。
そこにあったのは、確かに“本棚”だった。
けれど――
棚には、何も置かれていなかった。
素材は不明。金属でも木でもない、どこか無機質な灰色の面。
段ごとに仕切られているが、埃も傷もなく、整然としている。
ポヨがきょとんとする。
「これ……誰かが作ったんですか? それとも、ダンジョンの自動生成……?」
モグが小さく首を振る。
「この棚だけ、魔力反応が完全に“ゼロ”です。……まるで、存在していないみたいに」
ティアが棚に手を近づける。
「……ねえ、これ。何かを“置けない棚”なんじゃないですか?」
俺は言葉に詰まった。
「置けない棚?」
ティアは続けた。
「“置くべきだったのに、置かれなかったもの”を、受け入れるための場所。
あるいは、“書かれなかった記録”のための、空白の祭壇みたいな」
しばらく沈黙が続いた。
ポヨがぽつりと言う。
「……じゃあここ、悲しい棚じゃないですか。
“なかったこと”にされた物語の墓場みたいで」
ティアは、でも微笑んだ。
「ううん。そうとも限らないと思う。
きっと、これは“これから書くため”の棚なんだと思います。
……まだ、書く勇気がないだけで」
その夜、ティアがそっと本を一冊、棚の前に置いた。
『記憶の果てに咲いた花』――
以前、彼女が涙したあの無名の書だった。
「ここに置くんじゃないんです。
ここに“置きたかったけど、置けなかった人”のかわりに、前に置いておくんです」
そして、彼女はその本にそっと一礼をした。
誰かの“書けなかった言葉”が、
いつか“書いてもいい”に変わるように――
その夜の記録は、こうなった。
【第二十日目:書かれなかったものと、それを待つ棚】
・石の図書館の奥に、“無魔力の空白棚”出現
・使用不可、物理接触あり
・ティア、棚の前に本を置き、祈る
この棚は、誰かの心にずっと残っていた“空白”を受け止めるために現れたのかもしれない。
過去を書けなかった人たちのために。
未来に書こうとする誰かのために。
このダンジョンは、そういう“声にならない声”にも、耳を傾けている。
◇あとがき
今回は“空白”というテーマで書かれた物語でした。
物語を書くという行為は、勇気を伴うものです。
書かなかったこと、書けなかったこと、忘れたくなかったこと――
そのすべてが、どこかに残っている。
この棚は、それを「忘れない」というやさしい形で描いたつもりです。
◇応援のお願い
もしあなたにも、“書けなかったこと”があるなら――
この棚にそっと気持ちを置いてください。
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