逃避
そうして真っ赤な星を逃げだした先にも、星のみちはずっと向こうまでつづいていました。次の星、また次の星――ぼくは気が遠くなるような思いがしました。こうしてずっと星から星へ旅をして、いやな思いをしなければならないのだろうか。ほんとうに喜びはあるのだろうか。そう思ったのです。そのとき、ぼくのなかでひとつの考えがめばえました。
『星のみちから外れて旅をしてみよう』
そうすれば、もしかするとひとりになれるかもしれませんでした。ぼくはこころを決め、櫂をふたたび両手にもち、力いっぱいこぎはじめました。あいかわらず手応えはありませんでしたが、それでも必死にこぎつづけると、みちの外側へ少しずつ近づいているのが分かりました。どれくらいの時間、こぎつづけたかはわかりません。それにしても、舟幅の四倍くらいの距離を進みきるのにどれだけの時間がかかったことでしょう!
とうとう、ぼくの舟は星のみちのはしまで来ました。ここから、あとひとかきでもすれば、ぼくは星の光の届かない暗い場所へと投げだされることでしょう。星のみちは、星のあいだを通っているのであって、星のないところにはほとんどないのです。ですから、星のみちを抜けることは、ほとんど星のないところへ行くことを意味します。
ぼくは迷いました。このまま、みちにしたがえば、いやなことはたくさんあっても、迷うことなく生きていけるだろう。でも。
「ぼくはひとりになりたいんだ。だれもいないところへ行きたい」
ひとりごとがぼくの口からもれでました。
それはぼくの真実でした。こころがそう訴えていたのです。
あまり時間はありませんでした。なぜなら、こうしているあいだにも、ぼくの舟はまたもとのところへ押し流されてしまうからです。星のみちが持つ力もまた強く、ぼくがなんとか抵抗すれば、ぼくの思うところにいけますが、そうしなければ勝手に流されるだけなのです。ぼくは何度か見たことがあります。ぼくのような旅人が気力を失い、うなだれながら舟と一緒に流されているのを。彼もぼくのようにいやになったのでしょうか、星をめぐること、旅をすること、そして、生きていることが。
ぼくはマントを握りしめました。華奢なからだをおさえ、自分を勇気づけたのです。
『行くんだ、行かねばなるまいよ!』
次の瞬間、ぼくは暗いうみへ投げだされました。
自分をしばっていた何かから解きはなたれ、その反動で舟が加速しているようにも思えました。ぐんぐん、ぐんぐん、やみの中を進んでいきます。ぼくはふるさとで自転車に乗ったことを思い出しました。ある秋の晴れた日、長い坂道を、ブレーキをかけずにくだっていったこと。どんどんスピードが上がり、ぼくのからだを風がつつみこんだこと。ああ、あの風の冷たさ、あの清々しさ!
このうみには風がありませんでしたから、それとまったく同じ体験をしたわけではありませんが、でも、何かがからだを包む感覚はよく似ていました。ぼくの体を包んでいたのはやみでした。とっても暗いので、ぼくの体はよく見えません。まるで、ぼくのからだがやみになってしまったかのようでした。自分の腕、肩、足――それらが真っ黒な〝もや〟のように見えるのです。もしや、ぼくのからだはなくなってしまったのかしら? そんなことすら考えました。
ふと、ぼくはランタンのことを思い出しました。
ええ、ぼくの大切な旅のおともです。でも、炎を見たくなくて、しばらく消しておいたのです。ぼくは手さぐりで懐からマッチを取りだし、一本をすりました。このときのマッチ一本の炎の明るさを、ぼくは忘れることができません。マッチのオレンジ色の炎、煙の匂いに、ぼくがどれほど安心したでしょう。ぼくはそのままランタンの中のロウソクに火をともしました。
舟のなかが少し明るくなりました。望んでひとりになったとはいえ、ぼくのような臆病者にとって、いまの状況はとてもおそろしいものでした。だから、炎のあたたかさ、明るさはとってもありがたかったのです。
この間にも、舟はだんだんと速度をゆるめ、いつしか進んでいるのか止まっているのか分からないくらいになりました。ぼくはひざを抱え、ランタンの炎を見つめました。
もうだれにも会いたくないような気がしました。
ひとりは怖いけれど、でも、ずっとひとりでもいいかもしれないと思いました。
なぜって、そのときのぼくには、なにもかもがうすっぺらく、色あせて見えたんです。ほんものの星、ほんものの人に出会えていない気がしたのです。でも、ほんものってなんでしょう? 目に見えるもの、触ることができるもの? それとも、そうでないもの? それとも、そのどちらでもないのかしら?
ぼくには分かりませんでした。
ただ、ずっとこのままひとりで、静けさをこわすものを、見ずに、聞かずにいたかったのです。それをわがままだというならそうかもしれません。でも、居たくないところにいる必要がどこにあるのでしょう? 我慢すれば一人前なのでしょうか?
ほんとうはおそろしく冷たいやみが、いまはやさしく、温かく感じられました。ここは広い星のうみなのに、なんだか狭い部屋にいるような気もしました。ああ、思い出す、懐かしい我が家、ぼくの部屋! だれも入ることができない、ぼくだけの場所…
ぼくは安心して、眠ってしまいました。




