4.一人きりの作戦会議
午後二時。掃除を終え、シャワーを浴びて着替えた私は、ダイニングテーブルに向かっていた。 テーブルの上には、余計なものは一切ない。あるのは、新調したばかりの、真っ黒な表紙のA4サイズのノートと、一本の万年筆だけだ。
私は、ルミナス化粧品から渡された分厚い資料の束を、ノートの脇に積み上げた。 過去の売上データ、ユーザーの年齢層の遷移、そして競合他社である「電報堂」が過去に手掛けた類似案件の分析レポート。
「ここからが、本当のスタート」
万年筆のキャップを外し、白い紙面にペン先を走らせる。 ノートの最初のページに、私は大きな文字でこう書き込んだ。
『ターゲット:三十三歳、大月結衣。彼女たちが、今、本当に欲しいものは何か?』
ルミナス化粧品の従来のイメージは、「大人の女性の品格」だった。しかし、そのイメージが固定化してしまったがために、今の働く女性たちからは「少し古い」「お母さんの世代が使うもの」として敬遠され始めている。
今の三十代の女性は、二十代の頃よりもはるかに過酷な環境に置かれている。 仕事では責任を押し付けられ、プライベートでは結婚や出産のタイムリミットを突きつけられる。SNSを開けば、他人のキラキラした生活が嫌でも目に入り、自分の中途半端さに勝手に傷つく。
「みんな、疲れてるんだ」
ペンを動かす手が、自然と速くなる。 彼女たちが求めているのは、男にモテるための「隙のない美しさ」ではない。あるいは、キャリアウーマンを演じるための「冷たい仮面」でもない。
一日の終わりに、鏡の前でメイクを落としたとき。 クタクタに疲れた自分の肌を見て、「今日も一日、よく頑張ったね」と、自分自身を肯定できるような、そんな「お守り」のような化粧品。
「『綺麗になるため』じゃなくて、『自分を愛するため』のスキンケア」
ノートの余白に、アイデアが溢れていく。キャッチコピーの断片、ビジュアルのイメージ、SNSでのインフルエンサーの起用方法。誰からも連絡の来ないスマートフォンは、テーブルの隅で静かに伏せられていた。以前は一時間おきに画面を点けて落胆していたのに、今は存在を忘れるほど、ノートに没頭していた。
「あ、これ……いいかも」
一つのアイデアが形になったとき、時計の針はすでに午後六時を回っていた。窓の外は、いつの間にか夕暮れの美しいグラデーションに染まっている。
充実感で、身体の芯が熱かった。 誰かに愛されるために自分をすり減らすのではなく、自分の脳をフル回転させて、新しい価値を生み出していく。このプロセスそのものが、今の私にとって、どんな恋愛よりも刺激的だった。
その時、テーブルの上のスマートフォンが、低く一度だけ振動した。 ビクリと肩が跳ねる。 画面を見ると、それはLINEの通知だった。
送り主の名前を見て、私の息が止まる。
『高橋 遼』
昨日、私が食事の誘いを冷たく断った、ルミナス化粧品の彼からだった。 私は一瞬、画面を開くべきか躊躇した。せっかく断捨離をして、心を仕事一色に染め上げたのに、また彼のメッセージによって、その平穏が乱されるのではないかという恐怖。
けれど、私は逃げない。今の私は、昨日までの私とは違う。 意を決して、画面をタップした。
『大月さん、週末に突然の連絡、失礼します。昨日は僕の配慮が足りず、不躾なお誘いをしてしまってすみませんでした。大月さんの、プロジェクトにかける強い覚悟を聞いて、自分の甘さを恥じるばかりです』
文章は、丁寧なビジネスのトーンだった。やはり、私の態度の硬さに、彼も引き下がったのだろう。 そう思って、少し安心した私に、続く文章が強い衝撃を与えた。
『ですが、大月さんのあの真っ直ぐな言葉を聞いて、僕はますます、あなたと一緒にこのコンペを勝ち抜きたいと強く思いました。来週の月曜日、僕の方からも新しいターゲット層のデータをいくつか用意していきます。大月さんの本気に、僕も全力で応えます。月曜日、楽しみにしています』
メッセージの最後には、いつもの爽やかな彼の笑顔を連想させるような、力強い言葉が並んでいた。
「……高橋さん」
画面を見つめたまま、私の指先がわずかに震えた。 彼は、私の拒絶を「嫌悪」として受け取ったのではなかった。むしろ、私の仕事に対する執念を「魅力」として捉え、同じ熱量でぶつかってこようとしている。
これは、恋の駆け引きなのだろうか。 それとも、純粋な仕事仲間としてのリスペクトなのだろうか。
今の私には、その判別がつかなかった。ただ一つ確かなのは、彼のこのメッセージが、私の胸の奥にある「女としての部分」を、静かに、けれど確実に刺激し始めているということだった。




