後編
「──どういうことだ!!」
激しい衝動のままに乱暴に開かれた扉の音。そこから初夜以来に顔を見たカーライルの怒声が響き渡った。
「なぜ! なぜ、お前が妊娠している!?」
荒々しく詰め寄る姿に、ユーフェミアは初夜の時と同じ動作で、僅かに首を傾げてみせた。
出産の予定日まですでに三ヶ月を切っている。今さらやって来たと思えば、感情ばかりが先立つ様は見苦しく、愚かとしか思えない。
平民の女に宛がった家に入り浸っていたとしても、カーライルは屋敷に帰宅していなかったわけではない。最近までこの男は次期当主だったのだ。立場に応じて任せられた仕事があり、いずれ継ぐことになる仕事を学ぶ必要もあった。もっとも、ユーフェミアの妊娠が発覚した頃から、意図して責任がほとんどない、外でできる仕事ばかりを与えられていたため、婚姻前よりも足が遠のいていたことは間違いないのだが。
それでも侯爵家に嫁いだ女が懐妊したと言う事実は、常に屋敷の中心に置かれていた。
安定期に入ってからは、家門の封建貴族を皮切りに、時間を掛けて他家へ話を広めていった。派閥や社交家ではすでに周知の事実となっていると言うのに、今さら耳にしたと言うのだから、カーライルの当主としての手腕を察するには十分だろう。
「何か問題がございますか、カーライル様」
「問題だらけだ! 俺はお前になど触れていない!」
「ええ、もちろん存じております」
指先を動かし、開かれたままの扉を閉めるようにメイドに指示を出す。そして代わるように扉の外へ出たメイドの姿を視界の端に入れながら、怒鳴るカーライルに当然だと頷けば、あっさりと肯定されたことにカーライルの言葉が詰まる。
室内に残ったメイドが数名、カーライルとユーフェミアの間に立とうとするが、再び指を動かせばメイドたちは静かに下がる。それでもすぐに飛び出せる場所に立ったまま警戒を緩めていない姿。当主の息子に対する態度としては失格だったかもしれないが、後継を孕む主人を守る姿としては合格だろう。
彼女たちは今ここでカーライルが何を喚いても、耳にはしない。言葉にせず、記憶にも記録にも残さない。そう判断するには十分な動きだった。
「で、ではその子供は──」
「ロンバルディ侯爵家とブランシェット子爵家の後継でございます」
言葉を遮るように、静かに言い切った。
「本婚姻において定められた通り、“両家の後継を得る”。それは無事に履行されました」
「そんなものが認められるわけはない!!」
がなり立てるような声が響く。だが──、
「認められている」
扉の方から低い声が落ちた。
反射的に振り返ったカーライルの視線の先。音もなく開き、そして再び閉ざされた扉の前に立っているのは、先ほど出ていったメイドを連れたサイラスだ。どうやら無事にサイラスを呼んで来られたようだと、心中で小さく息を吐いた。
「父上……!」
「ユーフェミアの言う通り、契約は履行され、結果として家門は後継を得た。それ以上でも、それ以下でもない」
淡々と告げられる事実を前に、サイラスとよく似たカーライルの精悍な顔が歪む。対してサイラスは酷薄とすら感じる冷ややかな目で、自分が後継として育てたはずだった息子を見ていた。
「納得ができません! こんなものがまかり通っていいはずが──」
「何が納得できない」
温度のない音がカーライルの言葉をせき止める。サイラスはただ問うただけだ。だが、それだけで場の空気が一段冷える。
「決まっています! あの女が──ユーフェミアが孕んだ子が、俺の子であるはずがないのです!!」
「そうだな」
己の行いを棚に上げてユーフェミアを論うも、あまりにも当然だと言うように肯定され、「……は?」カーライルの言葉が止まる。
「お前がユーフェミアに、一度も触れていないことは知っている」
「で、では──!」
「だが」
続く言葉はただの事実の重なりであり、今この場でのみ言葉にすることが許された、秘められた事実でもあった。
「それが何だと言うのだ」
夫であるカーライルは、妻であるユーフェミアに一度として触れていない。それでもユーフェミアは懐妊し、ユーフェミアの腹にはロンバルディ侯爵家とブランシェット子爵家の血を引く子が息づいていると言う矛盾。決して外には出さない契約の終結がここにはあった。
夫以外との間に子を成す行為は不貞である。サイラスはユーフェミアの不貞を認め、認めた上で何も問題はないと断言した。予想もしていなかった事態にカーライルは二の句も継げず、呆然とした表情を浮かべている。
「この婚姻における、契約事項の一つは何だ」
「……」
問われた内容への答えをカーライルは分かっている。分かっているが、口にはしたくない。してしまえば、すべてが間違っていたと認めることになると思うと、口を閉ざして黙り込むことしかできない。
「後継の確保だ」
けれどそんなカーライルの心中とは裏腹に、サイラスは容赦なく断じていく。
「そして現在、両家はそれを得た。しかも同時に、だ」
最初からすべてを違えたカーライルに、逃げ場などあるはずがない。
「ですが、こんなものが認められるわけが……!」
「お前が認めるも何も、すでに成立している」
静かに、しかし決して覆らないとサイラスは断言した。
「カーライル。では、お前に問う」
それでもなお、認めようとしないカーライルを見て、澱を吐き出すように息を吐いたサイラスは、一歩前に進み出た。
「お前は何をした──契約に基づき妻を迎えながら、その義務を放棄し」
「……っ!」
「外に女を囲い、あろうことか、その女に両家の後継を産ませると言い放った」
氷の如き怜悧な音が、刃のように降り注ぐ。
「お前がやったことは、我がロンバルディ侯爵家は元より、ブランシェット子爵家の血を汚し、家門を乗っ取る簒奪行為だ。それのどこに、家門の利益がある」
「俺は──!」
「女を愛している、とでも言うつもりか」
吐き捨てるような音だ。
「それが家門を潰すに等しい行為に正当化を持たせるとでも、本気で思っているのか!」
カーライルを見据えたサイラスの目が、何かを言い返そうと口を開いたカーライルの声を潰す。失望と怒りを押し殺したような父の姿に、カーライルは何も言えず、言葉を持たないゆえに崩れていくしかない。
「あれほど言ったはずだ。女を切れと。できないのなら、家を捨てろと──だがお前は家も女もと欲を出し、結果権利を失うことになった」
「……なに、を」
「ユーフェミア・ブランシェット子爵令嬢との婚姻は、お前を私の後継とする絶対条件であり、この婚姻で両家の後継を得るためにお前がどう動くかが、家門を継がせる最終判断だった」
「ま、待ってください」
「だが、お前はそれを自ら放棄した。最も愚かな形でだ」
終着点を理解したカーライルの顔から、瞬く間に血の気が引いていく。完全なる詰みだと、ここまできてようやく理解し、声はおろか、カーライルは全身を震わせた。
「っ、これは欺瞞だ! こんなものが正しいはずがない!!」
「正しいかどうかは問題ではない──必要かどうかだ」
「ですが! そもそもその女が孕んだ子がロンバルディ家の血を引いているわけが──」
「間違いなく引いていると、私が保証する」
絞り出すような抗議は、即座に切り捨てられ、見苦しくもユーフェミアの子に触れてなお、サイラスは欠片も揺るがない。ユーフェミアから見ればそれは至極当然のことだったが、カーライルから見れば、とりわけ異常を感じる状態で──暫しの間の後に、愕然とした。
「家門は存続しなければならない。そこに平民の血が入ることを、この国は認めていない。ゆえに──必要な手段がとられた。ただそれだけのことだ」
信じられないものを見るように、ユーフェミアを見たカーライルへ、ただ微笑みを返す。それが答えだった。そしてそれで察することができる程度には、カーライルの思考はまだ回っているのだろう。
サイラスとユーフェミアの間で忙しなく視線を動かし、ユーフェミアが孕んだ子の父親がいったい誰なのかという答えに行き着いてしまえば、カーライルの肩が大きく震えた。髪を掻き毟るように掴み、懸命に頭を振りながらも縋るようにサイラスを見た。何もかもが遅いと言うのに。
「処分を言い渡す」
それを最後に、すべてが終わる。
「カーライル・ロンバルディ──今をもってお前に与えられていたすべての権限を停止し、当家の後継から除外する」
静寂に包まれた確定が下る。「待ってください!」と言う悲鳴のようなカーライルの訴えなどないかのように。
「併せて、ロンバルディ侯爵家より除籍とする」
完全なる断絶だ。だがこれは、直系は自分しかいないと言う慢心が呼び寄せた、あるべき結果でしかない。愛と言う見えないものを妄信し、契約を軽く扱い、ユーフェミアを足蹴にしたカーライル自身が選んだ道だ。
この先、カーライルが何を喚こうが、ユーフェミアの腹の子の父親が誰かを訴えても、誰もそれを耳にはしない。血統を軽んじて爵位を失った愚かな男のただの無為な主張は、血統の保持を優先させるこの国では、誰も取り上げない。あまりにも続くようなら、その口にもいずれは閉ざされるだろう。
「後は好きに生きろ。お前が選んだ通り、“愛”とやらに従ってな」
それは皮肉ですらない。ただの事実の提示だった。
※ ※ ※
ユーフェミアのために整えられた部屋に、静けさが戻る。
サイラスやメイドたちが退室した部屋で、一人残ったユーフェミアは窓辺に立ち、外へと視線を向ける。穏やかな陽光に包まれた光景が、変わらずにそこにはあった。
一人の男の人生が変わったことなど、ユーフェミアにはどうでもよいことだ。
ユーフェミアは最初から愛など求めていなかった。互いの家門のために最低限でも互いを尊重し、契約を履行さえできれば、夫となる男が女を囲っていたとして捨て置いた。当主となった男を、嫁いできた身として支えることもしたし、産まれた子に男が興味を持たなかったとしても受け入れただろう。だがそれは、消え去った過去だった。
ユーフェミアは何も変わらない。大きくなった腹の中で、ポコリと動く感覚に視線を落とし、抱えるように指先を滑らせながら、ユーフェミアは何一つ変わらない完璧な淑女の微笑みを浮かべた。
「──結局、愛など最初から不要でしたわね」




