第10話 光の底 ―雪の街で―
十二月第二週、月曜日の朝―—遥斗
冬の光は遠慮を知らない。
ビルの影が、床に冷たい模様を落としていた。
俺はデスクに座り、画面の数字を眺めていた。
意味を追っているふりをしながら、思考はどこにも行けずにいた。
指が止まる。
周囲のキーボード音が、遠い潮騒のように耳の奥で揺れる。
この場所だけが、時間から取り残されている気がした。
——昨夜の光景が、まだ焼きついている。
泣きじゃくる声。
何度も繰り返された「ごめん」という言葉。
最後に閉まったドアの音。
それらが頭の奥で、再生され続けていた。
「……遥斗さん」
顔を上げる。莉緒が立っていた。
朝の挨拶。いつもと同じ笑顔。
けれど、その静けさの奥に、昨夜の余韻がわずかに残っていた。
「おはようございます」
「……おはよう」
声が乾いていた。
莉緒は一瞬だけ目を細め、何も言わずに書類を差し出す。
白い紙の端が、指先に冷たく触れた。
彼女が去る。
その背中を見送りながら、胸の奥に沈む重さをどうにもできずにいた。
窓の外、風が街路樹を揺らす。
枝が擦れる音が、まるで責めるように響いた。
♦
同日のランチタイム―—莉緒
社員食堂の窓際。
私は美千代の向かいに座っていた。
味噌汁の湯気が立ち上り、曇った窓に白い輪を描く。
外では、冬の日差しが鈍く街を撫でている。
「莉緒、顔色悪いよ」
箸が止まる。
顔を上げると、美千代が湯気の向こうでこちらを見ていた。
心配というより、探るような目。
「……ちょっと寝不足」
嘘ではない。
昨夜は眠れなかった。
あの電話の声が、何度も胸の奥で反響していた。
「あの人も、同じ顔してたよ」
湯呑を持ち上げながら、美千代が言う。
湯の表面に光が揺れて、私の手元を照らした。
その言葉の意味を、理解しないふりをする。
「偶然だね」
笑みを作る。
唇の端が少し震えた。
美千代は何も言わず、お茶を一口飲んだ。
陶器が卓に触れる小さな音だけが響く。
「無理しないでね」
その声が、柔らかいのに痛かった。
私は短く頷き、箸を取り直す。
味噌汁の湯気が、もう冷めかけている。
窓の外では、白い光が街を包んでいた。
その明るさが、まるで別の世界のもののように思えた。
同日の夜
駅前のカフェは、仕事帰りの人々でほどよく賑わっていた。
笑い声とスプーンの音。そのどれもが、遠くの出来事のように聞こえる。
私と遥斗さんは、半個室の席に向かい合って座っていた。
テーブルの上、コーヒーカップから立ち上る湯気が、灯りに淡く揺れている。
遥斗さんは、しばらくカップを見つめたままだった。
沈黙が一つ、二つと重なっていく。
「……昨日」
その言葉で、指先がわずかに動いた。
「美香の実家に行って、ちゃんと話してきた」
息が詰まる。
胸の奥で、小さな音を立てて何かが崩れる。
「泣かれた。ご両親にも怒鳴られた」
声は低く、削れたように硬かった。
私は何も言えず、ただ湯気の流れを追った。
漂う香りの中で、心が静かに沈んでいく。
「……つらかったですね」
ようやく出た言葉は、あまりに薄く、頼りなかった。
遥斗さんは、小さく頷いた。
その仕草に、もう何も続けられなかった。
彼の指先が、カップの縁をなぞる。
わずかな摩擦音だけが、沈黙の底で響いていた。
「……ああ」
沈黙が落ちた。
隣のテーブルから笑い声がこぼれる。
その明るさが、まるで別の世界の音のように響いた。
「正直に言うと……まだ整理がついていない」
遥斗さんが、ゆっくりと視線を上げた。
光が瞳に触れ、かすかに揺れる。
「莉緒のことは、好きだ。それは本当だ」
その言葉が、静かに胸に刺さる。
嬉しさより先に、痛みが広がった。
「でも……昨日の光景が、どうしても消えない」
声はかすれていた。
過去の断片が、彼の中でまだ形を持って残っている。
私はただ、うなずいた。
言葉にすれば、どれも軽くなる気がした。
胸の奥で、何かが静かに渦を巻く。
それは痛みというより、一緒に背負う覚悟のようなものだった。
「……少しだけ、時間がほしい」
遥斗さんの声は、懇願というより、自分への言い訳のように聞こえた。
私はカップを持ち上げ、一口飲む。
冷めかけたコーヒーの苦味が、舌の奥に残る。
「……待っています。それだけ、伝えたくて」
言葉に力を込めないようにした。
強くすれば、彼が逃げ場を失う気がしたから。
遥斗さんは視線を落とし、小さく息を吐いた。
「……ありがとう」
その笑顔が、ほんの一瞬、痛みに歪んだ。
私は気づかないふりをした。
——彼は責められたいのに、私は責められない。
その矛盾が、胸の奥で軋んだ。
「今日は……もう帰るよ」
彼が立ち上がる。
私も続いて席を立つ。
会計の音が、妙に遠く響いた。
外に出ると、夜風が肌を刺すように冷たかった。
駅前の光が、二人の影を淡く分ける。
「無理しないでくださいね」
言った瞬間、自分の声が少し震えた。
彼は何も言わず、小さく頷くだけだった。
改札を抜け、それぞれの方向へ歩き出す。
私は振り返らない。
風の中で、目の奥が熱くなった。
——届かないものほど、長く残る。
心の中でつぶやく。
その言葉は、白い息と一緒に夜へ溶けていった。
帰宅後、私はスマホを開いた。
指先がわずかに震える。
『今日はお疲れさまでした。……大丈夫ですか?』
たった一行。
それでも、何度も消しては打ち直した。
送信ボタンを押す。
画面に『既読』の文字が浮かぶのを見て、息を止めた。
けれど、そのまま何も起きなかった。
光が消える。
部屋の輪郭が闇に溶けていく。
私はベッドに横たわり、天井を見つめた。
静けさが、少しずつ重くなる。
窓の外で風が鳴っている。
その音が、まるで誰かの返事のように、途切れ途切れに続いていた。
♦
同じ頃――遥斗
部屋の灯りを落とし、スマホの画面だけが淡く光っていた。
莉緒からのメッセージ。
指先が、何度も画面の上を往復する。
『大丈夫』
『ありがとう』
打っては消し、また打っては消す。
どの言葉も、今の自分には軽すぎた。
息が詰まり、手が止まる。
あの夜の涙が、まだ胸の奥に張り付いている。
スマホを机に置くと、光が途切れた。
闇が、部屋の隅から静かに戻ってくる。
耳を澄ますと、時計の音が小さく刻まれていた。
その規則正しさが、かえって落ち着かない。
何も言えないまま、ただ目を閉じた。
沈黙だけが、呼吸のように部屋を満たしていった。
♦
十二月第二週、火曜日――遥斗
職場で顔を合わせた。
言葉は少なく、視線も短い。
必要な報告と確認だけが、機械のように行き交う。
夕方を過ぎたころ、休憩スペースでスマホが震いた。
画面に短い文字。
『今日も一日お疲れさまでした』
何気ない言葉なのに、胸の奥が少し動く。
指がためらいながら、返信を打つ。
『ありがとう。……莉緒も』
送信を終えると、光が消える。
液晶に映る自分の顔が、薄く歪んで見えた。
音もなく、静けさだけが部屋に戻る。
その静けさが、なぜか心地よくも、少しだけ痛かった。
♦
十二月第二週、水曜日――莉緒
美千代がコーヒーを差し出しながら、穏やかに言った。
「莉緒、最近ちょっと元気ないね」
私はカップを受け取り、湯気の向こうを見つめる。
その白さが、一瞬だけ視界をやさしく曇らせた。
「……うん、少しね」
言葉が湯気の中に溶けていく。
美千代は隣に腰を下ろし、ゆっくり息を吐いた。
「でも、待つしかない時ってあるよ。
何も言わないほうが、伝わることもあるから」
その言葉が、胸の奥の静かな痛みに触れた。
私は小さくうなずく。
「……そうだね。ありがとう」
それ以上、どちらも何も言わなかった。
カップの縁に光が反射して、机の上を一瞬だけ照らした。
その微かな明るさが、すぐに消えていった。
コーヒーの香りだけが、二人の間に漂っていた。
♦
十二月第二週、金曜日の夜―—莉緒
コンビニ弁当を電子レンジに入れたとき、スマホが震えた。
着信。――遥斗さん。
心臓が一拍、強く跳ねる。
深呼吸をしてから、受話ボタンを押した。
「……もしもし」
受話口の向こう、少し掠れた声。
「今週、あまり話せなくてごめん。……色々考えてた」
私は目を閉じた。
声の端に残る疲れが、なぜか愛おしかった。
「大丈夫です。私も、同じです」
短い沈黙。
遠くで、笑い声がかすかに聞こえた。
それが別の世界の音のように遠く感じる。
「……明日、会える?」
その一言が、胸の奥で静かに灯る。
「……はい」
「ドライブに行こう。少しだけ、風に当たりたい」
「はい」
通話が切れる。
スマホを胸に抱きしめると、まだ微かに温かかった。
窓の外では、冬の夜がゆっくりと深まっていく。
街の灯が遠くで滲み、冷たい空気の中に溶けていった。
その静けさの底で、確かに小さな光が揺れていた。
【断章:美香】
カーテンは閉め切られている。
外の光が遮られ、部屋は灰色のまま時を止めていた。
ベッドの上で体を起こそうとして、やめる。
動く理由が思い浮かばない。
テーブルの上には、冷めたお茶と開きっぱなしのスマホ。
画面には「美香、元気?」という通知が三つ。
既読はつけず、静かに伏せた。
——誰にも会いたくない。
その言葉が、息のように漏れる。
音もなく、部屋の静けさに吸い込まれていった。
ドアの向こうから、母の声がした。
「美香、ごはん食べなさい」
扉が少しだけ開き、細い光と母の影が差し込む。
「まだ……遥斗さんのこと、忘れられないの?」
私は顔を背けた。
「お母さん、出てって」
「……分かった。でも何か食べてね」
扉が閉まる。
その音が、部屋の空気をわずかに震わせた。
私は枕を抱きしめ、目を閉じる。
涙は出なかった。
もう、涸れてしまったのかもしれない。
部屋に静けさが戻る。
枕元のスマホが光った。
写真フォルダを開く。
そこには、笑っている自分と彼。
海辺。夕焼け。寄り添う二人。
指が震え、画面が滲む。
「どうして、あんな顔してたんだろう」
あの日の光景が蘇る。
彼の表情。硬い声。
両親の前で、淡々と告げられた言葉。
「……私、何を間違えたの」
枕に顔を埋める。
声は出ない。
時計の針が、規則正しく時を刻んでいる。
その音が、まるで心臓の代わりのように部屋を満たしていた。
ふと、スマホを開いた。
指が「莉緒」の名前の上で止まる。
メッセージを打ちかける。
『莉緒さん、遥斗のこと……知っていますか?』
一瞬、送信ボタンに触れる。
けれど、押せなかった。
——聞くのが怖い。
知ってしまったら、もう戻れないから。
文を消し、画面を閉じる。
スマホを胸の前で抱きしめ、目を閉じた。
外では、風の音が続いている。
その音が、遠くへ遠くへ、何かを運んでいくようだった。
——続く。




