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恋の花咲くこともある。─蝶々姫第一章─  作者: 薄氷恋
第一章 恋の花咲くこともある
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3・夜会

 ラゼリードは、日が完全に沈んだ後の薄暗いルクラァン王宮の回廊を、一人足早に歩いていた。

 歩みを進める度に聞こえる、ドレスの下に幾重にも重ねたペチコートとパニエの衣擦れの音。彼女の足音とその音だけが回廊に小さく響く。

 他に歩いている者は誰も居ない。夜会の最中に抜けて来たからだ。

 ヨルデンを始めとした供の者も付いてはいない。

 夜会では供を連れ歩く事はせず、一人でホールを歩き回るのが原則である為に。

 今はそれがラゼリードにとっては不満の種の一つであり、ヨルデンら侍従達には幸運だったと言える。

 何故なら、ラゼリードに八つ当たりされずに済むから。

 ラゼリードは今現在、機嫌の悪いこと甚だしかった。

 それもその筈、彼女はつい先程まで参加していた夜会の間中、ルクラァンの貴族連中に囲まれて質問責めにされていたのだ。


 訪問の意図を問う者や、滞在期間、カテュリアの事をあれやこれやと訊ねる者達は、まだまともな部類だったといえる。

 最も図々しく不躾な者達は、ラゼリードに面と向かって性別の事を訊いた。

 本当に性別が二つあるのか、と。

 公衆の面前だというのに、男の姿に変わって見せろと言う者も居た。

 何故に見せ物紛いの扱いを受けなければならないのか。心の中では怒りを渦巻かせながらもラゼリードは黙って耐えた。

 強張る唇をぎこちなく動かして断ると、彼女の機嫌を損ねた事に気付いた良識ある者達が、慌てて不躾な者を諫め始めた。

 それがまた彼女の癇に障った。

 慌てるくらいなら、はなっからそのような者達が自分に近付かない様に見張っていて欲しかったと、ラゼリードは思う。

 彼女はもはや完全に気分を害し、取り巻く者達を見もせずに、化粧を直すとだけ言い捨ててその場を辞した。


 今頃、あの場に居た者は自分の事を何と噂しているだろう。

 社交界ではそう珍しくもない些細な悪意を、上手くかわす事も出来ない未熟者と思われたのは間違いない。

 追加で、世にも珍しい見せ物を出し惜しみした、けちだとでも思われているかも知れない。

 それに、ルクラァンの貴族は流石に精霊が多かった。元は人間であり、精霊へと転化したラゼリードを良く思わない者も居ただろう。

 またあらぬことを噂されているかも知れない。

 生まれも特異であれば育ちも特異な彼女には、19歳にして既につっつかれると痛い醜聞(スキャンダル)があった。

 先程は性別の事をからかわれただけで済んで本当に良かった。

 もしその件について触れられていたら、相手をどうしていたか解らない。

 無論、相手をどうにかしたりすれば国際問題に発展していた所だ。

 どちらが悪かったにせよ、あまりに外聞が悪い。


(社交界って……面倒臭い……)


 憂いた表情のラゼリードは、溜息を吐きながら化粧室の扉をくぐり抜けた。


「重い溜息ですのね。何か憂い事がおありですか?」


 鏡の前に向かう途中に背後から声を掛けられたラゼリードは、びくりと肩を震わせた。

 よもや夜会の真っ只中に人が居ようとは思わなかったのだ。


「驚かせてしまい、失礼致しました」


 ラゼリードが振り向くと、そこには王宮女官と同じ形で色違いの服装をした女性が深々と頭を下げていた。

 大抵の女官は浅緑のお仕着せを着ているが、この女性はえんじ色の服を着ている。


「あなたは……」


 何者かと尋ねようとしたラゼリードは、途中で言葉を切った。最初にこの化粧室に通された際に、彼女の名前を聞いたのを思い出したからだ。


「確か、ロンサーユ伯爵夫人でしたね。顔をお上げなさい」


「はい。マリア・ロンサーユと申します。ロンサーユ家に嫁いで社交界を引退した後、国王様のご命によりお客様のお世話係に任じられました」


 顔を上げたマリアは、赤みを帯びた金髪と緑の瞳が美しかった。

 控えめに微笑むと頬にえくぼが刻まれ、既婚女性の筈なのに存外幼く見える。


「そう。そのお仕事は長いの?」


「5年程でしょうか。長いとはとても言えませぬ」


「わたくしには長く感じられるわ。では貴方に聞きましょう。わたくしはそんなに珍しい?」


「え?」


 マリアの表情が戸惑ったものに変わった。ラゼリードはそれには構わず、やや平坦に言葉を続ける。


「人間から転化した精霊で、女でも男でもない半端者の王女は珍しいかと聞いています」


「半端者だなんて……そんな、ご自分を貶める様な事を仰らないで下さい。ラゼリード様の折角の個性に傷が付きます」


「……個性?」


 ラゼリードは鼻白みかけて、慌てて感情を隠す。

 マリアはそれに気付かなかった様に、言葉を続けた。


「はい。確かに私はラゼリード様のような方にお目にかかるのは初めてですが、それはラゼリード様が他の方はお持ちではない個性を持っておられるという事です」


 ラゼリードは何か考える様に視線を逸らし、そしてマリアに視線を戻した。

 薄く微笑んでみせる。


「だとしたら素敵な事みたいね。気に入ったわ。八つ当たりしてごめんなさい」


 マリアは、刺々しい言い方を引っ込めたラゼリードに安堵した様子だった。

 たちまちに少女の様な笑みが彼女の顔に戻る。


「いえ、構いません。……それよりも、此方へはどのようなご用件でお越しですか? なんなりとお手伝い致しますわ」


「お化粧直しをお願い出来る? それに、靴を脱ぎたいわ。少し足が疲れたの」


「それではそちらの椅子へどうぞお掛け下さい。足湯をご用意出来ますが、いかがですか?」


「いいわね。お願いするわ」


 マリアは、ラゼリードが椅子に掛けて間もなく足湯の用意を済ませた。

 ドレスの裾を捲り上げ、靴を脱がせてもらった足先を、盥に張った湯に浸す。

 膝まで露出した足元には毛布が掛けられた。

 すぐさま化粧直しに入る。

 マリアは手際が良く、気配りも上手だった。

 仕事をしている彼女の顔は真剣でありながら、先程見せた笑みとはまた違う優しい笑みを浮かべていて、人生経験を積んだ女性の様に見える。

 本当に年齢不詳の女性だった。

 彼女に対して一貫して言えるのは、絶えず優しい雰囲気が漂っている事だ。

 ラゼリードは、それが心地良いと思った。


「それでね、あの方々ときたら私の髪を見て、染めてるの? とか訊くのよ」


「ラゼリード様の御髪は、水精にもなかなか見られない混じりけの無い美しい銀色ですから。妬みの毒矢を射られたんですわ」


「嫌な感じだわ」


「お気になさる必要は御座いません。紅を塗り直します、唇を少し開けて下さいませ」


 心持ち開けた唇を紅筆でなぞられながら、ラゼリードはぼんやりと心地良い空気にたゆとう。

 マリアは優しい。

 ただ優しいだけではなく、ラゼリードが吐くものが愚痴であろうと卑下であろうと受け止め、間違っていればやんわりと正してくれる。

 ラゼリードはあっさりとこの伯爵夫人に心を許した。

 彼女にならば、話しても良いかも知れない。


「ねぇ、マリア」


「なんでございましょう」


「ルクラァンでも結婚とは相手を選べないものなの?」


「貴族同士の婚姻についての説明は必要ないと思われます。市井の者は自由に恋をし、親の許しさえあれば自由に結婚している様です。ですが、異種族婚……精霊と人間の間ではまた別の話です」


「そう……。カテュリアと同じね」


 ラゼリードが微かに声に落胆の色を落とし、長く濃い睫毛を伏せたのをマリアは見逃していなかった。


「結婚のお悩みですか?」


「いいえ、今は特には」


 ラゼリードは緩く首を左右に振ると、マリアの方へほんの少し身を乗り出した。


「答えにくい事を訊ねてもいいかしら? マリアは恋愛婚でロンサーユ家に嫁いだの? それとも政略婚?」


「夫は恋愛婚ですが、私は政略婚でした。私は夫……ロンサーユ伯に見初められたのです」


「それで? 幸せになれたの?」


 あまりにも単刀直入なラゼリードの言葉にマリアは少し面食らう。マリアが今まで会話した貴婦人は、そんな時は「まぁ、素敵」としか言わなかったものだから。

 マリアはラゼリードの瞳を見た。彼女の瞳に嫌味や妬み、適当に訊ねている様子は無い。本気で訊ねている。

 だからマリアは夫の顔を心中に浮かべてみる。マリアにとっては初対面の夫が、頬を赤らめて求婚してきたその時を。

 唇が自然と綻ぶ。


「幸せですわ」


 マリアがまた少女の様に微笑んだ。


「そう。ならいいの」


 ラゼリードも微笑みを浮かべる。だが、その微笑みはあまりに儚い。


「ラゼリード様?」


 そのまま大気に溶けてしまいそうな雰囲気の彼女が心配になり、マリアはラゼリードの手袋を填めた左手を両手で包んだ。

 マリアはふと、その手に違和感を覚えた。

 手袋越しに金属らしき固い物が手に触れたのだ。


「ラゼリード様、指輪をなさってらっしゃいますか?」


 ラゼリードの表情が曇った。消えてなくなりそうな雰囲気は薄れたが、その代わりに泣きそうな顔をしている。


「違うの。わたくしが望んで指に填めたものではないの」


 ラゼリードはゆっくりと、片手で長手袋の留め金を上から順に外し始めた。マリアがそれを手伝い、途中から以降はマリアが手袋を脱がせた。

 現れたのは真紅の綱玉。それも未来を契る左手の薬指に。


「まぁ、見事な指輪……」


 マリアは感嘆の声を抑えられなかった。

 どんな男性がこの姫にこの指輪を贈ったのだろう。

 ラゼリードは目を閉じて首を左右に振る。


「わたくしの指輪はこれじゃない」


「ラゼリード様?」


「もうその指には指輪を填めたりしないと誓ったの。生まれて初めて頂いた指輪が…………壊れた時から。だから本当は身に付けていたくないのに、外れないの……」


 噛み締めた紅い唇から漏れたのは、悲痛な声だった。

 そのまま泣き出してしまいそうな声なのに、睫毛には涙の一滴も滲んではいない。

 泣かないのではなく、泣けないのかも知れない。

 マリアはラゼリードに指輪の事を問うべきではなかったのだと、今更ながら気付いた。

 どんな事情があるかは分からない。この姫の為に自分が何を出来るかも分からない。

 それでもマリアは彼女の気持ちを思い、両手でラゼリードの左手を取った。


 その時。


 かつかつかつ、と廊下から派手な足音が聞こえたかと思うと、不意に化粧室の扉がノックも無しに開いた。


「ハルモニア! 此処は女性用の化粧室だと何度言えば解る? 子供だとて……」


 ラゼリードはハッと顔を上げた。マリアも素早く背後を振り向く。

 化粧室の扉を開けたのは黒髪を肩まで伸ばし、手入れの行き届いた顎髭をうっすら蓄えた若く美しい青年だった。

 ラゼリードが、こぼれ落ちそうな程に目を見開く。

 ラゼリードとマリアの二人しか居なかった化粧室は、蜂の巣をつついた様な騒ぎとなった。


「エ、エルダナ様!?」


「きゃああああ! 国王陛下!!!?」


 慌てて立ち上がろうと腰を浮かせたラゼリードの膝から毛布がつるりと滑り落ちた。滑りの悪いパニエは上がったまま。

 脚は丸出しだ。


「きゃっ!」


 ラゼリードが真っ赤な顔でドレスの裾を引き下ろした。

 が、その裾が盥の温くなってきた湯に浸る。


「ラゼリード様! 裾が!」


 マリアがラゼリードの手を放して彼女のドレスの裾を託し上げる。


「駄目っ! エルダナ様が…! きゃあっ」


 慌てたラゼリードが足を滑らせ、椅子に倒れ込む。盥がひっくり返った。床は水浸しだ。

 国王が背を向けて目を手で覆う。


「見てないよ、私は何も見ていない!」


 真っ赤な顔で呆然と椅子に座り込むラゼリードの耳に、言い訳する様な男性の声が聞こえた。

 きっと見られたに違いない。


「嘘おっしゃいませ!」


「嘘じゃない」


「陛下! 此処は女性用の化粧室ですのよ!」


「解っている! すまなかった。……いや、大変な失礼を……」


 だが国王エルダナは背を向けたまま謝ろうとも、退出はしなかった。


「陛下……ですから此処は殿方のいらっしゃる所では……」


「解っている。しかしハルモニアが此処に居るだろう?」


 マリアがえっ、と声を上げた。


「殿下は此処にはいらっしゃいませんが……」


「そんな筈は無い。確かに此処に……。……失礼」


「陛下!?」


 ラゼリードの側に派手な足音が近付いてくる。国王は躊躇いもなく濡れた床に跪き、ラゼリードの左手を恭しく取った。

 ラゼリードは驚きと羞恥のあまり、声も出ない。

 エルダナが指輪に目を落とし、顔から血の気を無くす。


「まさかこんな事になろうとはな……あやつめ……」


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