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たとえ深い死の影を歩もうとも  作者: 篁 霞流
Est autem fides credere quod nondum vides ー 信仰とは見えないものを信じることに外ならないー
1/1

In principio creavit Deus caelum et terram. ー初めに、神は、天と地をつくったー

 

 これから語られるのは、此処ではないどこか遠い世界のお伽噺、その創世からの物語だ。神によって多種多様な”イキモノ”が生み出されたころからの、ごくありふれた小さな話。


 はじまりの頃、這うモノも飛ぶモノも、小さきモノも強きモノも、産み落とされたモノは等しく平和に暮らしていた。喰らうモノと喰らわれるモノの違いはあれど、定められた枠組みの中で、粛々と営みは続いていた。そして、その全ては、神の目に善とされていた。

 それが少しばかり変化したのは、創世よりしばらくのち、誰にも数えられぬほどの時が流れたのちのことである。創造の神が再び地を見降ろしたのだ。自らが創造したモノの行く様を見ようとしてであった。

 時を経て、少しも変わらぬ営みがそこにあったとき、僅かばかりの不満を感じたのは、神の悪戯であったか、はたまた寂寥であったのか。

 再び創造の手がふるわれた地に現れた種、それが”人”である。神に似た知性を持つ存在として生み出されたそれは、地が再びの永い時を重ねるとき、次第に他のモノとは一線を画し、決して他と交わる事を良しとしない誇り高い種となっていった。

 彼らは地の中央に住み、与えられた高い知性を思うがままに揮うことで、必然とも思える平和を享受し続けた。子をなし、育み、次の世代に命を繋いでゆく。今に至るまで“楽園”と語り継がれる豊かな土地で、繁栄の一途を辿っていった。

 そうして人が増え広がった地に”王”が生まれのもまた必然だったのだろう。

 名に王と冠した一族は、次第に増長し、哄笑し、創造主たる神にさえ歯向かうほどの傲慢さを示した。民もまた、王のもとに自らの権威を誇示する塔を建て、高く高く昇り続け、自分自身を全知全能と奢り高ぶったのだ。

 そこに下った災厄は、間違いなく神よりの裁きであった。

 それは疫病であったとも、降り注ぐ石塊であったとも伝わるが、真のところは判然としない。いずれにせよ、予見できぬ唐突さで下った災厄は、民を容赦なく襲い、全てのモノは不毛な大地にまで追い散らされた。

 今にも消えそうな“人”の命運。その終焉の足音を皆が聞いていたのだ。


 物語はそこから加速する。


 怯える”人”の時代の最後に生き残った男があった。

 王を冠した一族の末席に連なり、終末の始まりを知る、最後の男だった。

 人々から、再び、あの”楽園”を取り戻す事が出来るのではないか。地の王として君臨する事が出来るのではないか、と期待を抱かれながら成長した男だった。

 もとより災厄が下った時、幼子であった子どもが同じような幻想を抱けるはずもなかったけれど、それでも”王”の末裔として、”人”の終焉に立ち会う者として、彼は最後まで立ったという。


 どうか。どうか平和のあの地に再び――。


 人々の願いを男の最後を伝えるモノはあまりない。

 力の限りに戦ったのか、はたまた、呪ったのか。紡ぎ手を失くしてしまった歴史は、創世の寓話として伝わるのみとなり、なにも語らないからだ。

 不確かな寓話に縋るとすれば、その男は後に”アセヴェレラ”と名乗ったのだという。

 アセヴェレラ――傍観者、アセヴェレラ。


 男の寓話を最期に、創世の物語は一度終わりを迎える。


 その史が再び開かれるのは、それから更に幾百年、幾千年、幾万年か後の時代だ。


 それは”人”と似て非なる”人族”がこの地の支配者として頭角を現したころ、”今”の世界は始まった。どこからともなく現れた”人族”は、暴虐の限りを尽くし、自らの居住地を広げていった。ある者は同じ肌の色の者と、ある者は同じ言語を話す者たちと、又ある者は同じ野望を持つ者たちと集まり、そうでない者と敵対した。やがて、部族とも国民とも呼ばれる集合体が立ち上がり、王国となり、そうして”今”の世界は定まったのだという。


 さて、世界の支配者を”人族”に譲ってなお、”人”は連綿と命を紡いでいた。

 それは細く細く、なにがしかの執念を持って繋がれた命。創世の時代より今へ繋がった一族をヴァガリと呼ぶ。失われた時代から現れたと称され、今の世界にあって、定住の場所を持たず、国を持たず、寄る辺なく彷徨う民のことだ。

“流浪の民”と名付けられた、ヴァガリ。

 アセヴェレラの子孫とされる彼らの名は、再興された人類史の始めからあらゆるところに見出すことが出来る。しかし、ただの一度も国を持った事はない。“国”ではなく“民”として存在し続ける事を選択し、群れない群となった彼らの特異な民族性のゆえに、数々の迫害を受けてきた。だが、彼らはどれほどの苦難に遭おうとも、決して膝を屈さず、さりとて怨念を抱く事もなく、ただ流れ続けている。

 彼らは、ヴァガリの始まりの長オクトが遺した言葉を信じ、真の王を待ち侘びているからだ。彼らの唱え続け、宣べ続けるそれが、さらに迫害の火種を燃やすとしても――。


 

 これは、此処ではないどこかに産み落とされた人の子らの物語。

 その世界が創造されたその日に産み落とされし“人”が、地に増え広がり、絶望を知り、救世主を待ち望み、そうして救いを手に入れるまでの物語だ。

 


 人々よ、絶望を知り、希望に縋れ。




 ――人の子よ、預言せよ。声高に告げよ。あなたは怠惰に云わねばならない。『地がこのように謡う。「民よ、耳を向けよ。一身に聞け。この調べは終わりに向かって息を弾ませていくものであり、遅れることはない。偽ることはない。それは必ず興る。」』

 このゆえに、強き者たち、廉直な者たちは泣き叫べ。災いのゆえに、王に請い願え。新しい歌をうたい、弦を掻き鳴らせ。その請願は天地を畏れ慄かせるからだ。そうだ、声の限りを尽くして、王の到来を待ち望め。

                           

                    流浪の民ヴァガリの長・オクト 臨終の謌――



 

  


 


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