86. 油断 ◇
国境付近の山道を歩いて行く。
道の左側はなだらかな斜面に面しているが、右側は切り立った崖だ。その下に広がる木々の緑が目に眩しい。北の地とはいえ、夏場はこんなに青々としているのか。
俺は出そうになった欠伸をこっそりと噛み殺した。
あれから夜中過ぎまでチェスをしていたのだ。結局勝敗は付かず、いったん勝負は預けることとなった。
「……ルド。ジェラルド」
「あ?ああ、何だ?」
少し呆けていたらしい。シャンタルが呼ぶ声に、とぼけた返事をしてしまった。
「どうした?ぼーっとして」
「すまない。昨夜は勝負が長引いて遅くなってしまったからな。少し眠気が残っているようだ」
「ゲームに熱くなるなんて、子供みたいだな。寝ぼけて崖から落ちるなよ」
……君を守るためにやったんだぞ。
呆れ顔で先を歩くシャンタルの後ろ姿を見ながら、そう思った。
彼女は自分がどれほど男を惑わせる容姿をしているか、分かっていない。
いや、分かっているが無頓着というべきか。
誘蛾灯のごとく、有象無象の男どもがシャンタルに寄ってくる。俺が裏で排除した者は一人や二人ではない。
最初はバルゲリー元侯爵。
孫までいる年齢の癖に、愛人を幾人も抱えている好色爺だ。奴は夜会の場で出会ったシャンタルをいたく気に入ったらしい。嫌らしい目つきで彼女の尻を眺めている様子が既に気に喰わなかったが。陰で「大精霊士といえど、一皮向けばただの女だ。金を積めば股を開くだろう」と嘯いているのを耳にした時は、その場で斬り殺してやろうかと思った。
バルゲリー元侯爵家が、麻薬の密貿易に手を染めていたことは知っている。商売相手を含めて一網打尽にするべく泳がせていたが、この際だ。予定より早いが関係者を捕らえ、侯爵家は取り潰しにしてやった。
とばっちりを受けたバルゲリー侯爵は気の毒だが、あの父親を放置していた罪は重い。
次はジョフレ子爵だったか。
あの男も、妻子がいる癖にシャンタルを付け狙っていた。愛人にでもするつももりだったのか。
俺は影に命じ、奴の娼館遊びに関する噂を流させた。貴族の娼館通いは別に珍しいことではない。奴の細君も最初は目を瞑ろうとしていたようだ。だが、奴は頻繁に娼館へ出入りするだけでなく、特殊な遊戯を繰り広げていたらしい。
それを知った妻に離婚を突きつけられ、土下座して回避はしたものの、小さくなって暮らしているそうだ。あそこまで不名誉な噂が広がっては、社交界にもしばらく出られないだろうしな。いい気味だ。
あとは……ラロンド伯爵令息。
彼は本気でシャンタルへ入れ込んでいたようだ。真面目な青年で、特に問題もなかった。こういう手合いは厄介だ。
そこで俺は裏で手を回し、強引に縁談をまとめさせた。当初乗り気ではなかった令息だが、見合いの席で彼女を気に入ったらしく、すぐに結婚がまとまった。令息より年上だが、なかなか肉感的な美女だったからな。彼の好みだと思ったのだ。
これほどではなくとも、追い払った男は他にもいる。シャンタルの容姿のみに目の眩んだ愚か者どもめ。
俺は奴らのような情欲に塗れた猿どもとは違う。
その精神性も含めて、彼女の全てを愛している。
いや、まあ。愛の帰結としてそういう行為に及ぶのは、俺もやぶさかではないけれど。
もしそうなったら彼女がドロドロになるまで抱き潰して、身も心も俺の虜にしてやるつもりだけど。
それはさておき。
セヴラン・トレイユ辺境伯。
奴は手強い。
あの男は、自分の価値を分かっている。
トレイユ伯は我が国における北方守護の要だ。彼がいなくては、我が国の国土は魔獣に蹂躙されるだろう。
だからこそ、この俺に喧嘩を売るような真似をしても平然としていられるのだ。
しかも、シャンタルは奴に対する態度が妙に柔らかい。おそらく、多少なりとも好感を持っている。
全く……。俺という最高の男が側にいるのに、他の輩に目移りしおって。
「っ!?」
突然、足元を何かが走り抜けた。
考えごとに集中していたせいだろう。全く周囲に気を配っていなかった。
小さな獣だった。立ち止まってぴょこんと耳と立てている。
「何だ、野兎か」
魔獣と比べれば可愛いものだ。
しかし、俺はすぐその考えを改めることになった。
轟音と共に、斜面から数えきれないほどの野兎たちが疾走してきたのだ。
「殿下!」
護衛騎士が慌てて俺を突き飛ばす。
だが、群れからはぐれたらしき数匹がこちらへ飛びかかってきた。
咄嗟に後ろへ飛び下がって避ける。
しかし。
下がりすぎた。
後ろ足が空を切る。
「しまっ……!」
バランスを崩した身体が宙に浮かぶ。
護衛騎士の悲鳴に近い叫びを聞きながら、俺の身体は崖下めがけて落ちていった。




