中編
耳に快い音を謳う完璧な淑女が下した、倫理も常軌も逸脱した提案に空気が止まった。
想像を絶する発言に、サイラスの目が鋭くユーフェミアを射抜く。
「……正気か」
「正気でございます」
零れる音に揺れはない。その必要がないと確信するように。
「本件は感情の問題ではなく、契約の履行にかかわる事案となります。血統の維持と言う観点からも、最も合理的な選択かと」
「……なぜ、私を指名した。今ならまだほかにも候補を出すことは可能だ」
それは万が一の際のスペア役を指しているのだろう。
分家筋の中で最もロンバルディ家に近い家門に生まれた男児。歳はユーフェミアより三つ上となり、二十歳を迎えてはいるが婚約者を持たないカーライルの従兄弟だ。確かに彼であれば年齢的にも血統的には問題はないかもしれない。だが、ユーフェミアが選んだのは彼ではない。
「家門の正当性。外聞。そして将来的な火種の排除を考慮した結果、わたくしは閣下が最も適任であると判断いたしました」
カーライルを廃嫡とし、彼の有責で婚姻を無効とする。そして、新たに当主の座に座る従兄弟と改めて婚姻を結び直して子を成す。それはまず検討されるべきことだろう。けれどこの選択肢を選べば、ユーフェミアと産まれてくる子は死ぬまで瑕疵を背負うことになり、栄えあるロンバルディ侯爵家の醜聞は、余計な火種を生みかねない。
スペア役を選べたのは、あくまで婚約の段階までだ。婚姻を結んでしまってからでは、もはや選べない選択肢である以上、ユーフェミアが選ぶべきは彼ではない。
不幸中の幸いと言うべきか、サイラスの妻は数年前に逝去している。この選択で最も懸念すべき相手がすでにこの世に存在せず、家内ですべてを終わらせることができるサイラスこそが選ぶべき合理的な相手だ。
「カーライルの妻になったお前が、私にそれを求めるのか」
「はい」
「それが何を意味するのか、分かっているのか」
「承知しております」
重く、長い沈黙の後にサイラスが顔を歪めるが、跳ね返すようにユーフェミアはサイラスを見据えた。
「ですが、このままでは両家──いえ、婚戚として鉄道事業の恩恵を受けるロンバルディ侯爵家が損を被ることになりましょう。それは閣下にとっても不本意ではありませんか」
婚姻が破綻した場合、ブランシェット子爵家側の損失はそこまで大きなものではない。
複数の鉱山から得るはずだった低価格での取引は消えるが、そもそもの破綻となる原因はカーライルの有責なのだ。慰謝料としてブランシェット子爵家が必要な量や価格を提示すれば、ロンバルディ侯爵家は受け入れざるを得ない。侯爵家を経由して得るはずだった新たな繋がりも、元より存在しない利益なのだから、損失などあってないようなものだ。
「わたくしに瑕疵が付いてしまいますが、カーライル様の有責である以上、ロンバルディ侯爵家がわたくしの純潔を証明してくださいます。なによりわたくしがどうであれ、今のブランシェット子爵家に婿入りしたいとおっしゃる方は思いのほか多いのです。──ですが、カーライル様はそうではないかと」
一年掛けて調整した政略がすべて崩れ去る。ブランシェット子爵家の存在を前提として組み立てた事業は瓦解し、その損害は天文学的な数字を叩き出すだろう。
「わたくしを侮辱した事実。ブランシェット子爵家を乗っ取ろうとした事実。ロンバルディ侯爵家に平民の血を入れようとした事実。鉄道事業で得るはずだった膨大な利益を損害へと変えた事実」
カーライル・ロンバルディと言う、愛に浮かされた一人の男の責任。侯爵家の次期当主としての自覚が問われる以前の問題である。
ユーフェミアとの婚姻が破綻した後、侯爵家であったとしてもカーライルと婚姻を結びたいと望む家門がどれだけいると言うのか。
「閣下がどう庇おうとも、婚姻が破綻してしまえば──次期当主の個人的な感情で家門全体の不利益を生み出す最悪の事例だと、後世に語り継がれることになりましょう」
貴族の世界では一度でも軽んじられたら終わりである。ロンバルディ侯爵家はこの失態を一生背負っていかなければならない。それは今後の派閥や社交界で生きる中で、何度も足を引っ張ることになるだろう。
だがそれも、あくまでユーフェミアがロンバルディ侯爵家を捨てると決めた場合の話だ。
「カーライル様は契約を軽んじておられます。であれば、わたくしは閣下に代わりを務めていただきたく存じます」
ロンバルディ侯爵家の直系の血筋は、何もカーライルだけが持つものではない。カーライルは父親似で、髪や目の色はもちろんのこと、その面差しもサイラスによく似ていた。事実を外に漏らす心配もない、婚姻の継続を望むユーフェミアが選ぶべき正しい相手だ。
完璧な所作で立つユーフェミアに、サイラスは深く息を吐いた。視線を外し、机の上で指を打つ。感情ではなく、損益で思考を回す姿は、昨夜見た息子とは対照で、ユーフェミアにとってはこちらの方が断然好ましく、理解できるものだった。
「お前は──恐ろしい女だな」
「お褒めに預かり、大変光栄に存じます」
思わずと言った風に零れた、ブランシェット子爵家の次期当主の教育の成功を認めた言葉に、ユーフェミアはゆったりと頷いた。
後継として何一つ陰りがないユーフェミアとは裏腹に、何を言っても一人息子である自分が選ばれると信じて疑わないまま育った自らの後継を思い出したのか、サイラスが唇を噛み締めた。
「……条件がある」
「お聞かせください」
「本件は、あくまで家門維持のための措置だ。外には一切出さず、子供の父親は公式にはカーライルとする。子爵家への説明に関してはすべてお前に一任し、仮に情報の秘匿を選んだ場合も、ロンバルディ侯爵家はその意思を尊重しよう」
「異存ございません」
「そして──」
サイラスは決断するように言葉を区切り、そして真っ直ぐにユーフェミアを見据えた。
「産まれた子は、必ず守る──両家の後継としてな」
すなわちこの瞬間。ユーフェミアが懐妊すれば、カーライルの廃嫡が確定すると示唆したに他ならない。断言ではない。だがユーフェミアは深く頷いて、その目にほんの僅かに緩やかな感情を滲ませた。
「──それこそ、わたくしの望みでございます」
スカートを指先で摘み、その場で一礼する。完璧な所作で頭を上げ、そして静かに告げた言葉にサイラスはただ頷くだけで何も返さなかった。それでも──それだけで十分だった。
※ ※ ※
数ヶ月後。
ロンバルディ侯爵家の屋敷は、静かなざわめきに包まれた。
「ご懐妊で、ございますか」
ユーフェミア付きのメイドの一人が、抑えきれない喜色を滲ませながらも、どこか慎重な声色で言葉を返す。
「ええ。医師の診立てでは、間違いないそうよ」
ユーフェミアは、外からはまだ何も変化が見えない腹部に手を当てながら頷いた。その声色はいつもと何一つ変わらず、快い音を響かせる。
窓から差し込む陽光が柔らかく身を照らす中、室内の空気が僅かに揺れた。そこには新たな命の誕生への驚き。家門の後継が宿った歓喜。そして──ほんの僅かな戸惑いがあった。それを肌で感じても、ユーフェミアの微笑みは揺るがない。
「それは……なんと、おめでたいことでしょう」
言葉を選ぶような沈黙の中で、傍付きの中で最も立場が上のメイドが、背筋を正し、形式通りにゆっくりとユーフェミアへ向けて頭を下げる。
「本当に。家門にとってこれ以上ない吉報ね」
ユーフェミアもまた、形式通りに応じた。それを皮切りにメイドたちが次々に祝福を捧げていく。誰もが正しい言葉を選びながら、しかしその奥にある何かには決して触れようとしない慎重さ。──触れてはならないと、理解しているように。
そしてその報は、瞬く間に屋敷中に広がっていき、使用人たちは皆一様に祝福を述べるのだ。
「おめでとうございます、若奥様」
「どうかお体を大事になさってくださいませ」
「これで安泰でございますね」
「次代様のお顔を拝見できると思うと、皆嬉しく存じます」
そのどれもが間違っていない。間違ってはいないが──誰一人として、“父親”について言及する者はいなかった。
さらに数ヶ月後。
当主の執務室に設置されたソファに、身を預けるユーフェミアの姿があった。
最初にこの部屋に足を踏み入れた時と同じように、窓を背にした執務机の前に座るサイラスが、ユーフェミアに目を向ける。妊娠が発覚し、女主人としての仕事に制限をかけて以来、訪れていなかった執務室を訪れたのにはもちろん理由がある。
ゆったりとした妊婦用のドレスの上から、主張する腹部を撫でるユーフェミアの手つきは酷く柔らかい。
「ご報告がございます」
嘘偽りのない嬉しさを含んだ声。弾むような喜びがそこにはあった。
「一般的な経過に比べ、少々成長が早く感じたため、改めて医師の診断を行ったところ──どうやら、わたくしは双子を宿しているそうです」
「双子……」
「はい。順当にいけば、両家それぞれの後継を同時に得ることが可能かと」
伏せた目をそのままに、暫し沈黙していたサイラスはやがてゆっくりと口を開いた。
「──見事だ」
それは幸運を掴んだユーフェミアに対する賞賛であり、同時に確認でもある。
「恐れ入ります」
これ以上の言葉は必要ない。何を言わずとも、すべては共有されている。
当主として、当主教育を受けた者として、同じ目線で立ち、同じ温度を持つからこそ、成立している均衡とも言えたが──この瞬間、ロンバルディ侯爵家の後継は静かに姿を変えた。




