3、なし崩しの契約成立
学園の図書室は、どこか神秘的な雰囲気の漂う場所であった。
校庭の北側に広がる常緑樹の森。木々に囲まれるようにしてレンガ造りの細長い塔が建っている。
その塔全体が図書室になっていた。
地形のせいか生徒たちは滅多に寄り付かず、中は静寂と不思議な匂いに満ちている。
天井まで吹き抜けになった空間が広がり、窓は天窓が一つだけ。あまりにも高い位置にあるため、下から見上げてもぼんやりとした光が見えるだけだ。
しかし、そのままじっと目を凝らしていれば次第に見えてくる。
天井近くを浮遊する無数の球体--「知識の水晶玉」だ。
「……ん……」
膝を抱えて床に座り込んでいたニーナが、ゆっくりと目を開けた。
伸びをしながら手を広げると、掌に納まっていた水晶玉がふわりと飛び立つ。鈍い桃色に光るそれは、吸い込まれるように上昇し見えなくなった。
「また会ったな」
眠そうな瞳で水晶玉を見上げていたニーナは、肩越しに声の主を睨みつけた。
「……教授が会いに来たんでしょ?」
会ったのが偶然みたいに言わないで、と無言でつっこむ。
「その通りだ」
アキは例の不敵な笑みを浮かべ、ニーナの隣に来ると腰を下ろした。
昨夜のレンとの短いやり取りの後、彼はディジーと寝るでもなくさっさと帰ってしまった。
「あいつにはなるべく近づくな」
レンの方もニーナにそれだけ言うと、それ以上の話を決してしようとしなかった。そしてニーナが仕事を終える少し前に、ふいとどこかへ出かけてしまったのである。
そのまま朝になってもレンは帰ってこなかった。
「何を調べてたんだ?」
アキが水晶玉を見上げながら聞いた。
「四十八手の解説書」
「あるのかここに」
「冗談よ」
「……」
無表情でお互いの顔を見つめあうニーナとアキ。
けれど引き結ばれたアキの唇はぴくぴくと引きつっているし、間違いなく青筋が浮いている。
唇の隙間から押し殺した呟きが漏れていた。
「この俺をおちょくるとは……いい度胸だ。人間ふぜいが」
「ん?」
よく聞こえなかったニーナが、下からアキの顔を覗き込むようにして聞き返す。
アキは目を細めて彼女の顔を見下ろすと、口を動かさずに「いいだろう」と呟いた。
ニーナはその瞬間、本能的に身の危険を感じて身体をのけぞらす。しかし、アキが彼女の腕をつかんで床に押し倒す動きの方が素早かった。
「なんっ……」
驚きの声は途中から、重ねられたアキの唇に吸い込まれた。そのまま深く口づけられる。
とっさに目を閉じてしまったせいで、意識は嫌でも彼の舌の動きに集中する。
すくいあげられ、吸われ、なぞられ、甘噛みされて。
成す術もなく、されるがままだったニーナが違和感を感じて眉を潜めた。
今、口腔内に感じた微かな味は、血ではないだろうか?
薄目を開けると、からかうようなアキの視線とぶつかった。
「!」
驚いた拍子に、先ほど感じた違和感の正体である液体が喉元を通っていった。
「……あ……」
「ちゃんと受け入れたな」
ニーナの白い喉が上下したのを確認して、アキは彼女の戒めを解いた。
身体を起こし床に座りなおすその姿を、ニーナは身動きもできずに呆然と見つめる。
「今の、血じゃなかった?」
視線をアキの口元にやると、下唇に血がにじんでいる。
「そうだ。これでお前は俺のものになった」
「は?」
床に寝転がったままニーナが間抜けな返事をした。
「俺の血を受けれいれた相手とは、自動的に契約が成立する。俺は契約者に対し力を分け与え、その身を保護する義務がある。契約者は俺のために仕えなければならない」
ニーナははじけるように飛び起きた。
「俺が悪魔だということは知ってるな?」
文句を言おうとしたところで唐突に質問され、面食らったニーナが曖昧に頷く。
それを確認したアキが再び口を開いた。
「光世界と闇世界のことは知っているか?」
「え、と……神学の授業で教わる程度のことなら」
ニーナの返事にアキは頷いてみせた。
その視線に「説明してみろ」という彼の意図を感じ、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「光世界は善と平和の象徴。闇世界は悪と混乱の象徴。光世界と闇世界は永遠に闘い続けている……それは善と悪の力の均衡が取れているから。悪が無くなることも善が無くなることもない。どちらかが片方よりも強くなってはいけない。
この世界はその微妙なバランスの上に成り立っている。善と悪のバランスが崩れる時、世界は滅びる」
「合格点。さすが成績優秀者なだけあるな」
「魔法以外はね」
ニーナは肩をすくめた。彼女の魔力はかなり弱いため、魔法の授業では常に落第すれすれだ。
その穴埋めをするかのように、一般科目では学園一と言って良いほど成績が良い。しかし魔力の高い者ほど重宝されるこの世界においては、価値がないも同然だった。
「じゃあ悪魔と善魔の違いは?」
「光世界の住人は善魔。闇世界の住人が……悪魔」
チラリと上目遣いにアキを見る。
「善魔は人間界に善と平和をもたらすよう働きかける。その反対に悪魔は悪と混乱をもたらすように働きかける」
「その通り。そこから先は授業じゃ教わらないだろう?」
ニーナが頷いた。
「善魔と悪魔の働きによって人間の魂は善と悪に染められる。その人間が死して冥界の王の裁きを受けた時、善の比率が高ければ光世界へ。悪の比率が高ければ闇世界の住人となるんだ。
光世界と闇世界の闘いにおいて、戦力は多い方が良い。だから善魔も悪魔も積極的に人間界に介入する」
そこでアキはニーナの視線に気がついて苦笑した。その顔は神妙に授業を受ける生徒そのものといったもので、瞳には知的好奇心が溢れんばかりに輝いている。
「悪魔なのに教えるのが上手ね、アキ教授」
「アキでいい。どうせ教授という立場は一時的なものに過ぎないからな」
答えながらアキは、ニーナが初めて自分の名を呼んだことに気づいていた。
ようやく彼女の中で自分という存在がそれだけの価値を持ったということだろうか。
考えながらも話を続ける。
「実は闇世界の俺の屋敷で盗難事件があってな。まあ、それはいつものことなんだが」
「……いつもなんだ」
「闇世界の住人の本質は、悪だ。同じ世界の住人同士であっても、常に相手を陥れ蹴落とすことを考えている。
俺の位は高いからな。その座を狙って暗殺者に狙われたり敵から差し向けられた盗賊が忍び込むことは日常茶飯事だ」
ニヤリとアキが笑う。
なんだか壮絶な話だ……と考えていたニーナは、続けて語られたアキの言葉に目を瞠った。
「盗賊団のほとんどはその場で始末したんだが、人間界に逃げ込んだ奴が居たんだ。そいつが持って逃げた宝物が非常に危険な代物で、何としても取り返さねばならない。
俺はそいつを追ってここに来たんだ。お前には俺の手助けをしてもらう」
「なんで私が!」
「ちょうど人間界での手駒が欲しいと思ってたんだ。闇世界から俺の部下を呼び寄せると、その気配で盗賊が逃げるからな。残念ながら俺ほど完璧に気配を消すことができる部下は居ない」
問いかけるようなニーナの視線に、最後の一言を付け加える。
要するにアキほどの実力者でなければ、敵に悟られないほど完璧に気配を消すことができないということか。
「闇系統の魔女でも探して使い魔にしようかと思っていたんだが。
レンとか言ったか? あの大男。お前、あいつから俺が悪魔だって教えられただろう。正体を説明する手間も省けたし、同じ学園に居るからピッタリだと思ってな」
「断る」
アキの話を聞き終えたニーナが即座に言い放った。
だがアキはニマァ、と人の悪い笑みを浮かべると嬉しさを隠し切れない声で答えた。
「もう契約は成立した。破棄することは不可能だ」