第11話 光の底 ―青の静寂―
十二月第三週、土曜日の朝―—莉緒
冬の空の下、二人を乗せた車がゆっくりと街を離れていく。
最初は、言葉もなく。
タイヤの音だけが一定のリズムで流れていた。
窓の外、景色が少しずつ変わる。
ビルが減り、田畑が広がり、やがて地平の先に海が見えた。
「……遥斗さん」
声を出すと、自分の声が思ったより小さく響いた。
「うん?」
彼は前を向いたまま答える。
「無理、してませんか」
信号が赤に変わる。
車が止まり、静けさが車内を満たした。
遥斗さんはハンドルから手を離し、ゆっくりこちらを見た。
「大丈夫。……こうして運転してると、落ち着くんだ」
青に変わる。
車が再び動き出すと、彼の指先がそっと私の手に触れた。
「……温かいですね」
言った瞬間、自分でも驚くほど穏やかな声だった。
遥斗さんは、小さく笑う。
「冬のせいかな」
二人の手は離れないまま。
エンジン音と風の音が、同じ速さで流れていく。
窓の外、冬の光が海面に反射していた。
その眩しさが、どこか現実のものではないように見えた。
♦
海辺に着いた。
車を降りると、冷たい風が頬を撫でた。
灰色の海。
波の音が途切れ、また寄せてくる。
遠くでカモメが鳴いていた。
防波堤の上、私と遥斗さんは並んで立つ。
水平線の向こうに、薄い光が滲んでいる。
言葉はなかった。
それでも、沈黙がやさしく満ちていた。
「……寒いね」
遥斗さんの声が風に混じる。
「でも、綺麗」
そう答えると、彼はかすかに笑った。
そして、そっと私を抱き寄せる。
胸の奥に残る痛みが、彼の体温に触れて静かに溶けていく。
私は目を閉じた。
その温もりが、ほんの一瞬の夢のように思えた。
風の音が、二人の呼吸をさらっていく。
波が砕け、泡が消える。
その儚さが、いまの私たちの形そのもののようだった。
しばらくして、私が小さく呟いた。
「……人を好きになるって、こんなに怖いんですね」
遥斗さんは何も言わず、腕の力を少しだけ強めた。
「……うん。
それでも、誰かを想いたいと思う」
その声が、胸の奥に静かに届く。
私は彼の腕の中で、小さく頷いた。
「私も。……もう、嘘をつきたくないから」
「……俺もだ」
言葉の後、二人の間に長い沈黙が落ちた。
波が砕け、泡が散り、また寄せてくる。
その白い軌跡が、どこか儚く美しかった。
——時が止まればいいのに。
そう思った瞬間、風が少し強くなった。
髪が揺れ、現実が戻ってくる。
波の音だけが、変わらずに続いていた。
♦
同日の昼
海辺のレストランに入る。
窓の外では、冬の陽が波に反射していた。
淡い光がテーブルの上に広がり、二人の影をやわらかく重ねる。
パスタの湯気がゆらぎ、潮の香りが漂う。
遥斗さんがフォークを差し出した。
「これ、美味しいよ。……ひと口、食べてみる?」
私は頷き、そっと口を開ける。
「……うん。ほんとだ、美味しい」
「こっちもどうぞ」
今度は私が一口分を取り、彼に差し出した。
互いに食べさせ合い、自然に笑いがこぼれる。
その笑顔の奥に、わずかな迷いが滲む。
それでも、二人は笑い続けた。
会話が途切れる。
窓の外で波が静かに砕ける音だけが残る。
「……変だな。嬉しいのに、胸が少し痛い」
遥斗さんの言葉に、私は視線を上げた。
「……分かります。私も」
一瞬、目が合う。
言葉を探しかけて、どちらともなく笑った。
カップの縁に光が反射し、テーブルの上でかすかに揺れた。
「それでも……今の時間が好きです」
私の言葉に、遥斗さんは静かに頷く。
「……俺も」
それだけ言って、再びスプーンを取る。
海からの風がカーテンをゆるやかに揺らした。
♦
同日の夜――
海沿いのホテル。
窓の外では、闇と海とが細い線で分かたれていた。
波の音が寄せては返し、ゆっくりと部屋の空気に溶けていく。
ワイングラスが灯りを受け、淡く揺れた。
その赤が頬に映り、遥斗さんの瞳にも小さく反射している。
「……今日、ありがとうございました」
私の言葉に、彼は首を振った。
「こちらこそ」
「遥斗さんといられて……嬉しかったです」
「……俺も」
短い沈黙。
波がひときわ強く打ち寄せ、消えた。
遥斗さんは窓の方を見たまま、小さく呟く。
「……不思議だな。幸せなのに、胸がざわつく」
私はその横顔を見つめる。
「……分かります」
言葉を探しかけて、やめた。
ただ、そっと彼の手に触れる。
「今は……この時間を、大切にしませんか」
遥斗さんは目を合わせ、静かに頷いた。
「……そうだね」
もう隠すものは何もなかった。
その安堵が、二人のあいだに静かに広がる。
夜はさらに深まり、距離が自然に縮まっていく。
波の音が遠のき、窓の外に月が昇った。
私は彼の腕の中で、そっと息を吐く。
彼は私の髪に触れ、その温もりを確かめた。
——この時間が、永遠であってほしい。
二人は、同じ願いを胸に抱いた。
けれどその願いは、波の音に溶け、静かに消えていった。
♦
十二月第三週、日曜日の夜―—遥斗
莉緒を送り届け、深夜に帰宅した。
靴を脱ぎ、灯りもつけずにベッドへ倒れ込む。
海の潮の匂いが、まだ微かに残っている気がした。
目を閉じても、眠れない。
——この週末は、確かに幸せだった。
その言葉を心の中で繰り返す。
——なのに、胸のどこかがまだ冷たい。
ふいに、あの日の光景がよぎる。
泣きながら顔を背けた彼女。
その声が、呼吸のたびに蘇る。
「……ごめん」
自分の声が、闇の中に落ちた。
胸の奥が軋むように痛い。
天井を見つめながら思う。
——俺は、本当にこの幸福を受け取っていいのだろうか。
——いつかきっと、何かを失う気がする。
スマホを手に取る。
画面に浮かぶ莉緒の笑顔が、暗闇を少しだけ照らした。
短くメッセージを打つ。
「今日はありがとう。おやすみ」
数分後、返信が届く。
「こちらこそ。楽しかったです。おやすみなさい」
画面の光がゆっくりと消える。
俺は小さく息を吐いた。
「……ああ」
眠れないまま、夜が静かに流れていった。
♦
十二月二十四日の夜――遥斗。
クリスマスイブ。
街は灯りに満ち、人々が誰かのもとへ急いでいる。
駅前の雑踏の中、俺は少し早く着き、手にした小さな箱を見つめた。
ショーウィンドウの光が、ガラス越しに顔を淡く照らす。
その反射の中で、指先がかすかに震える。
何度も箱の重さを確かめる。
小さいのに、妙に手のひらに残る重さだった。
ふと、背後から足音が近づく。
「……待った?」
振り返ると、莉緒が少し息を切らして立っていた。
「ううん。今来たところ」
二人の視線が合う。
笑顔が交わり、言葉が途切れる。
その静かな一瞬に、
——ようやく辿り着いた『今日』の重みがあった。
小さな個室。
キャンドルの光が、白い皿の縁に反射して揺れていた。
グラスが触れ合う音が、静けさをひときわ際立たせる。
料理が運ばれ、二人はゆっくりと箸を取った。
言葉は少ない。
それでも、同じ空気を吸っているだけで十分だった。
莉緒がふと笑う。
その微笑みに、長い冬の夜が少しだけ柔らかくなる。
——この静けさが、ずっと続けばいい。
そう思いながら、俺はグラスを傾けた。
キャンドルの炎が、その赤を透かして揺れていた。
食事が終わると、ポケットの中から小さな箱を取り出した。
「……これ」
莉緒が息を呑む。
箱を開けると、小ぶりのネックレスが灯りを受けて静かに揺れた。
「……ありがとう」
その声は、かすかに震えていた。
「つけてあげる」
莉緒が首を傾ける。
金具を留めるとき、指先がほんの少し震えた。
肌の温もりが触れ、息が止まる。
「……似合ってるよ」
莉緒は照れたように笑った。
「本当?」
「ああ」
その笑顔を見ているだけで、胸の奥が少し痛んだ。
莉緒は小さなバッグを開き、包みを差し出す。
「じゃあ、今度は私の番」
包みを解くと、深い茶色の革ベルトの腕時計が現れた。
落ち着いた光沢が、時間そのもののように見えた。
莉緒はそれを俺の手首に巻きながら、静かに呟く。
「……時間を、ちゃんと見てくれますように」
その言葉が、胸の奥にやさしく沈む。
「……ありがとう。大切にするよ」
二人、自然に笑い合う。
ワインの香りが淡く広がり、世界が少し滲んで見えた。
食後、街に出た。
並木道には光が流れ、雪の代わりに粉のような白い粒が舞っている。
手をつないで歩く。
指先が冷たくて、それでも離せなかった。
「……きれい」
莉緒が小さく呟く。
「本当だね」
その声が、冬の空気に柔らかく溶けた。
巨大なツリーの前で足を止める。
枝のひとつひとつに灯りが宿り、静かに瞬いていた。
俺はスマホを取り出し、構える。
「ほら、こっち向いて」
シャッターの音が響く。
「……私も撮らせて」
二人で顔を寄せ、もう一枚。
画面の中のふたりは、ただ幸せそうに笑っていた。
——その笑顔が、どこか遠い未来の記憶のように思えた。
街の光が遠くまで滲む公園。
並んで腰を下ろすと、ベンチの冷たさが背に伝わった。
自販機で買った缶コーヒーから、白い湯気が立つ。
風が吹き抜け、イルミネーションの灯りがかすかに揺れる。
しばらく、何も言わなかった。
ただ、遠くの笑い声だけが聞こえた。
やがて、莉緒が小さく呟く。
「……あの人、今頃どうしてるんでしょうね」
俺は少しだけ間を置いて答える。
「……きっと、まだ痛い思いをしてる」
その言葉に、莉緒は息を呑んだ。
ふたりの間に、冷たい冬の空気が流れる。
「……私たち、どうしてこんなに静かなのに、苦しいんでしょうね」
缶コーヒーを握る手に力が入る。
「……分からない。でも、もう戻れない」
莉緒は小さく頷いた。
「だから……せめて、優しくありたいですね」
その声が、夜の空気に溶けていく。
俺はその横顔を見つめた。
「……ああ」
手を伸ばすと、光の粒が指先で弾けたように見えた。
俺はそっと莉緒を抱き寄せる。
言葉はなかった。
ただ、温もりだけが確かにそこにあった。
唇が触れた瞬間、世界が少し遠のいた。
風の音も、光も、すべてが静かに滲んでいった。
その夜、街は静かに光を滲ませていた。
タクシーの後部座席で、莉緒は窓の外を見つめている。
流れる灯が頬を照らし、彼女は小さく唇を動かした。
——どうか、誰もこれ以上傷つきませんように。
その祈りが誰に向けられたものなのか、
彼女自身にも分からなかった。
一方、遥斗は別の場所で、ひとり夜道を歩いていた。
吐く息が白く揺れ、その中でただ二つの言葉がこぼれる。
——ありがとう。
——ごめん。
街の灯が遠ざかり、冬の夜がふたりを静かに包み込んでいった。
【断章:美香】
同じ夜。
カーテンの隙間から、遠くのイルミネーションが滲んで見えた。
テレビの音だけが、薄く部屋に流れている。
笑い声が響くたびに、リモコンを手に取り、ボリュームを下げた。
スマホの画面が光る。
「メリークリスマス!」
友人からのメッセージ。
指先が止まり、既読だけが残る。
——返せない。何を言えばいいのか分からない。
写真フォルダを開く。
去年の夜、並んで笑うふたり。
ガラス越しの光が、頬をやわらかく照らしていた。
「……あのときは、永遠だと思ってた」
指で画面を閉じる。
光が消えると、部屋の空気が一段と冷たく感じられた。
窓の外では、コートの襟を寄せ合うカップルが歩いていく。
笑い声が風に混じり、かすかに届いた。
私は窓に額を寄せ、そっと目を閉じる。
「……いま、どこにいるんだろう」
「誰と、笑ってるんだろう」
頭の奥で、小さな声がささやく。
——まさか。
その続きを思い浮かべた瞬間、胸の奥がきしんだ。
反射的に首を振る。
「違う。そんなはず、ない」
それでも、胸の奥のざらつきは消えなかった。
外では風が強まり、窓ガラスがわずかに鳴った。
部屋の時計の針が、静かに時を刻んでいる。
スマホの光が消え、暗闇がゆっくり戻ってきた。
私は枕を抱きしめる。
「……メリークリスマス、なんて言えない」
唇だけが動いた。
声は出なかった。
ただ、涙が静かに頬を伝い、
枕を濡らしていった。
——続く。




