第9話 真実の代償 ―別離―
十二月第二週、日曜日の午後四時頃——遥斗
美香の実家の前で、俺は立ち尽くしていた。
見慣れたはずの家が、今日は妙に大きく見える。
玄関の白い壁も、窓のカーテンも、どこか冷たかった。
深く息を吸う。
冬の空気が、肺の奥を刺すように抜けた。
鼓動が、胸の奥で早鐘を打つ。
指先が、インターホンのボタンを押した。
ピンポーン——軽い音が、やけに重く響く。
しばらくして、ドアが開く。
美香が立っていた。
白いワンピース。
柔らかな光を受けて、薄く透ける布地。
——あの日、俺が「似合ってる」と言った服。
息が止まる。
視線を逸らし、玄関の段差に目を落とした。
「いらっしゃい」
少し高い声。
緊張しているのが分かった。
「お邪魔します」
玄関を上がると、美香の両親が出迎えてくれた。
「いらっしゃい、遥斗さん。久しぶりね」
お母さんの微笑みは、変わらず穏やかだった。
その顔を、まっすぐ見られなかった。
「よく来たな」
お父さんの声は落ち着いていた。
大きな手が肩に触れる。
その温もりに、喉が詰まる。
「……お邪魔します」
もう一度、頭を下げた。
リビングに通される。
見慣れた部屋。
カーテンの柄も、テーブルの花も、何ひとつ変わっていないのに——
空気だけが違って見えた。
明るい照明の下、冬の冷たさだけが残っていた。
♦
今日は、そのすべてが違って見えた。
明るすぎる照明の下で、空気だけが冷たかった。
お母さんが湯を注ぐ。
ほうじ茶の香りが、静かに広がる。
立ちのぼる湯気の向こうで、美香の顔が少し歪んで見えた。
最初は、他愛もない世間話。
天気のこと、仕事のこと。
けれど、言葉が途切れるたび、沈黙の間が長くなっていった。
俺は湯呑みを手に取る。
陶器の温もりが掌に伝わるのに、指先だけが冷たかった。
美香が、耐えきれずに口を開く。
「……遥斗。大事な話って、何?」
声がかすかに震えていた。
俺は湯呑みをテーブルに置いた。
小さな音が、静寂の中に沈む。
「お父さん、お母さん……それから、美香」
三人の顔を見る。
それぞれの表情に、違う色の不安が浮かんでいた。
「ずっと悩んでいました。
家のこと、そして——俺たちのことも」
お父さんが、湯呑みを持つ手を止めた。
「正直に言います。
俺には、倖田の家を継ぐ覚悟ができません」
♦
短い沈黙。
時計の針の音が、やけに大きく響いた。
お父さんの表情がわずかに変わる。
眉が寄り、目が細くなる。
「……それは、どういう意味だ?」
低く、抑えた声。
「長い間考えました。
でも——俺は、自分の家を捨てることができません。
姓を変えることも、実家を離れることも。
それが、どうしてもできないんです」
お母さんが、不安そうに息を呑む。
「でも……遥斗さん。あなたと美香は、愛し合っているんでしょう?」
その言葉が、胸の奥に沈んだ。
視線を落とす。
テーブルの木目だけを見つめた。
沈黙。
部屋の空気が、凍りついている。
時計の秒針だけが、規則的に音を刻んだ。
お父さんが、ゆっくりと湯呑みを置く。
かすかな音が、静けさの中に落ちた。
「……遥斗くん。養子の問題だけなら、話し合えると思う」
お父さんの声は穏やかだった。
その優しさが、かえって重く感じられた。
「私たちは、君を責めるつもりはない。
ただ……君の気持ちを聞きたいんだ」
お母さんが小さく頷く。
「そうよ。遥斗さんの気持ちが一番大事」
その声に、美香が顔を上げた。
「……遥斗?」
美香の声が、小さく震えた。
その目は、もう答えを知っているようだった。
「家のことも、理由の一つです。
だけど——」
言葉が喉で止まる。
唇が乾き、息が浅くなった。
お父さんが、じっと俺を見つめている。
お母さんの視線も、不安を帯びて揺れていた。
美香は、唇を噛んだまま俯いている。
時間が、ゆっくりと重く流れた。
「……何? ちゃんと言ってよ」
美香が立ち上がる。
握った拳が震え、肩が小さく揺れる。
「本当は……俺の気持ちが、変わってしまった」
その瞬間、音が消えた。
部屋の空気だけが残った。
美香の顔から、血の気が引いていった。
お母さんが小さく息を呑む。
お父さんは、湯呑みを握りしめたまま動かない。
「……え? どういうこと?」
美香の声が裏返った。
目が揺れ、笑おうとして笑えない。
「美香……ごめん。もう、付き合えない」
静寂。
美香は立ち尽くしたまま、何も言わなかった。
唇だけが、かすかに震えていた。
「……冗談でしょ?」
その声は、息のように弱かった。
俺は、首を横に振る。
それしか、できなかった。
「……ごめん」
「やだ……やだよ。そんなの、嘘でしょ……?」
美香が俺の腕を掴む。
爪が食い込み、痛みが走った。
「ねえ、お願い……別れたくない」
「美香……」
美香は、その場に崩れ落ちた。
膝をつき、俺の服を掴んだまま、声を上げて泣く。
「なんで……? なんでなの……?」
叫びが壁にぶつかり、空気が震えた。
お母さんが立ち上がろうとしたが、お父さんが手で制した。
「他に……好きな人でも、できたの?」
美香の声は、涙に濡れていた。
沈黙。
喉が上下する。
それでも、嘘はつけなかった。
「……そうだ」
美香の手から力が抜ける。
掴んでいた布が、指の間から落ちた。
お母さんが顔を伏せる。
お父さんは、拳を握りしめたまま動かない。
「他に好きな人ができた。
それが……本当の理由だ」
美香の唇が震える。
息をするたび、声にならない音が漏れた。
「誰……? 誰なの……?」
「……言えない。
でも、俺が悪い。
美香を幸せにできないって、分かったんだ」
「最低……」
「遥斗……最低だよ……」
涙の中で絞り出すように言ったその顔は、苦痛と絶望に歪んでいた。
俺は、視線を床に落とした。
見てはいけないと思った。
「……分かった。もう……いいよ。顔も見たくない」
美香の声は震えていた。
けれど、その響きはどこか空っぽだった。
お父さんが、ゆっくりと立ち上がる。
拳を握りしめ、肩がわずかに揺れている。
「遥斗くん——話は理解した」
抑えた声。
その奥に、怒りがかすかに滲んでいた。
お父さんは、一度大きく息を吸う。
そして、低い声で続けた。
「……私は、君を息子のように思っていた。
だから、こんなことになるなんて思ってもみなかった」
その言葉が、胸の奥に沈んだ。
「君が悩んでいたなら、相談してほしかった。
養子のことも、結婚のことも、話し合えたはずだ」
お父さんの声が、わずかに震えた。
「でも……気持ちが変わったというなら、それは仕方ない。
人の心は、強制できるものじゃない」
そう言って、お父さんは深く息を吐いた。
「……ただ、娘をこんなに傷つけるなら——
もっと早く言ってほしかった」
その言葉に、俺は何も言えなかった。
「……帰ってくれ」
お母さんは、美香を抱きしめていた。
背を撫でながら、小さく囁く。
「美香……大丈夫よ」
その優しさが、胸を締めつけた。
俺は深く頭を下げる。
「……本当に、申し訳ありませんでした」
立ち上がる。
足が重い。
一歩ごとに、床が軋んだ。
背後から、美香の泣き声が聞こえる。
「……遥斗……ひどいよ……」
振り返れなかった。
喉の奥が、焼けるように痛む。
「……ごめん」
♦
玄関で靴を履き、外に出た。
冷たい空気が、頬を撫でる。
ドアを閉めた瞬間、
中から、美香の泣き声が響いた。
その声が胸の奥に沈み、動かなかった。
振り返る。
灯りが一つ、窓の奥で揺れている。
冬の空は、もう夜の色をしていた。
♦
同じ日の夜——遥斗
ひんやりとした風が頬を撫でた。
灰色の雲が、低く垂れ込めている。
美香の家を後にする。
一歩進むたび、足が沈む。
振り返りたい衝動を、歯を食いしばって抑えた。
途中の公園で、足が止まった。
ベンチに腰を下ろす。
手が、かすかに震えている。
まぶたを閉じた。
さっきの光景が、音もなく蘇る。
泣き崩れた美香。
拳を握るお父さん。
娘を抱きしめるお母さん。
胸の奥で、何かが軋んだ。
風だけが、その音をさらっていった。
——美香、本当にごめん。
もう、嘘はつけない。
これが、俺の答えだ。
涙が一筋、頬を伝う。
風に触れた瞬間、冷たく凍った。
空を見上げる。
雪が落ちそうな空だった。
何度も息を吸う。
冷たい空気が肺を刺す。
その痛みが、現実を確かにした。
耳の奥に、まだ美香の泣き声が残っている。
あの声は消えない。
きっと、消えない。
どれほど経ったのか分からない。
気づけば、街は闇に沈んでいた。
ポケットからスマホを取り出す。
画面の灯りが、夜に浮かぶ。
午後九時を過ぎていた。
——莉緒に、伝えなければ。
♦
同日、午後九時頃——莉緒
スマホが震えた。
私は、反射的にそれを掴んだ。
——遥斗さんからだ。
震える指で、通話ボタンを押す。
「……もしもし」
声が、かすかに震えた。
「美香と、ご両親に話してきたよ」
遥斗の声は、疲れ切っていた。
けれど、その奥に小さな安堵が混じっていた。
「今の俺の気持ちを伝えて……ちゃんと別れた」
その言葉を聞いた瞬間、涙が落ちた。
「……そう。お疲れさま」
うまく言葉が出ない。
喉の奥が詰まり、声が揺れた。
「つらい思いをさせて、ごめん」
「……大丈夫?」
「正直、大丈夫じゃない。
でも……これで良かったと思う」
声の端が、かすかに震えていた。
「疲れた。今日はもう眠るよ」
「……明日、仕事のあとに会える?」
「うん」
「じゃあ……一緒に食事しよう」
「うん……」
通話が切れた。
静かな部屋に、自分の呼吸だけが残る。
スマホを胸に抱きしめたまま、涙が滲んだ。
嬉しいのか、悲しいのか、分からない。
ただ、胸の奥が痛かった。
——彼は、ちゃんと向き合ってくれた。
けれど、その光の裏には、美香さんの涙があった。
そのことを思うと、涙は止まらなかった。
♦
同日、午後九時頃——遥斗
電話を切ったあと、静かに目を閉じた。
これで、本当にすべてが変わった。
莉緒との新しい時間が、静かに動き出す。
けれど、美香への罪は胸の奥に残ったままだ。
たぶん、これからも消えない。
それでも——歩くしかない。
窓の外を見上げる。
冬の夜空に、星が瞬いていた。
冷たく、遠く、それでも確かに光っている。
——これから、どうなるのだろう。
莉緒と、俺と、そして美香も。
答えは、まだ見えない。
ただ、夜の向こうに、かすかな光があった。
——続く。




