別離
そのときのことは、いまでもよく覚えています。
ぼくらはともに目覚めたあと、エリカの木のあいだをかけまわったり、星のいろんなところでお話をしていたんです。ええ、いつもと同じような時間でした。こころがとってもおだやかで、それが何にもじゃまされないのです。ぼくは、そのときもそれがずっとつづけば良いなと願っていました。
でも、その願いはかないませんでした。
時がすぎ、ぼくらが寝る時間になると、外から、何やら「ごう、ごう」と低くうなるような音が聞こえてきたのです。
「な、なんだろうね…」
ぼくは恐ろしくなって、目の前に座っていた坊ちゃんに話しかけました。
でも、坊ちゃんはそれには答えず、
「ぼく、いってくるよ」とにこやかに言いながら、立ち上がったのです。
「いくってどこへ?」
「大きな音が近づいている。ぼくはその音を止めなきゃいけない。ぼくの星にもついにやってきたんだよ」
「なにがさ!」ぼくはたまらなくなって叫びました。
「ぼくの星をこわすものだよ」
そのとき、ぼくは、しばらく忘れていたあの岩のかたまりを思い出したのです。いろいろな星にぶつかっては、星を傷つけたり、こわしたりする、あの悪魔のような岩のかたまりを。こんな遠いところにもやってくるのかと、ぼくは恐ろしくなりました。
「どうしてここに来るのさ。これまでの長いあいだ、来なかったんだろう」
「ねえ、ぼくの友だち。あなたは知っているはずだよ。あなたの好きな楽器男が言っていたことさ。時は止まらない。ぼくもあなたも、ぼくらの住む星もほかの星も、いつかは消えてしまう。永遠じゃないんだ。でも、ぼくは、この星を永遠にしたい。だから、行くんだよ」
ぼくには、坊ちゃんがいったい何をしようとしているのか、まったく見当もつきませんでした。でも、坊ちゃんだけを行かせるわけにもいかず、ぼくらはいっしょに家を出たのです。
遠くに、それほど大きくはない岩のかたまりが近づいてくるのが見えました。大きくはないといっても、坊ちゃんの小さな星をこわすに十分な大きさです。もし、ぼくらが岩にぶつかったとしたら、そのとき、ぼくらは生きてはいないでしょう。岩のかたまりはどこか遠いところからやってきていて、そのぶん、勢いがあるのです。
「ね、とってもひどいお願いごとをするぼくを許してくれるかい…?」
坊ちゃんは申しわけなさそうにぼくの手をとり、ぼくの目をじっと見つめながら言いました。
「なにさ、坊ちゃん…」ぼくはふるえていました。
きっと良くないことが起こるだろうって思っていたんです。
「あなたの、あなたの大切な舟を、ぼくに、くれない?」
「なにをするつもりなの、坊ちゃん」
ぼくは自分の舟よりも坊ちゃんの方が心配でした。
「ぼくは、ぼくらの星を、そして友だちを守らなきゃいけない。だから、あの岩に向かっていかなくちゃ」
「どうして。いっしょに逃げればいいじゃないか。たしかにこの星はきみにとって大切なものだ。でも、それがきみ以上に大切なことってあるのかい?」
「うん、大切なんだ。この星がこわされるのは、見たくない。ね、ぼくのためなんだよ。ぼくはなにか偉いことをしようとしているわけじゃない」
「偉いことなんて、あるもんか。きみはばかだ。ぼくにはきみが止められない。なぜって、そうしてこそのきみだからだ。でも、きみは、ぼくがきみを好きだってことを知りながら、そういうことを言うんだね…」
ぼくは泣いていました。こんなに泣いたことはかつてありません。
「ね、ほんとうにすきってどういうことだと思う?」
「そんなの、しらないよ…」
「ほんとうにすきっていうのは、こころがそれに溶けてしまっていいって思えることさ。ぼくはそれを知ってる。それだけしか知らない。だから、行くんだよ」
坊ちゃんはぼくをそっと抱きしめたあと、ぼくの舟のもとへかけていきました。それから、坊ちゃんは舟に飛びのり、櫂を両手ににぎりしめて、岩のかたまりの方へとゆっくり向かっていきました。臆病なぼくは、坊ちゃんを追いかけることができませんでした。でも、この星から逃げようとも思わなかったのです。
ぼくは目をつぶって祈りました。坊ちゃんが無事に戻ってこられるように。
ああ、どうか消えないで…!
もう一度、ぼくに笑いかけておくれ…!
やがて、坊ちゃんが向かった方向から、ものすごく強い光が発せられたような気がして、ぼくは目を開きました。
遠くに坊ちゃんの姿が見えました。
ぼくはすぐに走っていきました。
暗いうみのなかに、坊ちゃんの白いすがただけが仰向けに浮かんでいました。近くには岩のかたまりも、ぼくの舟も、ありませんでした。ええ、かけらさえも。ぼくは坊ちゃんにかけより、細いからだをそっと抱きしめながら、こう言いました。
「ねえ、坊ちゃん。ぼくだよ」
ふしぎなことに、坊ちゃんのからだは汚れても、傷ついてもいませんでした。でも、まったくからだが動かないとでもいうように、坊ちゃんは力なく横たわっていたのです。
「ね、あの岩は、きえたかい…?」
坊ちゃんはゆっくりと目を開き、ぼくに向かってそう言いました。
「ああ、どこかへ行ったとも…」
「よかった。でも、あなたの舟もきえてしまったね。ほんとうにごめん」
「いいさ、舟がなくても旅はできる。ぼくはきみのように舟に愛情は注げない。大好きな舟だけど、きみの方が大事だよ」
「でも、ぼくも、もうきえてしまうよ」
「どうして。きみは変わらずきれいじゃないか…?」
「ぼくはね、全力で立ち向かった。ぼくらの星を壊そうとするものに対して、あなたの力を借りてね。それで、あなたの舟はきえちゃったわけだけど、それに乗っていたぼくがなんともないわけはないんだ…あなたの舟をこわしたから。ね、あなたは、ぼくをやっぱりばかだって思うかい?」
「ばかだよ、坊ちゃん。きみはばかだ…ぼくは寂しいよ」
「ぼくがこうしなくたって、いつかは星もきえてしまうだろう。形のあるものはいつかきえてしまうからね。でも、ぼくはほんとうに好きなもののために、この身をかけなきゃいけなかった。星がきえるところを遠くからながめるなんてできなかったんだ…ぼくのこころが星には宿っているから。そして、星もぼくのこころに宿っているんだ」
「もうしゃべってはいけないよ、坊ちゃん。帰ろう、ぼくらの星へ」
「うん、帰ろう。でも、もうからだが動かないよ…」
「ぼくが運ぶよ。きみの、同志、だからね」
ぼくは坊ちゃんを抱きかかえ、ゆっくりとした足どりで星へと戻っていきました。坊ちゃんのからだは綿毛のように軽く、手をはなせば、どこまでも飛んでいってしまいそうでした。だから、ぼくは坊ちゃんをしっかりと優しく抱きしめたのです。
「ふふっ」坊ちゃんはぼくの腕のなかで笑いました。
坊ちゃんが笑うと、いつもからだ全体が光って見えるからふしぎです。
「どうして、わらっているの?」
「あなたに抱っこされているから」
「からだは痛くないかい?」
「痛いことなんてあるものか」
ぼくはそんなことを聞いた自分を責めました。
分かりきったことだったのです。坊ちゃんが大好きなもののうちに生きているということは。目に見えないことなので、ほかの人には分かりづらいかもしれませんが、坊ちゃんにとっては当たり前のことで、その先になにが起ころうとも「喜び」にはちがいなかったのです。
それから、長い時間をかけて、ぼくらは星へと戻ってきました。
「ね、ぼくが動かなくなったら、この星にうめて?」
「ああ、いいとも。坊ちゃん、きみの思うままに」
「ありがとう、ぼくの同志」
ぼくと坊ちゃんは、いつもの岩に並んで腰かけました。ぼくは坊ちゃんを支えるように肩を抱き、それから、星のうみをじっくりとながめました。
「あの星は大きいね、坊ちゃん」
「うん、そうだね…」
「ごらんよ、あの人は歩いて旅をしているんだね」
「うん、そうだね…」
「きみはいつでもとってもきれいなんだね」
「ありがとう」坊ちゃんは目を閉じながら言います。
「ねえ、ぼくはね、消えるものを消えないようにしたかった。ぼくらの星のすべてやあなたを、ぼくのこころのなかで永遠にしたかったんだ」
「そのために、きみも消えるっているのかい?」
坊ちゃんはなにも言いませんでした。
「坊ちゃん…?」
そうして、坊ちゃんは動かなくなりました。
その顔にはやっぱり笑顔が浮かんでいました。さいごまで悲しむことを知らない坊ちゃんでした。ぼくは涙を流しませんでした。いいえ、流せなかったのです。こころにぽっかりと穴があいて、なにも考えられなくなったのです。でも、坊ちゃんのさいごの願いは叶えなければなりませんでした。
ぼくはもう一度坊ちゃんを抱きかかえ、星全体を見回しました。どこに埋めればよいのか、その場所を探すためです。でも、この星の大地には、白いエリカの木がすきまなく生えているものですから、それらを掘り返さないかぎり、坊ちゃんを埋めることなどできはしません。でも、坊ちゃんに申しわけないような気がして、ぼくはそこから動くことができませんでした。
「どうしよう…」
ぼくが途方にくれていると、ふしぎなことが起こりました。
いつの間にか、坊ちゃんのからだが、ぼくの腕から消えていたのです。もともと綿毛のように軽い坊ちゃんでしたから、重みがなくなっても気がつかなかったのです。
きっと、坊ちゃんは風になったのだと思います。
この星をエリカの花吹雪でかざる、あの風の一部になったのです。そうすれば、この星のどこへだって行けるし、どんなものともいっしょになれるじゃないですか。
坊ちゃんはきっとそういうことを望むでしょう。
そして、それ以外は望まないのです。




