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ほんとうの星  作者: ゆうなぎ
第二章 逃避:孤独がもたらすもの、道しるべ
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楽器男、平和の音①

 たぶん、ぼくは舟の上でずいぶんと眠っていたのでしょう。次に目を覚ましたとき、ランタンの明かりは消えていましたし、からだはものすごく冷えていました。それに周りもさらに暗くなっていたのです。

 目が覚めても、ぼくのこころは止まっていました。

 何も考えられませんし、何も見たくありませんでした。ですから、このくらやみがどれほどありがたかったことか。見ようとしても見えないのです。見えないということが安心を運んできてくれるなんて、前のぼくには考えられなかったことです。

 

 そうして、ぼくが長いあいだひざを抱えて座っているところに、やみの中を一筋の光がつらぬくように、クラリネットの美しい音色が聞こえてきました。その音はぼくが今まで聞いてきたなかでもっとも澄んでいて、もっとも輝いていました。そして、ぼくの胸に向かって救いの手のように伸びてきたのです。


 『ああ、なんて美しいのだろう』

 

 ぼくはこころがふるえるのを感じました。そのふるえは、からだの芯からじんわりと広がり、ぼくを少しだけ元気づけました。

——いったいだれなのだろう、クラリネットを吹いているのは。

 そう考えていると、やがてだれかが近づいてくるのが分かりました。音はしませんでしたが、気配で分かったのです。ぼくは逃げようかどうか迷いました。それくらい、だれにも会いたくなかったのです。でも、あのクラリネットの音がぼくをとらえて離しませんでした。音が、見えないはずの音が、ぼくに逃げることを許さなかったのです。

 ぼくが顔をあげて、目を細めていると、遠くからだれかが歩いてくるのが分かりました。言い忘れていましたが、星のうみは歩くこともできるのです(ぼくは体力がないので舟を選びましたが)。でも、こんな暗いところをひとりで、しかも歩いているなんて! まったく信じられませんでした。

 ぼくは近づいてくる人の顔を見ようと、ふたたびランタンに火をともし、前方を照らしました。みれば、向かってくるのは男の人のようでした。彼もぼくの姿をみとめると、クラリネットを左手に持ちかえ、右手でかぶっていた上等なハットをはずし、ぼくにあいさつをしてくれました。


 「やあ、坊ちゃん、こんばんは」

 

 そう、この人がクラリネットを吹いていたのです。色の白い、ほっそりとした男の人でした。でも、この男の人の格好は、ぼくには少し恐ろしく思えました。なぜって、からだじゅうに楽器がくっついていたからです!

 右肩にバイオリン、左肩にはホルン、お腹にはスネアドラム、右太ももにはオーボエ、左太ももにはフルート、そして、背中にはチェロ。そして、それらのあいだにカスタネット、タンバリン、トライアングル、ハーモニカなどの小さな楽器がところ狭しとくっついていました。ぼくは彼を見てこっけいだとは思いませんでした。むしろ、楽器のお化けのように見えたのです。ぼくはふるえて何も言えませんでした。せっかくあいさつをしてくれているのに。まったく、ぼくってなんて臆病なやつなんでしょう!


 「坊ちゃん、怖がることはないですよ」

 

 その声は男の人にしては高く、優しさがこもっていました。ですから、ぼくもそれに安心して、ようやくあいさつを返したのです。


 「こ、こんばんは。あなたは?」

 「私は楽器男です」と、クラリネットとフルートを付けかえながら言います。

 どうやら、彼は身につけている楽器を自由に取り外しできるようでした。


 「そのたくさんの楽器、ぜんぶ弾けるの?」

 「もちろんですよ、でなきゃ持っている意味がありませんからね」

 「さっきの曲、なんです?」

 「さっきの曲?」楽器男は首をかしげます。

 それと同時にカスタネットが乾いた音を発しました。タンッ!

 「クラリネットで吹いていたでしょ」

 「ああ、あれはね、昔の大音楽家が作った曲でね。クラリネットの協奏曲ですよ。でも、私はひとりですからね、他の楽器のパートは弾いていませんでしたよ。そう、クラリネットだけ。私、あの最初の何小節かが特に好きなんです」

 「ぼくもその曲好きです」

 そう、ぼくの好きなもののひとつが音楽だったのです。ふるさとの星では、ピアノやギターは弾いていましたが、クラリネットは触ったこともありませんでした。ですから、クラリネットの音を実際に聴いてみて、その美しさにおどろいたのです。

 「それはうれしいですね!」

 「あなたはそんなに楽器を持ってどこへ行くのです?」

 「別にどこにも行きはしませんよ。私はね、自由に旅をして、行く先々でこころをこめて演奏できればそれでいいんです」

 「それでいいの?」

 「ええ、そうです。満足すべきもので満足せねば。でなくちゃ、自分がすでに持っているものの価値に気がつかずに生きていくことになります。私は幸いにも楽器が弾けます。たくさんの曲を覚えていますし、曲をつくることもできます。それに感謝して生きていくのですよ」


 ぼくは楽器男の顔がとてもおだやかで満ち足りているのを見ました。うそじゃなかったんです。彼はほんとうに音楽が好きで、そのなかに生きていたんです。みなさんは音楽を見たことがないと思います。ぼくもそうです。音は見ることができませんからね。ですから、もしかすると、いまのぼくの言葉を変に感じた人もいるかもしれません。

 でも、確かにいるんです。見えないものに価値を見いだして、それに向かって歩いていくひとが。ぼくはそれをうらやましく思います。だって、見えるものはいつか消えてしまいますが、見えないものは消えないいのちを持っていますからね。消えないものとともに生きていけたら、あれこれと見えるものを追いかけなくてすむじゃないですか。それによって他の人を傷つけることもなくなるじゃないですか。


 「ねえ、坊ちゃん、ここで会ったのもなにかの縁でしょう。どうです、いっしょに演奏しませんか。見たところ、あなたは楽器を持っていないようだから、私のからだをひとつお貸ししましょう。どれが良いですか?」


 ぼくはさんざん迷ったあげく、あなたの背中のチェロを貸してほしいと頼みました。チェロはギターと同じ弦楽器ですから、なんとか弾けるかもしれないと思ったのです。


 「分かりました」

 と、フルートとバイオリンを持ちかえます。

 「では、私はバイオリンにしましょう。あれはどこにいったかな」

 と、楽器男はからだじゅうに手を当て、なにかを探しました。そして、右太ももと左太ももからそれぞれ枝のように伸びていた弓を探しあてると「あった、ありました」と言いました。

 「こっちは私のもの、こっちはあなたのものです」

 バイオリンとチェロでは使う弓がちがうのだと、楽器男は、ぼくに弓を渡しながら教えてくれました。

 「では、まあ、適当に弾いていきましょう。なにしろ、初めてのチェロだそうですからね。慣れないことには」

 

 こうして、ぼくは楽器男の指導のもとチェロを練習することになったのです。ぼくは舟からおり、舟をうらがえし、いすがわりにしました。チェロは座って弾くものだからです。そして、楽器男とぼくのランタンにふたつとも火をつけて、暗いなかでも演奏できるようにしました。

 ぼくらは夢のような場所で演奏しようとしていたんです。

 暗く、現実味のない、そんな場所で。

 はじめて弾く楽器はやはり難しいものでした。なかなかきれいに音が出てくれませんし、長いあいだ弾いていると、弦をおさえている手も痛くなります。それでも、ぼくは一生けん命練習しました。楽器男と一曲演奏するために。

 だれかとこんなに一緒にいるのはこれがはじめてでした。ぼくはこれからしばらく、だれかといっしょにいることが多くなるのですが、それは彼がはじめてのことだったのです。楽器男は多くを語らず、ただ演奏することによって何かを伝えようとしていました。ぼくはまだまだ暗い気持ちを引きずっていましたから、ほんとうにありがたいことでした。あまり色々としゃべられても、どう返せばいいか分かりませんもの。

 それで、ぼくは彼と一緒にいることが好きになったんですね。


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