26(おしまい)
三月十八日。
息の白く濁る、冬の夜に、僕は202号室の扉を叩いた。
「……はい」
「こんばんは」
意外な来客に戸惑ったような顔で、倉上さんは僕を見た。
「香住くんには、言わなかったんですね」
「え?」
「あした、自分が死ぬということを」
驚いて、言葉を失う彼女に、
「でも、あなたにはまだ、選択の余地がある」
僕は、紫色の小瓶を見せつけて、
「死ねなくなる覚悟は、ありますか?」
*
「……正直言って、全然信じられないけど」
「前もそうでしたが、持っている力の割に倉上さんは思考の柔軟さが足りていませんね」
「いや、ちょっと待って。これそういう問題?」
すべてを話して、自動販売機の前。
なにも飲みこめないような顔を、彼女はしていた。
「よく記憶を見てみてください。私……香住森一が、未来の日記の話をしている世界があるでしょう」
「あったけど……。でも、結び荘の人たちがみんなそんな変な体質を持ってて、そのうえ時崎さんが森一くんって……。そんな、めちゃくちゃな」
「あらゆる世界の私が、いまこの瞬間に同じ話をしていても、まだ信じられませんか?」
「……どの世界でも同じようなことを話すくらい、時崎さんが変な人って可能性は?」
「その可能性と、私の話、どちらが信じやすいかの問題ですね」
むむむ、と眉を寄せて、彼女は、
「時崎さんの話を、信じるよ。あ。森一くん、って呼んだ方がいい?」
「時崎で結構です。では、選択の時間ですね。そこまで猶予はないと思いますよ」
僕は、不死の薬を差し出して、
「決めてください。この薬を飲んで、永遠に生きるか。それとも飲まずにこのまま死ぬか」
最後の選択は、彼女自身に託そうと、決めていた。
無理やり飲ませることを、考えなかったわけじゃない。むしろ、そうしたいという気持ちはいまでも強く、心にある。
だって、死んでほしくない。
長い生のなかで、何人の死を看取ってきても、やっぱり、それは変わらなかった。
生きてくれる手段があるのなら……、無理にでもそれを押し付けたい。
でも、それをしなかったのは、
「あなたの命のことですから。あなたが自分で、決めてください」
自分の問題は、最後には、自分で向き合うことだと、思っているから。
僕が、僕の問題を、自分で終わらせようとしているのと同じで。
倉上さんは、不死の薬を、両手で包み込むように握った。
「……二本あればなあ。あ、いや。竹緒ちゃんに使わないでほしかった、とかいう意味じゃないんだけど。むしろ私が二本もらっても、一本は竹緒ちゃんに渡したと思うし。そうじゃなくて、なんていうか……」
彼女の言いたいことは、よくわかる。
二本あれば。あるいは、元から三本あれば。そうすれば不死になって、いつか生きていることが嫌になっても、それを解くための手段が手元に残る。
でも、それは、
「……だけど、生きたいだけ生きて、死にたくなったら死ぬなんて、傲慢すぎるか」
僕はうなずいた。
同じことを、思っていたから。
「あ、でも。時崎さん、この薬ってさ、どこから出てきたのかはわかんないんだよね?」
「そうですね」
「でも、あるってことは、作れるってことだ」
「さて、それはどうでしょう」
「え」
「人間が作れるものなのかどうかは、私にはわかりません。なにせもう千年も研究しているのに、手がかりすらつかめていませんから」
倉上さんの顔が引きつる。
「……薬を増やせば解決、って思ってたんだけど。現実は、そんなにうまくいかないか」
「そうですね。でも、いつか作り方がわかったら、お教えしますよ」
たとえわかっていても、いま、このタイミングでは教えないだろうと、僕は自分で思っている。
本当のところを言うと、見たいからだ。
「はは、期待しないで待っときます……。よし、じゃあ、気合を入れて」
倉上さんが、その紫の小瓶の蓋を開けるところを。
息を吐いて、これからのことに覚悟を決めて、
「……まだ全然、一緒に居足りないからね」
そして僕の……香住森一のために、不死の薬を飲むところを。
彼女が。
迷いなんて一切ないように、その薬を、飲み干すところを。
ごくん、と彼女の白い喉が動く。
戻れなくなったことを、知らせる合図。
「……時崎さん、すごい笑顔じゃん」
「私だって、香住森一のひとりですからね。倉上さんがそこまでしてくれるところを見たら、うれしいですよ」
「でもびっくりするだろうなあ、こっちの森一くん。いきなり死ななくなりました、って言われても」
「あと、顔も変わっていますからね」
「げ、忘れてた」
「こんな感じです」
僕はこのときのために持ってきていた鏡を持って、倉上さんに渡す。
鏡を見ながら彼女は、五割増し、と呟いた。
「びっくりさせておけばいいんです。そのくらいを受け止められないような、ふがいない人間じゃありませんから」
「おお。本人に言ってもらうと、すごい説得力」
「でしょう」
「あ、それじゃあさ、あした森一くんに色々説明するとき、時崎さんもついてきてよ。分かってる人がいれば心強いし」
「いえ、申し訳ないんですが、それは遠慮しておきます」
「いやいや。本人なんだから、遠慮はいらないって」
「言い方が悪かったですね。あした、倉上さんについていくことはできないんです。これから、この世界を出ていきますから」
沈黙。
驚きがまだ追い付いていないような顔で、倉上さんは、
「……え?」
「前々から、決めていたんです。私でこの連鎖を終わりにしようって」
「う、うん。それはわかるけど。でも、別に自分が出ていくことはないじゃん。森一くんはタイムスリップしないし、私はちゃんと生き残れたし。これで全部解決でしょ?」
「ひとつ、大きなことを忘れています」
ずっと前から、決めていたことだった。
前の時崎の意図に気づいたときから。香住森一と、時崎の連鎖を自分が終わらせようと、決意したときから。
ずっと。
「僕は、倉上さんが好きなんです。
それも、僕が好きなのは、あなたじゃない。僕が、僕の世界で初めて会った。悲しい別れがあると、そう告げられても好きになった。僕のことを『変なやつ』と呼んだ……。
無限にも見えるようなたくさんの世界のなかで、僕のことだけを見てくれた、『あの倉上さん』が、好きなんです。
彼女のいない世界で永遠に生きるつもりはない。僕が永遠に一緒にいたいのは、『あなた』ではないんです」
倉上さんは、僕の言葉を受け止めて、小さく呟いた。
「……『あなたとよろしくする気はありません――永遠に』、かあ……」
そして、寂しそうに笑った。
「どうするの、これから」
「世界を巡ります。私の時間逆行は、世界移動を伴いますから」
「それで?」
「元いた世界を、探します。もう一度、倉上さんに会えるまで、ずっと」
ほとんど涙ぐむみたいにして、彼女は、
「世界の数は、無限にあるよ?」
「無限にはありません」
「でも、それに近い」
「私は不老不死ですから。いつか終わる旅路なら、それで構いません」
「心が保たないよ」
「保たせます」
「どうやって?」
「だいじょうぶです。私は、この星でいちばん恋の才能がある人間らしいですから」
思いがけないことを言われた、という顔で、彼女は。
「……なにそれ」
「友人から言われたことです。……終わりがあるなら、終わりまで歩けます。私は、そのつもりです」
「止めても無駄?」
「ええ」
「竹緒ちゃんが泣くよ」
「もう泣かせてきました。……伊名城さんにも殴られて」
「それをあと何億回も、何兆回もやるの?」
「もっとでしょうね。何那由他、何不可思議……」
「極悪人」
「好き、というのは」
いざ口にすると、少し恥ずかしいような気持ちも、いまだに残っていた。
「なにかをいちばんに考える、ということです。ほかの世界の香住森一も、時崎も、全員が『あなたたち』を選んだ。……そして僕は、『あなた』じゃない、僕の出会った『倉上花音』を選んだ。
なんとでも呼べばいい。
でも、僕は、彼女が好きです。
〈好きだけど、もういい〉なんて言葉、絶対に言う気はありません。
自分の言葉は、自分で決める」
それでもなお、倉上さんはなにかを言おうとしていた。
けれど、やがてなんの言葉も見つからなかったのか、強く目を瞑って、開いて。
「ジュース。……奢ってあげようと思ったんだけど、いる?」
「いりません」
「だよね」
あーあ、と倉上さんは、溜息を吐いて、
「なにもかも上手く、っていうわけにはいかないか。私、気に入ってたんだけどな。結び荘のこと」
「結び荘は残りますよ。権利人は都に、管理人は伊名城さんに引き継ぎましたから」
「そういうことじゃなくて。ずっとこのままが続いたらいいな、って思ってたって話」
「どんな未来も、いつかは向き合わなければならないものですからね。……受け売りですが」
「だれの言葉?」
「私です。前の」
変なの、と口を尖らせて、倉上さんは天を仰ぐ。
「その割に、桜はまだ咲いてないし。どうせ未来が来るなら、そのくらいさっさと来てくれてもいいのに」
「春分はあさってですからね」
「ちょっとくらいおまけしてくれてもいいじゃん」
時計を見た。
二十三時、五十九分。
それでも一日、早くなってしまうけれど。
「見せてあげましょうか」
「え?」
「花を。……魔法というわけにはいきませんが」
僕は懐から、日記帳を取り出す。
結局一度も使わないまま、真っ白なページばかりが綴じられたそれを、全部取り外して。
「いきますよ」
「な、なに?」
「顔に当たったら、それはまあ、すみません」
「ちょっと、怖いんだけど!」
両手に乗せる。
目を瞑って、これまでのことを、僕は思い出す。
冬、秋、夏、春。そうしてもう一巡。
この結び荘で過ごした日々のこと。
結び荘ができる前のこと。旅をした記憶。どんどん歴史はさかのぼっていく。昭和、大正、明治、江戸、戦国、南北朝、鎌倉、平安……。千年の時のすべて。
そしてまた、結び荘と。
初めて恋した彼女のことを。
時間逆行が始まる。
嵐のような風が吹く。この星から魂ごと放り出されてしまいそうな、強い風。
「わ、綺麗……」
かろうじて、倉上さんの声が聞こえてくる。
上手くいったとわかって、ほっとする。
きっと白紙の日記帳は、花びらのように、風に舞い上がっている。
目を開けて見たら、きっと美しいだろう。
でも僕は、そうしない。
そこにはなにも書かれていないことを、知っているから。
運命は、今はどこにもない。
約束なんか、まだなにもされていない。
そのことを知っているから。
ほかのだれかの言葉なんて、いらないから。
運命は自分で決めるもので。
約束は自分の言葉でするものだと、知っているから。
一際強い風が吹いて、僕は瞼の裏に、倉上さんの姿を思い浮かべている。
僕はいちばん最初に、彼女に言った言葉を思い出して。
最初の約束を、いま決めた。
あなたとよろしくする気はありません――永遠に。
だから永遠が終わったら、また会いましょう。
去りゆく世界の春にさよならを告げて、僕は旅立つ。
僕のための春が待つ、ずっとずっと、遠い場所へ。
大きな不安と、それよりもずっと大きな希望を、胸に灯して。
風に乗って、すべての春の花がそうしてきたみたいに。
たったひとつの恋が待つ場所へ、必死になって、歩いていく。
遠い昔に芽吹いて、遠い今に花を開く。
永遠によく似た、春の恋だった。




