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前編

「俺が君を愛することはない」


 式を挙げた最初の夜。

 己の寝室で夫となったカーライルから言い放たれた言葉に、ユーフェミアは僅かに首を傾げてみせた。

 この男は何をいっているのだろう──それが掛け値なしの本心だった。なぜなら、そんなもの端から期待などしていない。最初からこの婚姻はただの契約だったのだから。


 そもそもこの婚姻は、個人の感情など欠片も考慮されていない、家門同士の政略のみで結ばれたものだ。

 相手側から婚姻の申し出があってから、結ばれるまでのおよそ一年。その間に行った素行調査で、今年二十六歳となるカーライル・ロンバルディ侯爵令息が、十代の頃から平民の女に入れあげていること。度重なる父親でもある当主からの叱責を聞き流し、関係を続けていること。頭を痛めた当主が、貴族家門の娘──すなわちユーフェミア・ブランシェット子爵令嬢と婚姻を結ばなければ家門を継がせる資格はないと言い切ったこと。その結果、ユーフェミアと婚約を結ぶことを選んだにもかかわらず、今に至るまで女との関係を清算していないこと。──そのすべてを、詳らかに記された報告書で把握していた。

 知られていないと思っているのなら愚かで、そうでないのだとしても、家格の差を笠に着た、ブランシェット子爵家への侮辱でしかないような行為。

 それでもユーフェミアの父がカーライルとの婚姻を進めたのは、見合うだけの利益があると判断したからであり、ロンバルディ侯爵家がなけなしの理性で、ブランシェット子爵家に悟らせないよう、極力家内だけでことを収めようとしたのは、この婚姻で得る利益は彼らの方が勝ると言えるからだろう。


 この婚姻は、国が主導する鉄道事業が発端にある。

 ユーフェミアの生家であるブランシェット子爵家は、四方をそれぞれ異なる家門の領地に囲まれた、狭い領地を有する家だった。

 農地や畜産は領地内の自給率をほんの僅かに上げる程度の生産力しかなく、領地特有の生産物も存在しない。ゆえに、数代前の当主が始めた芸術家たちへの支援が、唯一特出した特徴と言える程度の家門である。

 だが、鉄道事業が進み、列車の路線をどこに通すかが決まったその時から、領地の価値が瞬く間に跳ね上がった。

 狭い領地でありながら、複数の家門の領地に隣接している土地に目を付けた事業担当者が、ブランシェット子爵家の領地を横断する形で路線を引き、さらにブランシェットを起点に隣接する各領地へ路線を分岐させると決めた。

 これにより、芸術家を支援するだけの小さな領地は、国を横断する列車の要所としての価値が与えられた。列車が開通した暁には、膨大な人と物が行き交う物流都市へと姿を変え、その大いなる流れは膨大な富や利益を領地へ落とすことになる。

 降って湧いたような計り知れない価値。

 他家から見れば無害な鳥だったブランシェット子爵家は、尽きることのない金の卵を産むガチョウとなり、一人娘のユーフェミアへ婚姻の申し出が殺到したのは必然である。

 そして文字通りうずたかく積み重なった釣書の中から、父が引っ張り出した相手が、カーライル・ロンバルディ侯爵令息だった。


 ユーフェミアもカーライルも、家門に一人しかいない直系の子供である。

 本来であれば、婚姻相手は他家から相手を迎え入れるのが定石だったにもかかわらず、それでも父が侯爵家を選んだ理由はいくつか存在する。

 王国に十しか存在しない、侯爵家の正当な血筋。

 王国の中央に造られた王都を挟んで、真逆に領地を有する両家の位置関係。交流が乏しいロンバルディ侯爵家側の地域への足掛かりとして。

 そして広大なロンバルディ侯爵家の領地に存在する、金や宝石類を埋蔵する複数の鉱山。──これが決め手となった。

 ブランシェット子爵家が支援する芸術家。彼らは無名の頃から支援を惜しまなかったブランシェット子爵家に、多大な恩義を感じている者が多く、大成してなお子爵家の領地から出ていくことはない。そんな彼らと依頼者の間をブランシェット子爵家が取り持つことも多く、発生する仲介料は間違いなく家門の欠かせない収入の一つとなっている。

 ゆえに膨大な埋蔵量と産出量を誇る鉱山を複数所有する、ロンバルディ侯爵家との取引で仕入れ額を抑え、通常よりもはるかに安価に仕入れた物を芸術家たちの支援として使うために、父はこの婚姻を結ぶことを決めた。

 物流都市になろうとも、ブランシェット子爵家にとって、人材こそが家門と領地を守るために必要なものであると言う考えは、決して変わらないのだから。

 対してロンバルディ侯爵家が得る利益は、もっと単純と言えた。

 今回の鉄道事業で領地の主要なエリアが路線の設置箇所から外れ、事業の恩恵を思うように受けることができなかった侯爵家は、ブランシェット子爵家と婚戚となることで、子爵家を通して間接的に恩恵を得ることを望んでいる。たったそれだけだと言うのは簡単で、だがその一点だけで、家門全体が得る利益は途方もないほど膨大であった。


 ユーフェミアはそれを理解していた。カーライルもまた理解していると思っていた。

 両家の間で細部まで条件を組み立て、契約書として書面にも残されている。互いに利益を得るために、互いを見張る。そんな純然たる契約でしかない政略結婚であると。

 だからユーフェミアは、目の前にいる男が理解できない。

 最初から不貞を働いているカーライルと、それを承知で婚姻を結んだユーフェミアの間には、愛などという言葉にできない不確かなものは存在しない。自分たちは両家で結ばれた契約を果たすためだけに存在すればいいとすら思っている。何を成さねばならぬかを理解し、婚姻を結び、ここにいる──それがすべてだった。


「カーライル様のおっしゃりたいことは、承知いたしました」


 夜着の上に掛けられたショールを指先で撫でながら、ユーフェミアは薄く微笑んだ。


「ですが」


 カーライルの主張が理解できないが、理解できなくても問題ない。

 不貞を働く男の愛。女のために身分を捨て、平民として生きていくことも選択できない安い愛を、崇高なもののように語る姿は、いっそ滑稽だった。


「子供はどうなさるおつもりですか?」


 ブランシェット子爵家の一人娘と、ロンバルディ侯爵家の一人息子の婚姻で、最も問題視されたのは、どちらがどちらの家門へ入るかと言うことだった。

 当然である。直系の子供はユーフェミアとカーライルしか存在せず、この国は女であっても爵位を継ぐことができる。ユーフェミアとて幼い頃から家を継ぐ覚悟で当主教育を受けており、カーライルとの婚姻が結ばれるまでは、婚姻相手の第一条件は婿入りが可能な者だったのだ。

 直系の血筋を残すために両家が譲れない問題ではあったが、数度の話し合いの結果、爵位が上となるロンバルディ侯爵家へユーフェミアが嫁ぐことで話は纏まった──その代わりに設けられた一つの契約条項。


「この婚姻は政略であり、果たさなければならない条件が複数存在します。そしてその一つに──最低二人。ブランシェット子爵家とロンバルディ侯爵家、両家を継ぐ子供を成すことが含まれております」


 順当にいけば第一子がロンバルディ侯爵家を、第二子がブランシェット子爵家を継ぐ子供となる。

 特にユーフェミアを外に出すことになる子爵家にとって、ユーフェミアの血を引く子供を養子にすることは、家門を生かすために絶対に必要なことだった。

 カーライルが誰を愛しているかなど関係ない。元より契約書への署名はカーライルも行っており、カーライルも納得しているはずなのだ。契約を成すためにどれだけ気が進まなくとも、ユーフェミアたちは寝所を共にする必要がある。


「カーライル様は先ほど、わたくしに触れることはないとおっしゃられました。自分には他に愛する方はおり、その方以外と触れ合うことなどあり得ない、と──ですが、それは契約を履行できないと言うことです」


 ベッドに腰掛けたまま視線を向ければ、顔を歪めたカーライルが吐き捨てるように言った。


「契約のために抱けと? 笑わせるな。そんなもの愛ではなく繁殖だ。俺はそんな生き方をするつもりはない──…子供は彼女に産んでもらえば、なんの問題もないだろう」


 問題しかない発言に、口元を隠せる扇子を今ほど欲したことはないだろう。

 当主教育の一環で覚えた表情管理で笑みを張り付かせたまま、正気を疑う戯言をのたまう男に、言葉を返す必要があるのかと考えている最中にも、カーライルは言葉を続けた。


「政略なら誰にでも足を開く女の子供など、ロンバルディ侯爵家には相応しくない」


 それだけを言い捨て、部屋から出ていったカーライル。酷い音を立てて閉まる扉を見ていたユーフェミアの顔から、一切の表情が抜け落ちた。

 僅かな時間の会話だ。たった数度のやり取り。思い返す必要すらないほど、あまりにも愚かで、あまりにも浅慮な行為。


 ──さて、どうしてやりましょう。


 一つだけ細く息を吐いた後、サイドボードの上に置かれた呼び鈴を引き寄せる。チリン、と小さく鳴った音は、使用人を呼び出すにはあまりにも小さな音だったが、耳を澄ませている者たちにはこれで十分だろう。

 寝室から続く扉が音もなく開き、そこに見えた二つの顔にユーフェミアは微笑んだ。



 ※ ※ ※



 夜が明けた。メイドたちの手で身支度を整え、軽めに作られた朝食に舌鼓を打った後、ユーフェミアは当主の執務室を訪れていた。

 先触れは昨夜のうちに出してある。秘匿性の観点から肝心の内容はこれから伝えることになるが、ユーフェミアが伝えずとも、すでにカーライルの件は伝わっているだろう。


「お仕事中に失礼いたします、ロンバルディ侯爵閣下」


 入室の許可はすぐに下り、内から開いた扉の中に歩み出る。窓を背に、一際大きな執務机を間にして座る男こそ、カーライルの父にして、ロンバルディ侯爵家の現当主、サイラス・ロンバルディだ。

 持っていた書類を机の脇に寄せた男は、カーライルによく似た精悍な面差しをしている。だがユーフェミアを見る目は、どこか疲れたように倦んでいた。

 壁側に控えて立つのは、執事長とメイド長の二名。昨夜、寝室と繋がる使用人の控室から、ユーフェミアとカーライルの様子をうかがっていた彼らは、予想通りサイラスに侯爵家の恥部を伝える役目を果たしたのだろう。

 契約に則り、初夜を迎えることを確認するために待機する──ただそれだけだったはずの行為。確認さえできれば控室から出てサイラスへ報告を済ませて終わる簡単な役目が、こんなことになってしまったのだから、その顔色が悪くなるのも仕方がないことだ。


「……ユーフェミア」


 重く名を呼ばれ、形式通りに一礼をして顔を上げる。


「すでにご存じとは存じますが、改めてわたくしからのご報告とご相談がございます」


 苦虫を噛み潰したような彼らとは対照に、ユーフェミアの双眸は欠片も揺らがない。

 まず「他の方々には下がっていただいてもよろしいでしょうか」と願った。ここから先の話は極力外へ出すべきではなく、知る人間は最小限にするべきだと、ユーフェミアと同じ判断を下したサイラスは、室内からすべての人間を退室させる。

 そして陽光を背に椅子に座ったサイラスを前に、ユーフェミアは切り替えるように背筋を正す。


「単刀直入に申し上げます。昨夜、カーライル様より──わたくしに触れることはないと、告げられました」


 僅かな沈黙が室内に落ちる。


「……聞いている」


 深い息とともに短く吐き出された声には、驚きや憤りよりも、諦念に近い響きがあった。

 例えばユーフェミアの言葉だけだったのなら、否定できたかもしれない。己の息子を信じ、侯爵家を貶めるのかと難詰したかもしれない。けれど最初にサイラスへ報告を上げたのは、長年ロンバルディ侯爵家に仕え、サイラスが信を置く執事長とメイド長なのだ。

 昨夜、カーライルとユーフェミアの様子を確認するように指示を出したのもサイラスであり、ユーフェミアの証言は決して偽りではないことを、サイラスはすでに知っている。


「加えて、子を設ける意思もないと──両家の跡継ぎは平民の女に産ませると明言されております」


 決定打である。最早庇い立てもできないほど、すべてが浅慮な行いだった。


「本婚姻は政略であり、両家の利益を最大化するための契約でございます。その履行条件の一つとして、“両家の後継を得ること”が明記されており、カーライル様も署名をなさっております」


 部屋を満たす空気が明確に変わるが、感情的になることはない。ただ、事実だけを積み重ねていく。


「現状のままでは、契約は破綻いたします。損害はもちろんのことでございますが──そもそもブランシェット家とはなんの関係もない子を、わたくしの子と偽ろうとしている時点で、ブランシェット子爵家に対する敵対行為も同然と言えましょう」


 サイラスが目を細め、暫し沈黙する。

 やがて感傷を振り払うように一つだけ深く瞬くと、ユーフェミアに低く問う。「──それで」


「お前は、どうするつもりだ」


 試すような声色だった。

 昨日ロンバルディ侯爵家に迎え入れた、十七歳の娘の心を覗き込むような、回答を誤ればユーフェミアが一方的に利用される側になると理解できる目。そんな双眸に映り込んだユーフェミアは、構わず前を見据えた。


「契約は履行いたします」


 僅かな迷いもなく、断言した。


「カーライル様がお役目を果たせないのなら、代替手段を講じればよいのです」

「代替、だと」

「はい」


 ほんの一拍。年若い少女が夢をみるように、熟れた女が慈悲を施すように、相反する色を纏ったユーフェミアは、サイラスに向けて柔らかく微笑んだ。


「わたくしに──子を授けていただきたく存じます」


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